前の香取では煙たがられていたことは嫌というほど痛感していた。そのせいで香取を追い出されて今の基地に転属となったことを頭の悪い俺でも察している。
新しく来た基地ではそれは既に周知されていたようで、来た当初から俺を遠目にヒソヒソとこちらを伺って来る奴等ばかりだった。
一人は慣れている。
いっそこのまま皆、俺を避けてくれれば平穏にやっていけるんじゃねえか…?
俺の直属の上司である坂之上少佐は俺含む部下には興味が無い様子で、着任の挨拶をした際には「面倒事はやめてくれよ、後始末が面倒臭いからな。」と、今まで見てきた上官の中で最も活力のない人だった。
坂之上少佐をたまに見かける時は部隊長に戦略を興味なさげに伝えている時くらいで、自分の部下の見送りや出迎えすらしなかった。
香取での上官は俺の言動を逐一見張ってぶん殴って来たから、今回の上官はこの無関心が逆にやりやすいと思っていた。
だが、やりやすいのは俺だけではなく他の奴らも同様だった。何をしても咎める上官がいないからだ。
「貴様、鮮人なんだってな?」
酒保で買った酒を食堂でちびちびやりながらぼんやりと立ち上る紫煙を眺めていると、上から声が降って来る。
照井一飛曹だ。
俺に何かと突っかかって来るこの暇人の言葉を聞こえぬふりをして、空になったコップに酒を注ぐと、その酒を照井に奪われ飲み干されてしまった。
「鮮人に酒なんぞ生意気だから俺が飲んでやるよ」
と薄ら笑いを浮かべる奴の脳天に、気がつくと酒瓶を振り下ろしていた。照井の頭に瓶が当たると質の悪い瓶は容易く砕け散る。
酒が飛び散る様を『買ったばかりなのにもったいねえな…』そんなことを思いながら割れた瓶の先端で倒れた照井の首元を狙った瞬間後頭部に鈍い痛みを感じ視界がぐらりと宙を向く。視界の端に小久保が椅子を持っているのが見える。あれで殴られたか…と気が付いた瞬間に暗転した。
ツヤツヤと輝く黒く長い髪が俺の頬をくすぐるのが好きだった。赤い手拭いを首に巻き、店内を駆け回るアイツの姿を眺めながら酒を飲むのが好きだった。
予科練の飛行訓練生の頃、近くの飯屋の看板娘だった2つ年上のあの女。
「アンタ顔色悪いからおまけしといたよ!」と、俺にいつも構ってきた。
あの頃も兵舎に居場所がなくて外出日にアイツの飯屋でで深酒をしていたある日、気がついたら連れ込み宿でアイツを抱いていた。
それからズルズルと関係が続き、突然「子供ができた」と言われた。
こんな俺でも親になるのかと驚いたが、しちまったもんは仕方がない。
俺なりに責任を取ろうと入籍の手筈を整えている時に俺の出自を知ったアイツに言われた
「あなた朝鮮人だったの…」
その瞳は今まで俺を見ていた暗く輝く瞳ではなく、澱んだ黒をしていた。
ああ、お前もそういう目で俺を見るのか。
それからこの飯屋には行かなくなったし、間も無くして香取に配属となったことで俺はアイツから逃げた。
だが一度、任務の都合で予科練を再度訪れなければならず一年ぶりに訪れた時、偶然アイツとまた出会ってしまったことがある。
店が予科練の門扉の斜め前だから偶然でもないだろうが…
俺を見つけるなり駆け寄って来て「アンタの子だよ」と見せられたガキは、認めたくないが俺に似た鋭い目をしていた。
「しらねーよ」
と通り過ぎると強い力で腕を掴まれ
「何で居なくなったんだい!?結婚するんじゃなかったのかい?!」とのたまう。
俺の出自を知ってあんな目をしたお前が何を言ってるんだ?
驚いて見返すと、アイツは澱んでいない目で俺を見上げていた。
そんなはずがない。あの時確かにお前は俺を拒絶した。でも何故今こんな目で俺を見る?
戸惑いと苛立ちとが入り混じり頭が混乱していると、突如頭がスッと覚めた。
もう全部面倒くさい。
「じゃあさ、今からもう一回やらせてくれよ。」
気がつくとこの言葉を口にしていた。
間髪入れずに平手打ちされ、踵を返し逃げるアイツの最後の顔はくしゃくしゃで、瞳には涙が浮かんでいた。それが最後に見たアイツの顔だった。
後頭部の鈍い痛みに眉間に力が入る。湿った土の匂いと硬い床の感覚で、夢を見ていたことに気がついた。
起き上がり痛む頭に手を添えると包帯が巻かれていた。
「あぁ、照井をぶん殴った時に…」
独りごつと
「面倒事は起こすなと言っただろう」と柵越しの上から声が聞こえる。
「坂之上少佐殿…」
部下の事など気にかけていないこの人が何故ここにいるんだ?まだ夢でも見ているのかと頭が混乱する。
「照井に朝鮮人だからと侮辱を受けたらしいな。」
こちらに一歩踏み出し近づいてくるとカチャリと坂之上少佐の腰に下がっている刀が鳴る。
「隊が荒れていることは気が付いていた。放ったらかしにし過ぎていたせいだな。すまない。」
軍帽の縁で顔は見えないが、普段のような気だるい声ではなくピリピリとした語気に固唾を飲む。
「いえ、少佐が謝ることではありません。俺の出自のせいですので。」
そうだ、どこへ行っても俺の出自が俺の邪魔をする。
下に敷かれたござを両手でギリリと強く握ると予想外の言葉が上から降って来た。
「民族は違えど人は変わらない。お前はお前だ。」
初めて言われた平等な言葉に頭が追いつかない。
坂之上少佐は隣の重営倉に首を向けると
「照井と小久保、お前らも同罪だぞ、以後改めろ。」
「はい、申し訳ありません。」
照井達の声が隣から聞こえる。
「ゲェ隣にいんのかよ…」
アイツらと壁一枚隣に閉じ込められている事に辟易していると坂之上少佐は踵を返し重営倉の外へと歩き出す。
「じゃあ話はつけたからな。外に出れたらもう面倒は起こさないでくれ。後始末が面倒だ。」
声が遠く響き渡る。その声はいつもの面倒そうなやる気のない坂之上少佐の声だった。