にゃんと不思議にご満悦───────────
「アナイクス先生、本当に大丈夫ですか?他に変わりはないですか?」
「アナイクスではなくアナクサゴラスです。はぁ……、この2ヶ所以外に異状はありませんので、問診は不要です」
神悟の樹庭──『知種学派』の教室にて。
本日は学派設立以来の珍しい出来事が訪れた。
創始者であり教授であるアナイクスが、ファイノンとキャストリスの二人と行っていた実験の最中に、それは起こった。
最初に気付いたのは、近くに控えていた彼の助手であるヒアンシー。異変に気付き実験を中止させようとしたが、惜しくも間に合わず。
アナイクスが調合した試験管から突如彼へ向けて白い煙が立ち上り、教壇周りが見えなくなるほど厚い煙に覆われる。
吸い込まないようにヒアンシーは咄嗟に口を塞ぎ、教室の扉、窓ととにかく換気に急いだ。
今日の授業は、アナイクスの生徒であると同時に黄金裔でもある彼らのみで行われていたことが、大きな混乱には至らなかったのが幸いした。
しばらくして危機は去ったが結果として3人はまじまじとアナイクスを──もとい、アナイクスの頭部を観察せずにはいられなくなってしまう。
それぞれが驚き、不可思議そうに、首を傾げたりしながら。
「本当に不思議です。先生に、サフェル様のような耳と尻尾が生えるだなんて…」
「ああ、だから見たことがあると思った!たしか、えーと……」
「猫、でしたよね?キメラちゃんたちとは違った生き物の一種で、すごく気まぐれな種族なんだとか」
「そうですね、まるであの方のような生き物だったかと記憶しています」
口々に話す彼らの視線の先。
白煙が消えていくと現れたのはアナイクスの姿だけではなく───彼の頭部にひょこりと揺れる、髪色と同じ毛並みを持つ猫の耳と。
「あなた達、いつまで私を囲んで話し続けるつもりです。早く席に戻りなさい」
これまた同じ色をした、不機嫌をあらわに振る猫の尻尾を見せたのだった。
*
「次は咥内を見ますね。先生、お口をあーんってしてください」
「……………」
椅子に座りヒアンシーを見上げる形になるアナイクスは、指示通りに口を開いてみせた。
棒状の器具を舌に添えるように置き、ヒアンシーは覗き込んでアナイクスの咥内を調べる。
「あ、異常は無さそうですね。色も綺麗ですし……歯が小さな牙になってますけど、先生、これは元からではないですよね?」
こくりと小さく頷くアナイクス。
「はい、お疲れ様でした」
ヒアンシーも一緒に頷いて、診察は終了した。
「───だから言ったでしょう、他に異状はないと」
「先生の言葉を信じてはいますが、それでも確かめなければならないのが医師としての務めですから。今出来る限りのことをしただけですけれど…それでもしっかりと診た上で、先生の身体は普段と変わりありませんって聞けた方が、少し安心しませんか?」
「……そういうものですか」
「そういうものですよ」
昏光の庭の医師は、アナイクスの助手は、それは頼もしそうに微笑んだ。
どこか居心地悪そうに目を逸らすアナイクスだが、尻尾は心境を表しているのか、大きくゆっくりと振っている。
本人からすれば無意識なのだろうが、元気そうな尻尾を見てヒアンシーは何となく安心してくれていると感じて。
「キャスたん達も頑張ってくれていますから、きっと先生もすぐ元に戻れます」
器具を片付けながら、今は二人だけになった教室内を見回す。
現在、ファイノンとキャストリスは樹庭中を駆け回り、アナイクスの身に起きた異変に関する資料や解決策を探しに出ていた。
そのため教室の外には「本日休講」と簡潔な
張り紙をし、人避けも抜かりなく行われ、ヒアンシーは診療に専念出来ているというわけなのだが。
「気持ちだけで十分です。私の不注意が招いた事故なのですから、私自身で解決すると言っても聞かないですし……。しかも、授業の時より活き活きとしていますよね?」
「先生のお役に立てるのが嬉しいんですよ〜。緊急事態ですから、遠慮なくわたし達を頼ってください」
器具を乗せたトレーを持ち、ヒアンシーが席を離れ教壇に向かう。
ふい、とそれをアナイクスが思わず視線で追いかけたことには──ヒアンシーが先程から何かをするたびにしていた反応には、気付かずに。
