いつか永遠になる / 2024年9月21~22日「第2回 ParallelGate 長月祭」展示 * * * * *
「彼のところへ?」
そのひとは、アーニャの腕からひとひら、風に吹かれて舞った花弁をそっと摘み取って訊ねた。
「……はい。昨日行ったばかりだから、多すぎるよって彼には笑われちゃうかもしれませんけど」
知らず知らずぼんやりしていたらしい。そこにそのひとがいることに気づいていなかったので、アーニャは内心どきりとしつつ、でもすぐ笑顔を見せる。あまり秋らしくない、思いのほか強い突風に驚いて顔を後ろへ背けたところで、ちょうどそのひとと目が合ったのだった。丘の墓地へ続く細い道で、昼間とはいえ誰に会うとも思っていなかったから意外だったけれど、この女性のことは芯から信頼しているし気持ちを許してもいる。
花束を抱える両腕は離したくなかったので、アーニャはごく軽く頭を揺すって、頬に絡んだ髪を払った。
「今日は、白薔薇姫様とご一緒じゃないんですか?」
「敬語なんていいのに」
アーニャの問いに、アセルスがくすりと笑みをこぼす。その表情がどうにも凛々しく艶めかしく、それでいて無邪気さみたいなものまで漂っているから、アーニャもまた困ったように笑った。
「すみません。でも、アセルスさんはやっぱり素敵すぎるから……つい」
他の妖魔を、とりわけ下位の妖魔を魅了してやまない力。決して、アセルス自身が望んで得たわけではない能力。彼女を幾度も葛藤させ――あるいは今なお苦しめる瞬間もあるのかもしれない、どうしようもない魅力。あえてそのことに触れるのを、アーニャはしかし躊躇わなかった。
遠慮をしたとてアセルスは喜びはしないだろうし、アーニャはアセルスの力にこそ感服しても、心奪われ蕩かされることはない。
恋する相手は、過去も今も、たった一人。
「白薔薇がいないと、駄目だったよ――実際、ずいぶんと長いこと」
アセルスが人差し指の先で、頬をちょっと掻いた。目を瞬かせるアーニャにさらに一歩近づいて、にこりと微笑みかける。
「私さ、一人でいるのがあまり得意じゃなかったから」
いつも不安で不安で、自己が揺らぐばかりだったから。愛してくれる誰かがそばにいなければ、自分を保てなかったから。他者を惹き付けるその力が本来の自分でない、オルロワージュのものだとわかっていても。
「でもアーニャ、君が教えてくれたんだよ」
「?」
アセルスはアーニャが胸に抱く花束へ目を落とした。何かを、誰かを懐かしむような視線。
「たとえ一緒にいられないとしても、それは孤独じゃないんだって――ううん。孤独かもしれないし、つらいかもしれないけど、誰かを好きにならない理由なんかないんだって」
慈しまれ支えてもらう日々から、恐れずに誰かを愛する未来へ。妖魔も人間も、そしてたぶん半妖も、種族の境目なんて関係なく、向かってゆけると。
「君と……君の好きなひとが、私に見せてくれたんだ」
花の香りに目を細め、それからアセルスは高い丘の上を見やり、しばし睫毛を伏せた。そこにあるだろう墓標と、その下で眠る人間の姿を――アーニャの大好きなひとのことを、たぶん瞼の裏に思い描きながら。
アーニャは花を抱き直した。
「……ありがとう。アセルスさん」
「私がお礼を言ってるんだよ。ありがとうね」
一緒に花を手向けに行きたい気もするけれど、デートのお邪魔になっちゃ悪いよねと、アセルスは白い歯をちらと見せた。行ってらっしゃい、またねとアーニャに手を振ろうとして、ふと彼女は思い出したように声を上げる。
「そうだ! アーニャ、最近はゾズマにからかわれてない? 大丈夫?」
「えっ?」
アーニャが軽く両肩を跳ね上げさせたことにアセルスは気づいたのかどうか、早口で続けた。
