『MAVでなくても手は取れる』第3話『灰と緑の星標』「なるほど、それで死んだ事になったのか。君も、そして私も」
「そうなんだよ……」
連絡がすぐに取れない以上、手持ちの情報を整理して何とかするしかない。そう思ってスバルと話し込んでいたのだが、結局のところ得られた情報よりはエグゼべから与えた情報のほうがはるかに多かった。彼は妙に勘が鋭くてあっという間にクリティカルな機密以外の情報──つまり、軍警がエグザベについて把握している程度の情報──を把握してしまったのだ。途中から、どうせ一蓮托生なのだからと教えてしまった部分もないではなかったが。
そして彼から聞き出せた情報といえば、およそ半年以上前の記憶を喪失していて、そしてその覚えている半年の大半をあの施設で過ごしていたという事だった。それより前に自分が何をしていたかもあの施設が何なのかも知らないようだった。それでも収穫がなかった訳ではない。彼は施設に身柄を抑えられる前に赤いガンダムを目撃していた。半年前に見たのなら、サイド6でグラフィティアートを描く赤いMSの目撃情報が報告される前という事だ。彼の過去がわかれば、あのガンダムがゼクノヴァ以降どうしていたのかが掴めるかもしれない。
……まあ、それも、彼の記憶が残らないことにはわからないし、戻ったところでどこにも連絡が取れないなら活かしようもない情報なのだけれど。
「……それで施設の外に逃げ出して、どうだった?何か過去の心当たりとか、思い出せそうなことはあったか?」
「今はわからない。……あの声の持ち主に合えれば、思い出せるかもしれないが」
「あの声?」
「私の名を優しく呼んでくれた声だ。低く落ち着いた声だった。私が覚えているのはそれだけなんだ」
青い瞳がわずかに不安そうに揺れた。ずっと堂々たる態度を貫いていた彼の仮面が薄れたような気がして、そうするとエグザベよりも年下らしく見える。昨日の夜中もそんな風だったなと思った。そういえば、昨日何事か言っていたっけ。
「その、呼んでくれた名前ってのが、キ──」
「ここで言うな」
息を呑むほど鋭く冷たい静止。湖面のように揺れていた瞳は今や静かに凪いでいて、視線だけでも人を射殺せそうだ。無理もない。キャスバルという名は自分の立ち位置がわからない状態で名乗るにはあまりにも政治性が高すぎる。生まれた時からその名前であったのならたまたまダイクンの遺児と被ってしまったというだけかもしれないが、仮にこれが強化人間等に与えたコードネームか何かであるならば、名前がそのまま役割を果たしてしまう訳だ。ニュータイプを目指すという施設の目的と彼の抱えた記憶の欠落は、エグザべにその懸念を抱かせるには十分なきな臭さを漂わせていた。
きっと彼にその名を優しく呼びかけたのはジオンの人間ではない。
そしてジオンの軍人たる自分が呼んでいい名前でもないだろう。
「悪かったよ、スバル」
「気がついてからは、誰にも教えてはなかったんだ。教えてはいけないと思って」
「じゃあ、なんで昨日は教えてくれたんだ?」
「どうしてだろうな」
何か理由があるが、教えてくれる気はないらしい。その様子が、今は連絡の取れないソドンの上官に似ているように思えて、エグザべは「もしかして勘ってやつか」と問いかける。彼は微笑んで首肯した。
「わかるか。実をいうと、君と行動を共にしていれば何か思い出せるんじゃないかとも思っているんだ」
「……よく信じられるな、そんなの」
「実をいうと、あのタイミングで君のバイクの上に飛び降りたのも勘頼みだ」
「滅茶苦茶すぎる!」
「だが信じて良かった。おかげで助かったのだから」
無茶苦茶を押し通しておいてよく言う。何と言うべきか迷って、エグザべは「うちの上官と気が合いそうだな」とだけ返した。彼は興味をひかれたらしく、天井の向こうの一点を指さして問いかける。その指の先にはソドンが鎮座している事を、自分だけでなく彼もまたはっきりと知覚しているらしかった。
