ノスタルジーが見せる 夏休みを失って二年が経った。
手元で弾けている生ビールの泡のように、パチパチと僅かな音を立てて消えていく。気付いたら無くなっているような二年だった。社会に出れば時の流れは変わるのだという言葉の信憑性を疑った時期もあったが、自分がその立場に立ってはじめて理解出来るものだ。
ノスタルジーが生み出す感傷だろう、自分らしくないなと思いながらジョッキを傾ける。
同窓会なんて自分には縁の無いものだとファウストは思っていた。誘う友人もいないし、誘われるような人柄では無いと自覚している。それなのに今この場にいるということは、認識が間違っていたという事だろうか。今日の事を報せてくれた淡い空色の髪をした友人は目立つ事も面倒事も厭うきらいがある。そんな彼が声をかけてくれたのは、単に僕がのけ者にされないよう気を遣ったのか、巻き添えを探していたのだろう。
昼前に業務用スーパーの前に集まってバーベキューをし、河原遊びをした後に居酒屋というスケジュールを聞いて気乗りがしなかったが、折角誘ってくれたのだから居酒屋だけならと参加表明をした。なんだかんだ二十名弱程集まった同級生の顔ぶれを見渡すと、参加者の半数は既に出来上がっている。恐らく彼らは昼から酒に飲まれているのだろう。学生時代はクラスの中心に居た者が殆どで、何年経っても立ち位置というのは変わらないんだなぁと少しだけ離れた視点で考えていた。
ああ、あの頃と似たにおいがする。
鼻を掠めるにおいにピクリとこめかみが動いた。それは油物やアルコールのにおいにかき消される事の無い、若者特有の夏のにおいだ。白い開襟シャツの内側に流れる汗や、校庭の砂埃が混じり合ったような、そういう類いの。通勤も公共交通機関を使わないから随分久しぶりに嗅いだ気がする。あの頃はこれが常に傍にあったから一気に学生時代へと意識を持って行かれる。そして同時に、あのひとは夏だというのにいつも良いにおいがしていた事を思い出してしまった。
職員室は少し大人な珈琲のにおいがするように、保健室は染みるような消毒液のにおいがした。それなのに保健室の主からは消毒液の刺激臭とはまるで違う、涼しげでほのかにスパイシーな香りがする。それがあのひとの体臭なのだと思っていた時期があるが、初めて自宅に上がった日に違う事に気付いた。柔軟剤もバスルームのトイレタリーも香りが続かないもので揃えられていて、出かける直前に仕上げのように一吹きする香水がほんのりと彼を形作っていたのだ。それを知った時は無性に嬉しくなった記憶がある。
……いや、より鮮明に思い出していくと、ふわふわと浮足立っていた記憶しかない。それもそうだろう、初めての彼氏の家にお泊まりは人生の一大イベントだ。心臓がうるさいくらいに緊張して、そわそわと落ち着かなくて、まるでいつも通りの彼に苛立ち文句を言った事まで思い出した。あまりの子供っぽさに恥ずかしいやら情けないやらで、表情が無くなっていく。
懐かしい、と遠い目をしながら一人耽っていると、視界が陰った。
「壁の花してないで遠慮しないで食えよな、ただでさえほっそいんだから」
そう声をかけてきたのは、同窓会に誘ってくれた張本人であるネロだった。気遣って隣に座ってくれるのは有り難いが自分よりも話したい相手がいるのでは無いかと懸念していると、心中を察したかのように、もう十分話したのだと教えてくれた。なんだかんだ付き合いの良い彼は午前中から参加しているらしい。
「食べてるよ。肉がつかないのは体質だ」
「……誘ったの迷惑だったか?」
そんな事を気にしているらしい。まるで頭にない事だったので目をパチパチと瞬きして驚いた後に首を緩く振った。
団体の中で浮いている自覚はあった。そしてそれは途中合流したせいでは無い。ファウストが自ら広いテーブルの一番端の座布団に鎮座して、物思いに耽っているせいだ。一線を引いているのはいつもファウストの方だった。今も昔も。