「あいつ昔、君に変なちょっかいかけたことあったみたいだから……何か困ることがあったら言ってね、ガツンとやっとくからさ!」
そこまで言ってアセルスは一瞬だけ拳を作ってみせ、今度こそじゃあねと手を振って駆けていく。アーニャは頷いて、手を振り返す代わりに頭を下げた。両手が花で塞がっているせいもあるけれどそれ以上に、動揺を悟られたくはなかった。
(ガツンと『言っとく』じゃなくて、『やっとく』だもの……アセルスさん)
隠しごとをするのは心苦しいけれど、ゾズマとアセルスとが万が一にもぶつかり合う騒ぎなんて、できることならば避けたい。
アセルスの後ろ姿が遠ざかったのを確認してからアーニャは、胸の花束をぎゅっと抱きしめた。
――唇は、許してあげるね――
耳たぶを掠めたゾズマの息の感触が、容易に蘇ってしまうから。
たったの一晩では、まだ記憶が生々しすぎたから。
* * * * *
下級妖魔にとって、上位の存在は畏怖の念の象徴みたいなもので、同時に避けようのない天災とほぼ同義のものでもある。
つまり何の前触れもなくいきなり目の前に訪れてきて、抗いようもないのだった。
「やあ。しばらくぶり」
たとえばそう、こういうふうにだ。アーニャは鏡台を前に髪を梳いていたところで、毛先の絡まりを直そうと視線を落としたのはものの数秒。ふと目を戻したその鏡面へ唐突に、でもずっとそこにいたのかと思うほど自然に、ゾズマの姿は映り込んでいた。
「……」
櫛を置き、彼を振り向いて見上げる。ゾズマと顔を合わすのは確かに、何年ぶりかだ。最後に会ったのは、アーニャがリアムを喪うよりも前のこと。まもなく天寿を全うするだろうリアムと対面こそしなかったけれど、彼という一人の人間に対し、ある種の敬意をゾズマは表してくれたと思う――生涯アーニャと想い合った彼を、ゾズマが嘲るようなことはなかった、という意味において。
「……こんにちは」
だからアーニャは、ゾズマの来訪に戸惑いはしても、警戒はしなかった。あとから思えば迂闊だったのだけれど、仮に警戒したところでさほど意味もなさない。下位の妖魔の意思なぞ無関係に、強制的に服従させることくらい彼にはたやすい。
ゾズマはまったくこともなげに、天気の話でもするかのように何気ない調子で切り出した。
「君の選んだ道――彼のいない永遠を生きる気分は、どんなもの?」
ああ、そうか。悟る。
(このひとはわたしに、興味があるんだ)
人間に対しては特段の関心はない。嘲ることがないのは、つまり無関心だから。でもありがたかった。ゾズマが好奇心を抱くのも見下すのも、基本的には妖魔のことだけ。彼が嘲るとすればその相手はアーニャであって、彼女の大好きな大好きなリアムを、彼が貶めることはない。
それだけで何も文句はなかった。アーニャは微笑みさえして、応じる。
「淋しいけど、後悔してない。人間の命は短いけど……リアムが人間だったからこそ、わたしの中に残ったものがあるから」
「ふうん?」
ゾズマの長い爪が、アーニャの肩先から彼女の髪をひとすじ掬った。指先だけといえど、彼が彼女に直接触れたのは初めて――少なくとも彼女の記憶においては過去一度もなかった――で、思わず驚く。
「……?」
「なるほど、人間そっくりの反応だ」
ぎゅ、と今度は、彼の片手が強く彼女の肩を掴んだ。振りほどく暇もなく、耳元へ唇が近づく。
「――っ!」
今度はもう反射的に、アーニャは彼の手から逃れようと身を捻った。が、
「ダメだよ」
命じられればそれだけで、四肢は自由がきかなくなる。彼女はみっともなくよろけて、椅子から転げ落ちた。ただ、床へ身体を打ち付ける痛みはない。ゾズマの腕が彼女の背へ回って、衝撃から庇ったからだ。倒れた椅子の脚もアーニャの顔でなく彼の肩を打ち付けたものの、跳ね返るほどの力もなく二人の脇で横倒しになった。