「その上官というのが、上に浮かんでいる艦の主か」
「艦長は別の人だけどね。でも実質的にはそう」
請われるままに、中佐の事を少しずつ話す。といっても大半は誰もが知っている事ばかりだ。自分だけが知っている事なんてそんなにはない。せいぜい、あの日のクランバトルを見ていた時の眼差しくらいだろう。適度に細部をぼかしながら話す間、彼はずっと声を押し殺して笑っていた。
「逮捕されて上官を迎えに来させるとは。見込んだ通りの大物だな」
「勘弁してくれよ。あの人がどうかしてるだけだよ」
「私もその上官に会ってみたいものだ」
「僕も早く引き合わせたいよ。どうしたらいいんだろうな」
そう、何の話をしても結局はここに行き着くのだ。自分は死んだ事になっていて、何とかしてソドンに生きていると報せなくてはならない。しかしながら、自分と被検体アルファが生きていると施設の連中、ひいては軍警たちに知られたくはない。逃げ隠れしてソドンを目指すとしても、怪我を負ったままの彼を担いでの逃避行には無理がある。
つまるところ、少なくともスバルの怪我が治るまでは身を潜めて機を伺うしかない。それが当面の結論であった。
***
「ゼロ災でいこう!」
「「「ヨシ!!!」」」
人間が生きていくには金がいる。匿われた上に養われ続ける訳にもいかない。そういう訳で、彼は再開発地区で建設作業に従事していた。モビルスーツの操縦に習熟したやる気のある若手はイズマコロニーではそれなりに貴重で、とやかく探られずに済んだのは幸いだ。彼らがそういう場所を紹介してくれたのだろうが。
「お疲れさん、昼休憩だよ!」
「ありがとうございます!」
新人として教わりながらガンタンクと共に駆け回っていれば、あっという間に昼休憩の時間になっていた。軍人としてではなく日雇い労働者としてガンタンクに乗っているというのは奇妙な気分だ。
それでも、悪い気分ではなかった。自分の技術が何かに活かせているという実感が得られるのはなかなかに楽しいし、何より誰かに何かを密告する事を考えなくてもいい。誰かを故意に殺さなくてはいけない心配が要らない職場はこれが初めてだ。
それでも。
差し入れの缶コーヒーを手に、休憩所の窓から上を見る。ソドンは今日も素知らぬ顔でイズマの空に浮かんでいる。
「全く。勝ったからって図に乗りすぎだよな」
エグザべの視線を追った先輩が忌々しげに吐き捨てて、自分には曖昧な苦笑を返すしかできない。
それでも、自分が帰らなくてはならない場所はあの艦なのだ。スバルを連れて戻らなくてはない場所は。
***
戻ってみれば、スバルの寝床は眠り込んだ子供達に囲まれている。足元には書き散らした裏紙のようなものが散らばっていた。
「戻ったぞ。……何だか楽しそうな事してるな」
「ああ。動けるようになってきたんでな、ここの子らに読み書きを教えてたんだ」
察するに、読み聞かせの教材として古い新聞や雑誌を持ってこさせたらしい。子どもの面倒を見ながらも情報収集には抜かりがないという訳か。
「随分と懐かれたみたいだな」
「君こそ。彼らはずっと『エグザベ兄ちゃん』の話をしていたぞ。それに、我々がここに置いてもらえたのも君がこの子らに慕われていたからだというじゃないか」
「まあ、そうだけど。流れ着いたのが助けた子のいた所で運がよかったよ」
「それは違うのではないかな」
どういう事かと視線を向けると、彼は一本指を立てた。
「君、どうせほかの所でも他人に手を差し伸べて回ってたんだろう。きっと余所に流れ着いても誰かがいただろうさ。君は運がいいというよりは人がいいんだ。誇るといい」
「人がいい、ね……」
『君は人がいい。シャリア・ブルを信じすぎるな』
そう語られた声を思い出す。言われたのはたった数日前である筈なのに、随分と遠い日のことのようだ。それでも、その声はまだ耳の奥に残っている。表情の陰りに何を悟ったか、スバルはわずかに首を傾けてこちらを見上げた。
「なんだ。嫌なことでも思い出したか?」
