日本の首都、東京というのは狭い土地に人口が密集しているだけあって、大きな駅ならばどこもかしこも人が多い。
そんな駅前の喧騒を抜け数分ほど歩いた所に、一際目を引く新しいビルが建っている。隣は森のような緑を有する広大な公園、その先には日本の官公庁が立ち並ぶエリア。
アール・デコ様式で文化財にも指定されそうなエントランスは、勿論年代物ではなく、フランス・パリの建築を精巧に再現した代物だ。そこに現代アートのモダンさを融合させたというのがこのホテルの建築家の自慢らしいが、その芸術性は、新一には少し分からない。
自分が分かるのは、ここが訪れた人間に対して別世界かとでも思うような空間を提供する場所であるということ、世界最高峰のホスピタリティを売りにしたホテルであるということだけだ。
「いらっしゃいませ」
エントランスを抜け、戸惑ったような女性客二人組に、そっと声を掛けた。
ホテルマンの鉄則。驚かせない、出しゃ張らない、だけどサービスは最大に。
まぁ、ホテルマンのというより、新一の鉄則だけど。
「ご宿泊でしょうか」
「え、あ、はい……っ」
女性らは顔をわずかに赤らめ、頷いた。
エントランスは窓がない一階にあり、照明も少し薄暗く設定されているので、深緑色のホテルの制服は更に暗く映る。驚かせたのかもしれないと思ったが、彼女らの顔を見るからにそうではなさそうだ。
「あ、あの……」
荷物の感じからして、女性の友人同士の一泊旅行。何かの記念にこのホテルに宿泊したというところだろうか。
新一はにこりと微笑む。
「どうぞ、こちらに。ご案内させて頂きます」
新一はさりげなく女性らの荷物を受け取って、奥のエレベーターへと移動した。こちらもクラシック調になったエレベーターに乗り、すぐ上のボタンを押す。三階に備えられたフロントフロアに着いてドアを開けると、眩しいばかりの光が差し込んだ。
「わぁ……!」
ここで思わずといった感嘆の声を漏らす客は、少なくない。
フロントのフロアは高い天井までの一面がガラス張りとなっており、そこからガーデニングデッキ、そしてその先の公園の緑と、低いながらも光と緑をふんだんに取り入れる設計となっているのだ。
「どうぞ。デッキへはあちらのドアから出られますので、よろしければぜひ散策もなさってください」
「は、はい……っ」
まだ惚けたような彼女らを連れ、あちこちに設けられたソファ席へと促す。
「あの?」
「当ホテルでは、こちらにお掛け頂いてチェックインをさせて頂いております。今、ウエルカムドリンクをお持ちしますね」
珍しいが、このホテルにはフロントのカウンターはなく、ホテルスタッフが客のもとに出向いて手続きをするのだ。そしてベルボーイやフロントスタッフという概念もなく、すべてのスタッフが、すべてのサービスを提供する。新一もベルボーイの制服を着ているものの、必要とあらばコンシェルジュ並みの対応も出来るだろう。
お客様に対して、徹底した心遣いを。
アメリカにある本社のホテルで始まったサービスである。
「……はわー、すご……、場違い感半端ないね」
「うん、でも、奮発してこのホテル取って良かったよね。一生の記念になる……!」
抑え気味ではあるが、興奮したような女性らの会話を耳に入れながら、新一はフロントスタッフへ引き継ぎの為、隅に設けられた小さなカウンターテーブルへと向かう。
足音も立たないような毛並みの絨毯であるが、それでも姿勢を正し、流れるような仕草で歩いた。ホテルマンも景観の一部。研修時代から徹底して叩き込まれたことだ。
「……にしても、あのベルボーイの人、かっこいい……。いいホテルって、スタッフの顔もサービスに入ってるのかな?」
聞き耳を立てているので、小さな会話も耳に入る。そんな訳がないだろう、と思うが、このホテルはスタッフも一流で確かに見目が整った者も多いと思う。
その中の一人である、今はパソコンの置かれたカウンターに立っている赤茶髪の女性に声を掛ける。