「きみが気にする必要は無い。それに割と楽しんでるよ」
信じて貰えたかは分からないが、言葉に嘘は無かった。毎日が慌ただしく過ぎていくせいで、こうしてのんびりあの頃を懐古する時間は久しぶりだ。ネロとレノックス以外は大学時代に一度も連絡を取っていないから、殆どが六年振りに会う顔触れだ。ブラッドリーやルチルは強い酒を好むらしく意気投合しており、次は何を注文しようか話し合っている。ミスラは酒よりも食事の方に夢中だし、オーエンは最初から甘いデザートにしか興味が無いらしい。車で来ているレノックスはまるで幹事のような役割に落ち着いてしまっているのが見える。皆この数年で変わったような、変わっていないような、不思議な気分になった。
「会長、なんか更に大人になってない?」
「そうかな。いつも子ども扱いされてるけど」
「誰に……」
「よう、ここいいか?」
ネロが訊ねる声をかき消すかのように、対面の席に移動してきたブラッドリーが挨拶だと言わんばかりにグラスを手前に出してきた。中身はウイスキーか何かだ、ビールで無い事くらいしか分からない。それに応じてジョッキを向けるとカツンと高い音がした。
「久しぶり過ぎて、誰だか分からなかったぜ」
「適当なこと言うなよ、会長の外見は何も変わってないだろうが」
「それはそれで複雑なんだが……」
自分自身では少しは変わったと思うのだが、髪型も眼鏡もあの頃のままなので目に見えた変化は無いに等しいのかもしれない。ずっと大人に近付こうと努力してきた身からすれば少々不満を感じるが。
ブラッドリーはファウストと話をしに来たというより近くに座っている同級生の会話に混ざりに来たらしく、最初の残念な挨拶以降なんとなくファウストとネロも会話に加わってしまっている。これも「壁の花」に対する対応なのだろう。強引な彼らしいやり方に抗う気も起きず、彼のリーダーシップに感心するばかりだ。何年も会っていないので近況報告は腐る程あるし、昨日も同じ空間にいたかのように空いた時間を感じさせない話が繰り広げられる。隣人が毎晩窓を開けてギター演奏をしているが、それが意外と上手くて楽しみになってしまっているとか、彼女に趣味のパチンコを辞めないと別れると脅されたので最近競馬にはまったとか。取り留めの無い話が可笑しくて、先程よりもビールが減るのが早くなった。
一人も嫌では無いが、人と話す事を楽しいと感じているのも事実だと認めざるを得ない。皆少しずつ大人になっているからか、子どもだった頃に比べて話しやすいような気がした。あるのは配慮と少しの距離感だ。それがファウストに心地よさを作っているのだろう。
何杯か目のお代わりが届き各々に配っていると、ブラッドリーは突然何かに気が付いたらしく眉を顰めた。ファウストは一瞬自分が何かしたかと思ったが、すぐに違うと理解する。
「お前なぁ、首んとこせめて隠してこいよ……見せびらかしてぇのか」
ブラッドリーが呆れた目線を向けたのは、彼の隣に座っている同級生だった。指摘を受けた首のところを見ると虫刺されにはとても見えないやや横に広がった痣が出来上がっていて、ファウストもようやく言葉の意味を理解する。
「お、気付いた? 同窓会に行くって言ったら嫉妬されてさ、なんか嬉しくって」
「……嬉しい、のか?」
思わず口を挟んでしまったのは、その感情がとても理解出来なかったからだ。
「ふつう恥ずかしいとか、困るとか思うんじゃないのか?」
「え、会長は嬉しくない? 独占欲見せられるの悪い気分じゃないだろ?」
「そう、なのか……」
ブラッドリーは理解を示し、ネロは嫌だねと否定したので恐らく一概には言えないのだろう。しかし考えもしなかった意見に、ファウストは腕を組んで考えこむ事となった。