「いや、それほどのことでもないんだけど」
「新しい職場のことではないな。誰も君を知らない場所では随分と楽しく、そして気楽そうに見える。さては、ここに来る前に板挟みにでもなっていたか?」
鋭く言い当てられて、ぎょっとして一歩後ずさる。心を読まれたかのような感覚。スバルは「それじゃあ自白しているようなものだぞ」と笑った。
「……どうせ中佐のようにはうまく立ち回れないよ」
「いや、すまない。何というか……似たような眼差しをかつて見たように思ったのだ」
「何か思い出したのか?」
「ああ。といっても、それが誰なのかも、今何をしているのかも杳として知れないがな」
スバルは己の手に視線を落として、その手を握ったり開いたりとしている。その眼は消えた過去を追うように細められ、やがて閉じてしまった。エグザべはおずおずと呼びかける。
「スバル?思い出せそうなのか?」
「今は、まだ。……この状態では、君に何かしてやる事も……手を差し伸べる事も出来ないな。助けられたというのに」
「いいよ別に」
「だが、そうだな。多分、手は組めると思う。MAVとやらにはなれずとも」
「なれないか」
「ああ。私には既にそういう存在がいたように思うのでね。そして、君には私の手は必要なさそうだ」
そうかもしれない。赤いガンダムを追っているエグザべとしては重要参考人が見つかっただけでも収穫なのである。ソドンに連絡が取れないという大問題が横たわっているだけで。だから、彼は純粋に「見つかるといいな」と答えた。ソドンに戻る自分と共にいることでそれが叶うとは思えなかったが、それでもそう思ったのだ。
「ありがとう。多分、君といればそうなる気がするんだ」
「じゃあ、お互いどうにか戻るまでという事で。共闘といこう」
にっこりと笑って、差し出された手を握る。その手を通じて、わずかな感情のようなものをエグザべは見たように思った。綺麗に漂白されてしまった虚空の暗闇。その中に、遠く光る輝きが一つだけある。これが彼の星標であり、戻るべき場所なのだとエグザべはその時確かに理解した。
そうして眠りに落ちて、目を覚まして、働きに行って。この場での暮らしにも馴染んできたある夜、エグザべはふと目を覚まし、隣で眠っていたはずのスバルが姿を消している事に気づいた。
***
難民街の夜は騒がしい。どこかで誰かが口論を交わして、どこかで誰かの子供が泣いている。いつも誰かが働きに行って、誰かが仕事から戻ってくる。それでも、立ち並ぶバラックの屋根まで出てしまえば、少しは空気が澄んで静かになる。
スバル──部分的に取り戻した記憶に曰く、キャスバル・レム・ダイクン──は一つ息を吸い込み、ゆっくり吐き出した。静かに思考を整理したかったのだ。少しだけ見えた過去の夢のことを一人で考えたかった。
自分の名が意味するところを彼は思い出した。雑誌の中の与太話として扱われている行方知れずのダイクンの遺児とやらの名は、確かに自分の名前だった。その名を呼んでくれた人々のことを、その名を捨てるに至った経緯を、自分は覚えている。それでも、名を捨てたあとの自分が何をしてどう生きていたのかは思い出せなかった。そして、記憶の中にあるあの低く柔らかな声のことも。あの声は愛する両親でもなければ勿論妹のものでもなかった。名を秘することを選んだあと、自分は誰かにその名を教えたというのか。
この名の意味をジオンの軍人たるエグザべに教えることはできない。彼は大丈夫だと勘は告げていたが、それ以外の全てがこの名をジオンに教える事の危うさを叫んでいる。
地上を睥睨する木馬を見上げて思案する。向こう側でも、誰かがこちらを見下ろしているような気がしてならなかった。エグザべは気づいていないようだが、おそらく彼が死亡したという情報の流布はソドンにいる者によって補強されている。だから軍警も施設の連中も、本腰を入れて自分たちを探さない。おかげで自分たちは今のところ息を殺して潜むことなく動けている。エグザべ自身がどう感じているかはさておき、たしかにその活動はソドンの恩恵を受けているのだ。