「宮野。女性二人のお客様。年齢からしておそらく今日チェックイン予定の野山様だ」
「了解。……相変わらずお客様のリストを覚えるのが上手いこと」
「……それ、褒めてねぇだろ」
客から死角になったここは当然スタッフの会話も届かなくなっており、彼女は新一と同期でもあるので、ついこんな口調になってしまう。
こんな仕事をしているが、プライベートでの新一は些か口が悪いタイプなのだ。
「そんなことないわよ。昨日も、あなたのお陰でお客様が無くされたっていうアクセサリー、見つかったし」
「あ、あれ見つかったんだ。良かった」
昨日宿泊をしていた女性客が、外での夕食から帰ってきた後かなり沈んだ顔をしていたので声を掛けたのだ。聞けば、夫に記念日にもらったピアスの片方を夕食時に無くしたようだということだった。
だが新一は、外出時に出かけていくその女性を見かけた時に、ピアスをしているのを見ていなかった。だから、ホテル内にあるのではと思い、彼女の部屋から廊下、立ち寄ったレストルームなどを捜索してもらったのだ。
所用で呼ばれていて捜索には加われなかったが、見つかったのならば良かったと思う。
「お礼言ってらしたわよ、とても。またチェックアウトの時に礼を言いたいって」
「実際に見つけたのは俺じゃねぇだろ」
「だとしても、よ。――はい、チェックインの準備出来たわよ。あなたが担当する?」
「いや、俺は……」
新一が言い淀んだ時に、ちょうど片耳につけていたイヤホンに着信が入った。
『工藤、お客様。シェパード』
チッと思わず舌打ちしそうになるのを堪えて、新一は「わかりました」と短く返した。
「悪い、呼び出し。さっきのお客様は他のやつに頼む」
新一の態度に宮野は何かを察したらしく、「あぁ」と面白げに微笑む。
「例のお客様?」
「……暇なんだとよ」
数日前からこのホテルのスウィートルームには一人の客が滞在している。「シェパード」とは隠語というほどでもない語呂合わせで、部屋のルームナンバーが4810なのでスタッフの間ではそう呼ばれている。
ひと月ほど滞在するVIPらしいが、何故か、その対応を新一が任されているのだ。
「ホテルマンらしからぬ言葉ね。お客様に最高のサービスを提供するのが私たちの仕事でしょ」
「……最高のサービス、ねぇ」
絶対オメーは面白がってるだけだろ、とは藪蛇なので言わない。
「まぁとりあえず、俺は上行かねぇと」
「せいぜい頑張ってお得意のホスピタリティ発揮してきなさいよ」
涼やかな顔で微笑む彼女を横目に、新一は肩を竦めて、スタッフ専用の裏手エレベーターへと向かったのだった。
♢ ♢ ♢
庶民の金銭感覚を持つ新一からしたら理解は出来ないが、一泊数十万はするホテルを自分の部屋がわりに使用するお金持ちというのは、この日本でも一定数存在する。
現在この部屋に泊まっている「安室透」もその一人らしい。当ホテルの最上級の部屋ではないが、その次のランクの部屋。ここにひと月も滞在するなんて、どれほどのセレブなのだ。
……あの人、すげぇ若そうなんだけどな。
ドアの横に備え付けられた小さなボタンを押す。デザイン性を重視してただのボタンのように見えるけれど、高性能カメラが備わったそれなので、中から新一が来たことはすぐ分かるだろう。
「どうぞ」
声がした。少し低い、一度聴いたら耳に残るような声。
職業柄、人の顔と特徴を覚えるのは得意だが、それでなくてもこの男は、一度見たら忘れられない容姿をしている。
「……失礼します」
新一はマスターキーで開錠し、部屋の中へと入った。
二部屋あるうちの最初の部屋、リビングを兼ねた部屋の中央に、その男は立っていた。
金のようなベージュのような髪、褐色に染まった肌、灰青の不思議な色の瞳は、彼に日本人以外の血が入っていることを示している。
男は珍しくスーツを着ていた。白いワイシャツを着て、袖のカフスを留めているところだった。
「……ご用でしょうか、安室様」
「あぁ、呼び出してごめん」
だったら呼び出すな、と思うのだが、これも仕事だ、と思い直す。大体この男は、悪いだなんてこれっぽっちも思っていないだろう。