教卓には普段実験器具や教具が置かれているが、今日に限りヒアンシーの医療器具やファイノン達が集めてきた資料が積まれている。
そっと資料を避けて片付けながら、後ろの席で待つアナイクスへ話す。
「わたし、さっき少しお菓子やお茶を持ってきたんです。味はわたしが保証しますので、せっかくですからどうですか?せんっ……」
そしてにこやかに振り返った───驚いた。
音もなく、いつの間にか背後にいたアナイクスに。
「ヒアンシー?何です?」
「こ、こっちの台詞ですよ!びっくりするじゃないですか…!」
「…?」
背後──教壇に立つヒアンシーの一段下でアナイクスは、彼女の反応にゆるく首を傾げる。何故そのような反応をしたのか分からない、とでも言いたげに。
師の様子に助手は困惑が募っていく。
何かあったのかと尋ねるよりも、ちょうど肩の辺りにくるふわふわの猫耳と自身を上目に見遣り首を傾げる彼に、驚きの動揺とは違った胸の高鳴りを感じていた自分に。
無意識なのだとしたらたちが悪い。
わざとやっているのだとしたら、わたしをどうしたいんですか!と言いたくなるのを堪え、ヒアンシーは急いで前を向く。
「刃物もあって危ないので、席で待っててください。片付けたら、お茶も用意して持って行くので…」
「手伝いますよ、ヒアンシー」
「ありがとうございます。でも、すぐに済みますか、らっ…?」
優しい声音が、先程の様子と重なると甘えているように聞こえて、つい口調が走る。
しかしそれも再び、不意の気まぐれにより止められてしまった。
振り返らずとも肩越しに感じる体温。
今、アナイクスは、その小さな肩に自身の額を預けていた。
「───せん、せい?」
「………ふん…」
呼び掛ける。
すぐにふわふわの猫耳が、柔らかな髪が、ヒアンシーに擦り寄る。
手にしていた器具をゆっくりと教卓に置き、かわりに、恐る恐るあたたかな方へ手を伸ばす。
ぽん、と軽く添えれば、今度は掌に擦り寄ってきた。仕種から伝わる要求に、ヒアンシーは応えた。
「ふふん……」
優しく頭を撫で遣れば、満足げな声が返ってくる。
(〜〜〜〜っ…。本当に何なんですか、先生…!そんな、そんな………可愛いことを、しないでください…!)
ばくばくと破裂しそうなくらいに暴れる心臓。
もはや隠せない愛おしさ。アナイクスのためを思えば口が裂けても言えなかった感情が、ヒアンシーの中で爆発した。
撫でるだけ擦り寄ってきて、手を止めれば催促される。時折髪から覗く蕩けた瞳と視線がぶつかり、すぐにでも教室を飛び出して行きたい衝動と、もっと見ていたい、触れていたい気持ちが膨れ上がる。
だが、ヒアンシーには未だ、猫という生き物がそれほど理解出来ていなかった。
単なる気まぐれな性格というだけではなく、特に信頼している相手にこそ、無条件に無防備なのだと───
*
「アナイクス先生、ヒアンシーさん、戻ったよ!」
「ただいま戻りました……あら?」
「おかえりなさい、お二人とも。そしてどうか、助けてください……!先生が、先生が……」
「はははっ!先生は随分とヒアンシーさんに懐いているみたいだね、すごいじゃないか!僕は威嚇されるだけだったのに…」
「ファイノン様…どうか気を落とさないでください。仕方ありません、ヒアンシー様のお膝は…子供達にもキメラ達にも大人気ですから」
「うぅぅ…!ですが、これはとても…これ以上耐えられそうになくって…!」
「まあ、楽しそうで何よりだよ。あ、そうそう、今回の件の原因と解決方法が分かったんだけれど…まだ話さない方が良いかな?」
「確かにこんなに可愛い先生が見られなくなるのは非常にもったいないのですが」
「すごく正直だね」
「はい。ですが、すぐにお話ししてください!じゃないと、わたしの心臓が持ちません…!」
「では、その前に一枚……はい、ありがとうございます」
「キャスたん!?」
「ふふ。あとでヒアンシー様にもお送りしますね。それでは、今回の件の原因であるサフェル様に全てをお話していただきましょう───」
「だから、本当に大丈夫なんだってば〜!体に害はないの!ただ、ある程度時間が経ったらどんどん猫みたいな行動を無意識にしちゃうってだけで、耳と尻尾はオプション!え?だってあった方が可愛いでしょ?──ふゃっ!いてて…ヒアンシーがなんか投げてきたぁ!?」
*