「初めまして! 東京でカメラマンの見習いやってます! こういう者です!」
大きな麦わら帽子を被った青年が名刺を差し出してくる。帽子の陰になっていても彼の顔は大輪のひまわりのような笑顔なのがよくわかる。とても気さくで明るい青年のようだ。
カメラマン見習いと書いてある下にアルファベットで「MASAO」と記されていた。
「ま…さお君? 今時はこんなお洒落な名刺があるんだね。」
裏面に自分で撮ったのであろう。写真が印刷されている名刺は初めて見た。アルファベットで名前を書いているのも“今風“ってやつなのかもしれない。
「おじさんよくローマ字読めましたね! そうです。まさお。正しいに雄と書いて正雄です! これは僕が初めてカメラマンになって撮った写真なんです! 東京タワー見たことありますか?」
この赤い鉄塔が噂の東京タワーと知り感嘆の声が溢れた。
「へぇ、これが東京タワー? 噂では聞いてたけど写真でも見たのは初めてだ。何せこの島は新聞も届かないからね。」
彼は肩から下げていた鞄を地面に下ろすとガサガサと写真の束を手渡してくる。
「他にもよかったら…! 東京で僕が撮った写真です!」
手渡された写真の束から上の数枚捲ると東京の名所の写真が写っていた。雷門と書いてある大きな提灯が下がった門、皇居の二重橋。次の写真を捲ると手がピクリ止まった。
正雄くんが俺が手をとめた写真を覗き込むと「あれ、おじさんもしかして軍人さんだったんですか?」
とこちらを見つめてきた。
「戦時中少しだけね。皆が靖国靖国と言っていたけどこれが靖国なのか…」
言葉では知っていても行ったこともなければ見たこともない。彼は今ここに祀られているのであろう…そう思うと長らく忘れていた胸の痛みを久しぶりに思い出した。
「ふーん、僕よくわからないんですよね、戦争とか靖国とか。」
今時の子らしい正直な感想に感傷的になっていた気持ちが解けると、つい笑みがこぼれてしまった。
「笑わないでくださいよー! 師匠にもお父さんにもそうやって時々馬鹿にされて笑われるんだ、僕。」
プクッと頬を膨らませ唇を尖らせる彼は、幼く見える。
「正雄くんは今いくつ?」
「あっ! 幼いって思ったでしょ! まあでも高校卒業して半年なんだ。今一八!」
背が高くしっかりした体つきだが幼さの残る雰囲気はやはり若さゆえだったか。
「あなたは? あ…名前も知りたいです!」
「田中って言います。年は四〇。君のお父さんくらいかな?」
俺も所帯を持っていたらこれくらいの子が居てもおかしくはないだろう。だが、生まれ持ったこの性のためそれは叶わない。そのため一人静かにこの小さな島でひっそりと暮らしている。
「うちのお父さん四八だよ! もう爺さん! 田中さんみたいに若々しい雰囲気も無いし!」
八こ上…また思い出してしまった在りし日のかの人にドキリと胸が爆ぜる。島の外の人と会うと刺激が強いな…とため息をついた。
「田中さん大丈夫? 顔色良くないですよ? 黒い布頭に巻いてるから暑いんじゃないですか? 僕の帽子使って!」
被っていた帽子を俺の頭に乗せると正雄くんは俺を真正面から覗き込む。
そこでヒュッと喉がなった。
八木さん…?
「えっ!? 冷や汗すごいですよ! 日陰行きましょう! 歩けますか? あぁー!!」
ぐらりと視界が真っ白になると残る聴覚で正雄くんの慌てた声が聞こえた。
埃っぽい空気が鼻をくすぐる。クシュンとくしゃみをすると自分が意識をなくしていたことを思い出した。
目の上にかかる濡れた布を取ると、納屋の天井が目に入り、俺の横には心配そうにこちらを覗く正雄くんが居た。
「あ、起きた。大丈夫ですか? 頭に巻いてた布、濡らさせてもらいました。」
似ている…似ているどころでは無い。同じ顔をしている。麦わら帽子や正雄くんの明るい性格で全く気が付かなかった。
「正雄くん、苗字は?」
震える声を悟られないよう喉に力を入れると思ったよりも大きな声になってしまった。
「わっ! びっくりした! 僕? 僕は八木! 八木正雄! あれ? もしかしてお父さんのこと知ってる? みんな僕の顔見ると驚くんだよね!」
…八木さん生きてたんですね、病気も治ったんですね。よかった…溢れ出そうになる涙をぐっと堪えて笑顔を顔に張り付かせる。
「八木? 知らないなぁ。実は昨夜寝不足で…助けてくれてありがとう。君のようないい青年の名前をきちんと知りたくてさ。」
まだふらつく体に力を入れ起き上がる。
「この島に来たってことは明後日のボゼを撮りに来たんだろ? 取り仕切ってるのが村長なんだ。紹介してあげるよ。」
そう言うと正雄くんはまたひまわりのような大きな笑顔をこちらに向けてきた。
「助かります! 何も準備も下調べもせずに来たんです!」
そんな彼を村長に紹介し、俺は逃げるようにしてその場を去ったのだった。
ーーーーーーーーーーーー
淀野さんが撮影に行きたいと言っていた悪石島の奇祭ボゼ。
体を赤や黒く塗った腰蓑を巻いた若者が異形の面を被り男根を模したボゼマラについた泥を女子供に擦りつけるという奇祭だ。
だけど先週撮影に行った学生運動の人波に押されぎっくり腰になってしまい、泣く泣く諦める羽目になった淀野さんを見た僕は一人コッソリと悪石島に行くことにした。
沢山写真を撮って帰れば寝込んでいる淀野さんも喜ぶかな?って。
島に到着して最初に会った島民の田中さんに紹介してもらった村長さんに良くしてもらったおかげで良い写真が沢山撮れて大満足で東京に戻ったんだけど、ずっと気になって仕方がないことがあった。
田中さんの顔、見たことがあるんだよな…あんな男前なおじさん、一度見たら忘れないんだけど…
現像室にて悪石島で撮影した写真を現像し終えたものを干していると、ボゼを写した奥に笑う田中さんが小さく写っている写真をみつけた。
「最近どこかで見たんだよなぁ…でも田中さんずっと島暮らしって言ってたしなぁ…」
思い出せずにうんうん唸っていると壁に下がる淀野さんが好きだった軍人さんの写真と目が合う。
「ん…?あれ?田中さん!!」
えー!!えー!!淀野さん!!…は今日は病院に行ってるし、その後きっと飲んで帰ってくる。どうしよう!!