「君にネクタイの色の好みを聞きたいなと思って」
「…………」
さすがに顔が引き攣りそうになったところで、安室はふっとその瞳を緩めた。
「冗談だよ。出掛けるから、車を用意してくれないか。それと、食事をする場所も手配してくれると嬉しい」
「……畏まりました」
だったらさっさとそう言ってくれればいいのに、この男は、何かと新一を揶揄いたがるのだ。それが新一が、ホテルマンとして徹底した態度を取れない所以でもあって。
――思えば、最初にこのホテルを訪れた時から、男は変だった。辺りを見回しながらエントランスに入ってきた男に、先ほどの女性客のように新一が声を掛けたのだ。
「いらっしゃいませ。本日はどのようなご利用でしょうか」
いつものように笑顔を作った新一に、男は何故かわずかに目を見張るようにした後、ゆっくりと微笑んだ。
「宿泊なんだ。エントランスが暗いので、少し驚いた」
「それは大変失礼いたしました。ただいま、ご案内します」
慇懃に礼をした新一が、荷物を持つと告げると、断られた。
「君のような細腰の子に持たせるなんて」
「……では、こちらへどうぞ」
荷物への断り文句を言ってくる客は一定数いるが、そんな断り方は初めてだ。女性のスタッフだって顧客の荷物を持つのは仕事なのだが、それは自らの立派な体格と比較しての嫌味だろうか。
……って、そんなことお客様に考えることすら失礼だ。
新一はペースを乱されないよう、気付かれぬよう深呼吸をする。そしてエレベーターに男を先に乗せると、自らも乗り込み、ボタンを押そうとした時だった。
男の手がすっと伸ばされて、新一のそれより早く、ボタンを押したのだ。
「えっ……」
「上の階を予約してる筈なんだ。そこで手続きしてくれないかな」
男が押したボタンは48階。確かに、今日はそこのフロアにVIP客が泊まることになっているけれど。
「……申し訳ありません。カードキーがないと、フロアにご案内することは出来ません」
「そうなんだ。でも君ならマスターキーを持ってるだろう?」
それはそうだが、こんな客は初めてだ。
……そもそも、すげぇ近いんだけど。
ボタンを押す為か、男の身体が新一のすぐ後ろにあった。すっぽりと覆われてしまいそうなその体格差に、先ほど細腰と呼ばれたのを思い出して、また眉が寄りそうになる。
新一は振り返った。あまりに距離が近くて、体を折って礼をすることは出来ないが、仕方がない。
「お客様のセキュリティの為ですので、どうかご理解ください」
にこりと、冷静に。どんなお客様でも、思っていることを顔に出さない。
そんな新一にどう思ったのか、男は肩を竦めるようにして笑う。
「わかったよ。無理を言ってすまない」
無理だという自覚はあったのか。我が儘な客はいるが、この男はただのそれとは違う気がする。
何というか、掴みどころのない男なのだ。
新一は再び男に背を向けると、フロントとなっている三階のボタンを押す。ようやく動き出した鋼の箱は軽い浮遊感を伴って、すぐに停まる。
男はフロントフロアに降りても眩しさに僅かに目を眇めたぐらいで、特段の反応はなかった。何となく悔しくて、だがそんな気持ちを想うことすらホテルマン失格な気がして、新一はさっさと他のスタッフにチェックインを任せようとソファへと男を促す。そもそもスウィートに泊まるような客ならば、自分よりももっと上のスタッフが対応すべきだ。
「ただいま、係のものを呼んでまいります」
慇懃な礼をして立ち去ろうとした新一に、「君でいいよ」と男が呼び止めた。
「あぁ、間違えたな。君が、いい。僕がこのホテルに滞在する間、担当は君がいいな」
「は……?」
今度こそ、顔に出てしまった。取り繕う間もなかった。
そんな口説き文句とも聴こえるようなそれは、初めてだった。
「……申し訳ありません。それは、上の者と相談しないと……」
戸惑う新一に、男は言う。
「客に、最高の時間とサービスを。それがこのホテルの売りなんだろう?」