キスマークというものはファウストの中で、分類するとしたら黒歴史の中に含まれるワードだ。性に関するものは殆どがそうだろうが、覚え立ては不思議とやりたがる。例にも漏れずファウストもかつてはそうであった。いつも翌朝は体中に点々とついているものだから、やり方を教えてもらって吸い付いた第一号がそれは酷い出来だったのだ。不健康なほど白い肌にデカデカと残った青紫は忘れられそうにない。自分があんなに大きな口を開けて吸い付いたことも、後の事を考えずに見える首につけた事も信じられず、跡形も無く消えるまでずっと下を向いて過ごしていた。こんなに派手なキスマークをつけた男の隣を歩いていれば、つけたのが自分だとアピールしているみたいで居たたまれないにも程がある。自分がこんなにも恥ずかしい思いをしているのだから、つけられた本人はさぞかし迷惑だっただろうとずっと反省していたのだ。
だが確かにあの時フィガロは一度も怒ったり恥ずかしがったりしていなかった気がする。鏡を見て珍しく声を上げて笑った後、ファウストを抱きしめただけだ。あれはもしかして喜んでいた……のだろうか。
いや、そんな事は……と反芻していると、ネロがパンッと手を合わせて頭を下げてきたので何事かと目を剥いた。
「会長はこういう話苦手だったよな、悪い」
謝られたのが予想外で首を傾げるが、すぐに思い至って笑った。
学生時代、周りの友人達からそういった話題を遠ざけられていた事を思い出した。それはファウストが意図していたわけでは無いけれど、恋愛事や下世話な話を避ける空気を出していたのだろう。まるで幼い子どものような扱いを受けていたが、それも全て周囲が優しかったからだ。
「あの頃はそうやって君たちが庇ってくれたから助かったよ」
それを申し訳なさ半分、有り難さ半分に思っていた。もしうっかり先生との関係を漏らしでもしたら停学も免職も免れない。きっとフィガロはそうなったとしても絶望はしなかったのだと思うが、あの頃のファウストは必死に秘密を守っていた。この関係がいつまでも続くようにと切実に。
だから廊下でフィガロと偶然すれ違う時も、平常心を保てているか自信が持てずに心臓に悪い思いをしていたものだ。向こうはこっちの気も知らないでウインクなんて投げてきたけれど。……思い出したら少しむかついてきた。
「だが今まで、キスマークを見える所につけるのは子どもだからなのだと思っていた」
まるであの行為は未熟である事の象徴のように思えて仕方が無かったのだ。だってフィガロは一度も見える所につける事は無かった。それは大人だからなのだと思っていた。
「まぁ、そう言えなくも無いんじゃね? やっぱり子どもっぽいなって思うし」
「だって彼女大学生だもん、仕方なくねー?」
ネロの言葉に反論するようにキスマークを自慢している同級生は言ったが、「子どもっぽいのは、それを見せびらかしてるお前だよ」と突っ込まれてる。
他人とそういった話をする機会が無かったファウストにとって、その会話は新鮮で段々愉快に思えてきた。ずっと隠してきたけれど、今はもうぽろっと漏らしても問題は無い事がファウストを気楽にさせるのだろう。
「その大学生が初カノか? 浮かれすぎんなよ」
「だってやっと出来たんだぜ……そりゃ浮かれるだろ。初めては十代の内にって思ってたんだけど、そう上手くはいかないよな」
「ん……? 十代じゃないといけないものなのか?」
気になって問いかけたが、失敗だったようだ。ネロが少し悲しげな表情でこちらを見てくる。まだこの話を続けるのかと言いたげな視線で。
「やっぱ気になるでしょ、成人してまで童貞とか」
先程から「そういうものなのか」ばかりを連発してしまうファウストは、随分と俗世に疎く見られただろう。ブラッドリーは笑い過ぎて腹を抱えて横になりかけている。
「個人差があんだろ……会長はこいつの言う事気にしなくていいから」
そうだなと相槌して、個人差とやらを噛み締めた。初体験の思い出を赤裸々に語る同級生を前に、遠い記憶を思い出しながら。
「この後花火すっけど、会長も来る?」