彼のことはソドンに返してやるべきだ。でも、その時自分はどうなる。自分は果たしてそこにいるべきだろうか。
被検体アルファ──あるいは、ただのスバル──は勘のほかに何も信ずるものを持たなかったから、迷わずエグザべの手を取った。キャスバル・レム・ダイクンはそうではない。彼はここに来て迷っていた。「誰も自分を知らない場所では気楽そうに見える」というのは、エグザべだけをさす言葉ではない。
背後から不意に物音が聞こえて、スバルは肩を跳ねさせた。最低限の警戒はしていたはずだが、思考に没頭していて気づかなかったのだ。
「おい。探したんだぞ」
顔をのぞかせたのは息を上がらせたエグザべだった。
「よくここがわかったな」
「君らの真似をして勘に頼った。全く、こんな高所で足場もハーネスもないなんて」
「随分と現場慣れしたような口を利くじゃないか。ほら、これがあるから心配ないよ」
腰につけたままのランドムーバーを示すと、彼は数回瞬きして呆れたようにため息をついた。
「これで飛んできたのか?」
「拾い物だ。足が治ってきたからどのくらい動けるか試そうと思ってな」
「まあ、治ったなら何よりだ。とはいえ何か言ってくれてもよかったじゃないか。心配したんだぞ。ほら、一応僕たちお尋ね者なんだし」
彼は本気で安堵しているようだった。本気で自分の身を案じて、本気で探し回って、そしてここに息を切らして屋根をよじ登って来たのだ。キャスバルとして、「得体のしれない被検体によくもここまでするものだ」と思う。そのキャスバルに、彼は手を伸ばした。「迎えに来てもらって嬉しかったんだ」と彼が語っていたのを思い出す。彼もこうして迎えに来てもらったのだろうか。彼の上官は、同じ表情をしたのだろうか。
「ほら。帰ろう」
「……わかったよ」
キャスバルは迷うことなくその手をとった。そうして、ランドムーバーに火を灯す。バーニア音が低く唸って、ふわりと足が浮かんだ。
「え、待って、帰りもそれ?僕は?」
「決まってるじゃないか。しっかり掴まっていたまえよ」
「嘘だろ!?!?あっ待って」
「静かにしないか。子供らを起こしてしまうぞ」
「あっあっあっうわっ……」
エグザべをぶらさげて飛びながら、思わず「ははは」と笑い声をあげていた。声を上げて笑うのは本当にひさびさだった。
***
数日後。共に夕食を取っている最中に唐突にスバルが「考えたのだが、クランバトルに出ようと思う」と言うので、エグザべは盛大に咽せた。どうにか呼吸を整えて「なんで?」と絞り出す。突拍子もないところがあるのはわかっていたが、よりにもよってクランバトルとは。
「軍警が動かず、ソドンだけが動くものがある。『赤い彗星』だ。そしてクランバトルは軍警の目を盗んで行われている事になっている。最中に踏み込めば、どうして今までそうしなかったかという事も含めて様々な問題が起きるだろうな。簡単に手は出せない」
「いや、だからって」
「そして、食中毒にあたって代役を探しているものがあったから君を推薦しておいた」
「僕!?」
「MSに乗るのは得意だろう。レッド・コメットで登録しておいたから、派手に戦ってソドンの目を引いてくれ」
「レッド・コメットって名前で僕が出るのか!?」
「心配するな。組むのは私だ。MSに乗った記憶はないがいける気がする」
「記憶がないのにいきなりクランバトルに出るのか!?」
「ちなみに試合は三時間後だ」
「三時間後!?!?」
エグザべはまじまじと目の前の男を見る。彼は涼しい顔で夕食の続きに戻っていた。笑って「冗談だ」と言ってくれることを期待していたのだが、そういう気配ではない。
「赤い彗星を騙るバカはたくさんいました」というコモリの声が、「あれは大佐ではないよ」と呟いたシャリア中佐の声が、脳裏によみがえってくる。一体自分が何と言われるかを想像して、エグザべは一人頭を抱えるのだった。