「君の中に、何が残っているって?」
仰向けにされて、見下ろされている。あと数センチのところまで、互いの肌が迫る。
「いやっ……」
身を固くした。それでも上級妖魔の手が背中から腰へと滑ってくると、跳ね上がるように震える。
「本当に、人間のようになったね」
肌を探られることで特異な感覚へと陥る、人ならではの反応。
「彼に教わったのかな?」
かあっと、頬が上気する――それもまた、彼女が無意識に人間の生態を真似ているにすぎない。
その頬の輪郭を、ゾズマの冷たい唇が食んだ。それこそまるで、人間が誰かを愛する仕草のように。小刻みに震える少女の耳の近くをついばんでから、ふと再び目を合わせる。互いの鼻先が、上唇が、今にも触れ合いそうになったその刹那、上級妖魔はくすりと笑いを漏らした。
「……怯え方まで、人間にそっくりだよ。おめでとう」
アーニャの目尻に滲みかかった涙を人差し指の背で押さえて拭うと、彼はもう一度、くちづけのようなそぶりをする。そぶりだけ。それでも顔をそむけようとするアーニャの様子をまた静かに笑って、あえて唇を触れさせるのはやはり耳元だけ。彼女の額にかかる髪を指先で流すと、
「大丈夫だよ……唇は、許してあげるね。彼だけのものだろうから」
言葉と共に彼の手が腰から胸元へと、滑らかに這い上がる。
「やめて……!」
もはや自分のものとも思えぬほど重たい両腕をそれでも前へ回して、アーニャは恩人の胸板を押しやろうとした。恩人。そうだ。一度は忘れ去ってしまったほど遠い過去に、死の淵で縋った相手。痛い、怖い、死にたくない、助けてと。あのとき彼女はこのひとに、救いを求めて泣いた。
(わたしを助けたのは、こうするため?)
違う。彼にそんな目的はなかった――ずっと見てきたからわかる。ただの気まぐれと興味本位で、試してみただけ。瀕死の下級妖魔を永らえさせたらどうなるのか、単に見てみたくなっただけ。
今この瞬間も、確かめているだけ。人間と深く通じ合った妖魔がどんな身体となったのか。
(リアム……)
思い出す、ぬくもり。人間の体内を巡る、赤い血液の温度。ほんのわずかな命の時間を、ひととき鮮やかに照らして満たす、優しい熱。自身はもとより、どんな位の高い妖魔でさえも持ちえないし、奪えもしないもの。
(ねえ、わたしは……わたし達は)
ゾズマに一度は拭き取られた涙が、静かに滲み出た。不思議なほど静かに――つい先刻までの怯えが薄れて、ゾズマを拒んでいたアーニャの両の手はむしろ、彼の冷たい胸元へそっと添えるように触れ直した。今は誰も拭い取らない涙が細くひとすじだけ、こめかみを伝って耳のそばへ流れ落ち、赤い髪に染みて消える。
ゾズマがアーニャに触れる手を止めた。彼女の様子の変化に驚くでもなく、笑うでもなく、ただ手を止めた。
一部の人間達が求めて求めてやまない、永遠にも近い命と、老いることのない肉体。その持ち主たる妖魔は、でも、これほど上位の存在でさえ本当は、
(そんな人間だけが持つ一瞬の温度に、どうしようもなく惹かれるのかもしれないんだ――)
人間にとっての妖魔よりも、もしかしたら妖魔にとっての人間こそが、限りなく未知の種族だったのかもしれない。あるいは、今でも。
「……君の答えは、これかな」
ゾズマの支配は解けていた。下級妖魔に上位の者の支配を破る力なぞないから、彼自身が解いたのだろう。アーニャはいつしか、てのひらを恩人の胸板から離し、彼の顎の先から頬へと指先を触れさせた。
畏怖。恐怖。畏敬――敬愛。
相容れないたくさんの感情が、いちどきに溢れ返る。
「ゾズマ」
本来なら、敬称もなしに呼ぶなどあり得ないはずの相手。思い返せばずいぶんと奇妙な縁だったし、この永い命の続くかぎりこれからもそうなのだと思う。アーニャはもう一粒だけ、音もなく涙をこぼした。