その誘いはまるで断られる前提かのような言い方だった。恐らくファウストがこっそりスマホで連絡を入れていた事をネロに気付かれていたのだろう。それでも形ばかり誘ってくれる友人に感謝して、礼の言葉を返した。
メッセージアプリで送られてきたマップの駐車場に到着すると、少し離れた所で車のドアが開く音を聴いた。短くない時間を待たせたと思うのに、この人の事だからキンキンに冷えた車内にいる事しか出来なかったのだろう。手を握るとやはりファウストよりもずっと冷たい温度をしていて、これでは死体だなんて思ってしまう。仕事帰りに迎えに来てくれたこの人の気持ちを考えて可愛く無い発言は押し込んだけれども。その代わりに「先生」と囁いて、縮まる事の無かった身長差を埋めるために背伸びをする。
唇を奪うのは簡単だった。誰よりも察しが良い彼は頭を傾けてくれる、それに屋外である事も気にならなかった。少なくとも今は。
「きみにそう呼ばれるのは久しぶりだね。どうしたの、懐かしくなっちゃった?」
背中に回された手に甘えるように抱きつくと、真夏だというのに汗の臭いなんて一切感じない隙の無さに笑いがこみ上げてきた。ああ、このにおいだと嗅ぎ慣れた香りを深く吸い込む。それに比べて自分は、きっと居酒屋特有のにおいを纏わせている事だろう。きっと彼が嫌いなにおいの筈だ。それでも距離を置こうとしない男に愛なんてものを感じて、ちょっとだけ良い気分を味わった。
「ふふ、行って良かった。あいつら今でも僕の事を猥談から外そうとするんだ、可笑しくて我慢出来なくなりそうだった」
「なんだ、自分の事は話してないの?」
「言わないよ。必死に隠してきたんだから、アッサリ教えてなんかやらない」
皆記憶よりもずっと大人だから、ファウストの隠し事を無理矢理暴くなんて事はしない。少しだけ言ってみた時の反応が気になったりもしたけれど。
車の助手席に乗り込むと、用意していたのだろうミネラルウォーターを渡された。受け取るとペットボトルが汗をかいていて、買ってからそんなに時間が経っていない事が分かる。それを一口飲むと車は発進した。
当たり前に渡される飲み物、自分にしか許されない助手席、柔らかい夜のような声。たった数分で甘やかされていると何回も感じる。
フィガロの隣にいると無条件に安心してしまい、ゆるやかに瞼を落とした。眠いのではなく心地が良くて。
「……折角の同窓会なのに、なんだかお前の事ばかり思い出してた気がする。……毎日会ってるのに馬鹿みたいだ」
それも仕方ない事だと理解しているけれど。ファウストの学園時代の思い出の大半はフィガロで埋め尽くされている。恐らく恋とはそういうものなのだ。費やす時間も、浪費する感情も、脳のキャパシティも全部恋が奪い尽くす。
万が一この男と離れる事になったとしても、死ぬまでフィガロ以上にファウストを構築する人間はいない確信があった。まあ、手放すつもりは微塵も無いのだが。
「例えば何を思い出した?」
「……初めてお前の家に泊まった日の事とか」
「それってきみの初めてをもらった日の事?」
全くその通りだ。あれも夏の日だった事を覚えている。それから学園を出てフィガロと暮らすようになって六年が経つ。今ではとうに失った初心を僅かに思い出して、恥ずかしさを超えて興奮した。
小さく喉で笑う男はそれでもちゃんと前を向いて安全運転をしてくれるから、ファウストは変わらず目を閉じたままでいられる。時折通る対向車線の車のライトが瞼越しに眩しく感じられるが、気になるのはそれくらいだ。
静かにブレーキが踏まれて信号に進路を阻まれたのだと察すると同時に、ふわりとフィガロの香水が香った。予期しないタイミングで運転席からキスをされて、思わず笑いがこみ上げてくる。
「あなたもちょっとはその気になった?」
「きみからキスしてくれた時からね」
まるで子どもみたいにねだって再度キスを交わせば、邪魔するみたいに信号が変わった。恋を始めた頃のように浮き足立っていて、でもあの頃よりは自由だった。
「愛してるよ、先生」