――元々、新一は負けず嫌いな性格なのだ。ホテルマンらしくしおらしさを装っているけれど、本来、プライドも高くて。
どこか面白げとも思えるその顔に、新一の何かに火が点いた。
新一は深々と礼をした。
「お客様」に対する、最上級の敬意を払って。
「……畏まりました。私で、よろしければ」
「うん、よろしく。工藤君」
名前を教えたつもりもないのに、男はそう呼んだ。
――とまぁ、そんな初日から既に三日。
VIPも新一なら問題ないだろうとのことで、マネジャーからの許可も降りた。
そうして新一はこの男の担当となり、ことあるごとにこうして呼び出されている。
その用事は本当に些細なことで、美味い珈琲が飲みたいだの、クリーニングを頼むだの、枕を変えてくれだの。
正直新一でなくても誰でも対応出来るものだと思うのだが、なぜか、新一が退勤後にはそのような呼び出しはないらしい。
「お出掛けは、どちらでしょうか。ご夕食もその辺りでとられますか?」
「そう、渋谷まで。でも畏まった店じゃない方がいい。仕事の後、昔からの友人と気楽に食べる予定なんだ」
安室はここに来てから出掛けた様子がなかったので、ようやく仕事なのだろうか。だとしたら……。
「……承知しました。幾つかお店を見繕います。それと、絆創膏もお持ちしましょうか」
「え?」
男がその目を瞬かせた。
「失礼ですが、指先、怪我をされたんじゃないですか?」
先ほどカフスボタンを留めている男の仕草に、少し違和感を感じたのだ。そして良く見ると、まだボタンは留められないままで。
「……良く分かったね」
「ホテルマンですので」
客の一挙手一投足に目を配るのは当然のこと。
温度はどうか。喉は乾いていないか。体調は悪くないか。
何か困っていることは、ないか。
一流のホテルマンなら、当然のことだ。
さらりと答えた新一に、安室は、それまでの揶揄うような笑みではなく、ふっと自然な笑みを浮かべた。
「……ありがとう。もう血は止まったから大丈夫だよ。さっき紙で切ってしまったんだ」
「それならいいのですが……」
それでも一応消毒液と絆創膏を部屋に用意しておくか、と新一が思った時だった。
安室が新一に近寄って、すぐ前に立った。まるであのエレベーターの時と同じくらいの距離。
そうして新一に手を差し出したのだ。
「……ただ、ボタンを留めづらくて。悪いんだけど、これ、留めてくれないかな」
「は……」
差し出された手首に、新一は目を丸くする。
まさか、そんな困り事を提示されるとは予想外だ。
だが断ることも出来なくて、新一は逡巡の末に、手を出した。
……ただボタン留めるだけだし。
指先が、シャツの袖に触れた。四角くて黒い石のついたカフスボタンを、新一はそっと留める。じっと見られているからか、ただ留めるだけのその行為が、やけに緊張した。
どうにか留め終わって、手を離そうとした新一はふとそこに目を留める。
「……あれ?」
「どうかした?」
「あ、いえ失礼しました。袖に、Rって刺繍があったもので……」
男の名前は安室透だ。Rは何のイニシャルでもないが、何か別の意味があるのだろうか。
「あぁ、これ」
留め終わった袖口を見下ろして、安室は少し考えたようだった。
「……君なら、いいかな」
そうして、何がだ、と目線で窺い見た新一に。
「僕の本名。安室透は偽名で、降谷零と言うんだ」
「はぁ……」
偽名でホテルに泊まる客は意外といる。勿論本来はお断りだが、芸能人や有名人が身分を隠したい場合など、ホテル側も承知の上で、偽名を使う顧客はいる。
だが安室は見た目だけなら芸能人でも充分通じるだろうが、そうではないようだし、何故、偽名なのだ。
「……何か、安全上の理由でも?」
そうであるならば、外出時の食事場所など新一も考慮をしなければならないのだが。
だが、男はまたさらりと取り繕ったような顔に戻って。
「まだ、内緒かな」
――何だよ、それ。
思わず呆れが顔に出た新一に、安室こと降谷は、面白そうに、笑っていた。