月に想う 軍事会議を翌日に控えた深夜、机に向かって唸る赤い毛玉は主である練紅明だ。
四日寝ておらず、五日風呂に入っていない。元は美しい赤毛も脂で艶が増し、掻きむしった分だけ乱れている。眠気覚ましに、時折体を拭いてもらっているので、辛うじて臭いはない。
大切な軍議の前、紅明は殆ど睡眠も食事も取らず、月の満ち欠けと星々の動きから季節風を読み、土地土地の風習慣習から最も効果的な征服方法を考える。
紅明は、知略をめぐらし国の未来を切り開いていく。
忠雲はそんな紅明を尊敬し、国を導くのはこの人だと思っていた。
『お前は見る目があるな』
煌帝国第一皇子である紅炎が、忠雲に向かって言った。
声につられて紅炎に顔を向けたものの、なんと返事をしていいのか分からない。
忠雲が持つ弓矢が、紅明の金属器である扇と共鳴し、キュインキュインと聞き慣れない音を立てて光っている。
突然の出来事に、紅炎に言われた言葉が理解できず、ただ震える手で光る弓矢を落とさずに握っているのが精一杯だった。
『紅明を王と認めたお前は見る目がある』
下目遣いに忠雲を見やり、顎髭のすぐ上、薄い唇がニヤリと曲がり笑う。ぞっと肌が粟立ち、全身の毛穴から冷や汗が出た。
忠雲は、紅明の眷属となったのだ。
紅明自身は、紅炎こそが王に相応しいと思い、自分はあくまで裏でそれを支える側だと信じて疑わない。
だが、忠雲から見れば、二人に王の器としての違いはあれど差などない。どちらが相応しいか、忠雲が決めれる事ではないが、自分が付き従いと思うのは紅明である。
紅明のためならば命も惜しくない。
しかし、そんな王の器である紅明に対しても、理解しがたく、正直に言えば少々の嫌悪感を抱く行為がある。
それは、月餅の食べ方。
紅明の机の脇には、薄く切り分けられた月餅が置かれている。
茶色く艶やかに光る表面には煌の文字と唐草の模様が描かれ、中には蓮の実と白いんげん豆をすり潰した餡がみっしりと詰まっている。
切り分けられた月餅は、その一つ一つに爪楊枝が刺さっていた。これは、部屋付きの女官の『紅明様のお手が汚れませんように』という気遣いである。
そもそも、その気遣い自体が、紅炎の「紅明に飯を食わせろ」という命から生じた。
紅明は常日頃から食と身嗜みを蔑ろにしがちであった。
軍議や公式行事前になると特に酷く、何日も食事を取らない。頬は刮げ、血色が悪くなる。
地下の魔導研究施設に眠る不死の軍団ののような顔色に、紅炎が「飯を食え!!」と怒鳴りつけた事も一度や二度ではない。
紅炎がいくら「飯を食え」と言ったところで、本人にその意思がないから難しい。
弟の不精を嘆き、やつれ具合を憂いた紅炎が、部屋付きの女官に「紅明に飯を食わせろ」と渋い顔で命じたのは、西征軍大総督となって割とすぐの事だった。
厨係も部屋付きも、紅明にどうにか食事をとってもらえるよう苦心した。
お好きな野菜スティックなら……、飲みやすい汁物なら……と用意したが、「手が汚れるので」「匙が重いから」などの理由で、手をつけてもらえずにいた。
そこで、少量でも栄養価が高い月餅が出されるようになった。これも最初は、そのままで出すだけでは手をつけてもらえなかった。薄く切り分け、一切れ一切れに爪楊枝を刺しすことで、やっと口にしてもらえるようになったのである。
手が汚れず、楊枝もぽいと掴んで、ぽいと捨てれる。
そして、なにより紅明がこの月餅を好む理由があった。それがなにより忠雲には、受け入れられない。
切り分けられた月餅に刺さった爪楊枝を摘み、口の中に放り込むとそのままじっと口を閉じ、顎も頬も動かない。しばらくするとまた爪楊枝をつまみ、また月餅を口の中に放り込む。そして、じっと口は動かない。
いつ噛んで、飲み込んでいるのか……
疑問に思った忠雲は、月餅を口に放り込んだ後の紅明をよくよく観察してみた。
そして、分かった。おそらく、紅明は口に放り込んだ月餅を唾液で溶かして飲み込んでいる。
薄く切分けられた月餅を噛まずに、口の中で溶かして飲み込む。
なぜ、噛まないのか?
理由は、「顎が疲れるから」だろう。
月餅を噛むのにどれほど労力を要するのだろうと甚だ疑問であるが、紅明とはそういう男なのだ。
国の事を考えると寝食を忘れ、月餅を唾液で溶かして食べる男。
忠雲は、そんな男に忠義を抱き、眷属になったのだ。
終わり