「あなたにも、かけがえのない誰かがいてくれること――願ってる」
面白い答えだったよ、と。
ゾズマはアーニャの前髪を撫でて、彼女の額にごくごく軽く、唇を落とした。
* * * * *
秋の花のつぼみを撫でる風に、アーニャは目を細めた。
(まだまだ夏みたいな陽気だと思ったけど……)
空の色も雲の形も、高い丘の上から見渡せば、季節の確かに巡りつつあるさまが見てとれる。
「ごめんね、リアム。今日も来ちゃった」
昨日供えた花束が、みずみずしいままに小さな墓標を飾っていた。そこへ屈み込みまた一つ、今しがた抱えてきた大きな花束を捧げる。
「……大丈夫。約束したもの。わたし、幸せに生きてるんだよ? ほんとだよ?」
空いた両手を地面へ当て、小さな石板に細く刻まれた彼の名前を覗き込む。膝で擦れた土のかけらが風に舞い上がった。
「……」
そよぐ花びらの触れ合う音を聞きながら、ふう、と肩を軽く下げる。
「なんて、言ってもきっと、全部見てるよね。リアムは」
いったん正座の姿勢になってから、両足を少し崩す。膝に手を乗せ、ちょうど目の高さにある墓標を改めて見つめた。
一日も間を置かずに会いにくるなんて何かあったと思われても当然で、まして彼はもう、とうに肉体の縛りから解放されている。生身のアーニャには知り得ない理を持った存在に多分なっていて、隠しごとなんてできる気がしなかった。
「幸せなのは、本当」
恋するひとは、この先もきっと彼一人で。
声を聞けない、触れ合えない、そのことはもちろん淋しい。だけど、妖魔の長い長い一生のぶんを超えても余りあるくらい思い出をもらった。
――ね、アーニャ。忘れないで。君には――
お別れが近づいたころ、囁いてくれた言葉を覚えている。
君には、君と同じ種族の誰かと幸せになる道もあるんだよ。
(ちゃんと、わかってる。大丈夫だよ)
微笑んだ。
リアムだって他の、人間の誰かと生きる選択肢を持っていながらそれを選ばなかったのに、ね。
でも、まだまだ時間を残されている自分はいつだって、あらゆる道を捨てちゃいけない。
命を全うすることは、生きる道を決して狭めないこと。自らの幸せの可能性を、縮めてしまわないこと。
それが、彼との約束。
(きっと守る。わたしだけじゃない、あなたから同じことを教わったひとが、大勢いるよ。みんな、忘れてない)
人間て、なんて凄い。
(人間の、命じゃなくて心こそが、永遠だったんだね)
暖かな風が後ろから、アーニャの肩を撫でた――と思った。思ったけれど、
「……?」
その優しい風は通り過ぎてはいかないで、彼女の背中を包み込んだ。耳のそばからそっと腕を回すように、柔らかく絡む。
懐かしい、恋しいぬくもり。
「……リアム」
思わず、呼んだ。抱きしめてくれる熱の、さらに強く触れてもらえるのを感じて安堵する。
出会って間もないころの、幾度も握らせてもらった少年の手の感触が、はっきりとそこにあった。指を近づければ、絡め合える気配さえする。
丘を彩る秋の花のつぼみが、そこここでほころび、香った。
(人間も妖魔も、みんなおんなじ。だから、わたしも)
遠い遠い未来の日、きっと同じ永遠になる。
そのときまで、約束を決して手放さない。だからどうか、彼と一つになれますように。
アーニャはふと立ち上がって、眼下に広がる町並みと、その向こうの水平線を見渡した。きっとリアムも一緒に振り返ってくれたと思う。
祈る。命あるみんなが、どうか一人でも多く、いつか等しく優しい永遠になっていけるよう。
いつの間にか訪れていた秋の空気は町も、海も、天も一度に涼しく満たしていて、二人の願いを叶えるのも実は案外、造作もないことなのかもしれなかった。