あの写真、特攻隊の隊員さんだと思ってたし、淀野さんも「終わったことだから」と言っていたからてっきり亡くなった方だと思っていた。
つまり…どういうことだ?と首を捻っているとジリリリと部屋の電話が鳴る。
「はい!や、淀野です!」と電話に出ると「正雄か?」と父さんの声がした。
「あれ?お父さんどうしたの?」
「どうしたのじゃない。お前が鹿児島土産渡したいから来いと言ったんだろう。下宿先に行ってもお前はいないし、どうせ淀野さんの所だろうと思ったよ。」
そうだった。東京の取引先回りをすると言っていた父に、それなら土産を取りに来てと言っていたことを思い出す。
「あ!忘れてた!現像したらすぐ帰る!待ってて!」
急いで帰宅し、鹿児島で購入した“げたんは”を父さんと一緒に食べている時だった。
「お父さんさ、淀野さんの部屋に飾ってある男前の兵隊さんの写真知ってる?」
先ほどの衝撃を一人で抱えることが出来ず、父さんは何か知っていないだろうかと聞いてみる。
「…知らんな」
いつもの愛想のない返事だけで、想像通り父さんが何か知っている気配はない。
「淀野さん、その兵隊さんのこと好きだったんだって。あ!これ内緒ね!」
父さんのげたんはを食べる手がピタリ止まる。そうだよね。男の人が男の人好きだってビックリするよね。俺もビックリした。
「淀野さん、兵隊さんのこともう死んだ人みたいな言い方だったんだけどさ、悪石島にすっごくそっくりな人が居たんだよね。田中さんっていう。」
次のげたんはに手を伸ばすと、ずっとうつむいていた父さんがこちらを見つめている。最後のげたんははあげないぞと慌てて自分の懐紙にげたんはを確保した。
「田中?」
あれ、最後のげたんはに反応したわけじゃなかったのか。
「そう、眉毛キリッとしてて、男前な田中さん。戦争中軍人やってて40歳って言ってたかな。」
ガタリと立ち上がると、父さんはそのまま俺の下宿から駆け出て行ってしまったのだった。
ーーーーーーーーー
「シズちゃん本当に行っちゃうのかい?」
この島に不時着してからずっとお世話になっているカナエさんに家の鍵を返しに行った時だった。カナエさんの亡くなられた息子さんの代わりに牧畜の手伝いをして22年も気がつけば経っていた。
「今まで長い間お世話になりました。母が危篤だと電報が入って。長らく会えていなかった親不孝物なので顔を見せて安心させて逝かせたいんです。あと末っ子だけど俺長男なので、家のこともあるだろうからこれを機に地元へ帰ります。」
全ては嘘だ。電報も来ていないし親の死に目にも家にも興味はない。兎に角この島を一刻も早く出なければならない。
「シズちゃんがそこの砂浜に降りてきたのがまだ昨日の事のようだよ。もう20年以上前なんだね。戦争で死んだ倅よりも長い事一緒にいたからもう本当の子のように思っていたよ。」
涙を浮かべるカナエさんの肩に手を添える。俺にとっても実の親よりも長く一緒にいたカナエさんとの別れは心細いものだった。
「カナエさん、お元気で。手紙書きます。」
そう言い残し連絡船乗り場へと向かう。週に1本の連絡船の日が今日だった。
正雄くんは俺のことを知らない様子だった。だが死んだこととして消息を経っている俺にとって、八木さんのお子さんと接触をしたこと、名を明かしてしまったことは大きな失態だった。不安の種は摘んでおくためにもこの島を出ることを決意したのだった。
連絡船の待合で待っていると遥か彼方水平線からこちらへ船がやってくる。この連絡船は鹿児島からトカラ列島の島々を連絡し奄美大島が終点となる。
本土には戻りたくなかった俺は奄美大島行きを選んだ。
鹿児島からやってきた船から人がまばらに降りてくるのを横目に見やり、乗船を待っていると後ろから肩をガシリと掴まれる。
「志津摩…」
その声に油切れのブリキのようにゆっくりと振り返ると、会いたくて会いたくて堪らなかったあの人が目の前にいた。
「来るのが早すぎますよ、八木さん。」
嬉しさと、再開してしまった事への困惑が胸の中を渦巻くとパタッと大粒の涙がポロシャツの胸元に落ちて吸い込まれた。
「志津摩!」
強く抱き寄せられると肩にかけていた鞄が音を立てて床に転がる。
22年ぶりの八木さんは煙草の匂いがしなかった。男らしい香りもあの頃ほど強く無く、でも俺の記憶に残るあの八木さんの香りがする。
「っ八木さんはもう…っぁ頭の病気治ったんでしょう?っこんなことしちゃ…ダメですよ。」
止まらない涙と嗚咽できちんと言葉が出てこない。
それは八木さんも同じだった様で、耳元から啜り泣く声が止まる頃には連絡船の姿は港に居なかった。