PTSD 汗が目に入って痛みに顔を顰めた。両手は鉄の塊みたいな重さの銃剣を握っているため拭うことが出来ない。
いつもなら眉を動かしただけで平手が飛んでくるものだが、今日ばかりは違った。
「我々はこれまで奮闘をしてきた。だがあと一歩のところで、敵の卑劣な作戦により追い込まれている」
上官の重苦しく語る訓示。周りの沈鬱な表情と雰囲気に誰もがこの後に続く命令を理解していた。
「苦渋の決断ではあるが我らはこの命をお国と陛下のため捧げると祖国を出たのだ……。ならば最期まで恥を捨て、敵の1人でも多く道連れにし華々しく散ろうではないか!」
身勝手でうるさくて暴力的な上官がこの時ばかりは涙を流した。それに呼応し何人かの鼻をすする音が聞こえる。
「作戦は明日の早朝。相手の寝起きを襲う」
悲鳴と銃撃音が耳から離れない。走りながら視界の端で倒れる味方の姿が見える。バクバクと心臓がうるさい。手汗のせいで銃剣が滑る。
森の中を通るせいで顔が草で切れて血が滲んだ。口の中で鉄の味がする。
前方は視界が悪いが奥に敵兵がいることは分かっていた。皆そこに突っ込んでいくのだ。相手もすぐに動き出し、飛び込む俺たちに向かって銃撃を展開する。
左耳に刺したような痛みを感じる。それでも止まったら死ぬと言い聞かせ走り続けた。
「万歳!」
誰かの叫び声が聞こえた。隣で地面に重い何かがぶつかる音がした。
───次は俺か、次こそは俺か?痛いのか、やっぱり痛いのだろうか。
真似るように声を出そうとしても喉が乾いて声が出ない。
───死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。
視界が汗か、別の何かで歪む。と、途端胸に強い衝撃を受けた。
「がっ…ッは……!!」
グルンと景色が変わり木々の間から青い空が見えた。
───死ん……
「ッ!!!」
水木は飛び起きたあと我に返り口に手を当てた。荒い呼吸を整え嘆息する。
「クソ……ここまで来て…」
「……何やらうなされておったが」
牢屋に閉じ込められていたゲゲ朗がチラリとこちらを見やる。水木は下手なものを見せたと後悔した。
「あぁすまん。起こしちまったか」
「いやなに。いまは睡眠時間には事欠かない故気にするでない。ところでお主、戦場帰りか?」
「なんで分かるんだ」
「しきりに死にたくない、と言うのでな」
聞かれていたことに羞恥する。だがまぁ、ここで嘘をつく必要もない。水木は肯定した。
「お前の言う通りそうさ。なんとか運良く生き延びることが出来たがな」
丁度月の光が窓から差した。大きな火傷のような跡が浴衣の隙間から見え、水木が隠す。
「よく飛び起きるものなのか?」
「あー……まぁそうだな。でも減ったほうだ」
そろそろ寝直すと言い水木は布団を被った。それを見ていたゲゲ朗は何か考える素振りをしたあと水木の布団をひっぱる。
「なんだよ。俺は明日も忙しいんだ。起こしちまったのは悪いがちゃんと寝かせて──」
「ほい」
「………は?」
「良いから手を出さんか。わしがお主が寝ている間握っててやろう」
「なんでだ。何を企んでるんだお前」
警戒する水木にゲゲ朗は構わず手を牢屋から差し出す。
「わしの手は冷たいぞ?今夜も暑い。少しは寝やすくなろうて」
月の光のせいでもあるだろうがゲゲ朗の白い手は心地良さそうだった。そっと触れるとなんだか安心感を得る。
水木はふと、戦地から帰って来てから誰かと寝るのは初めてだと気づいた。
起こしてしまうからと母親と離れて寝ている。最近は忙しくて帰る時間も遅い。
「あぁ、確かにさっきよりかは涼しく感じる」
「じゃろう?妻ともこうして寝ていたものじゃ」
懐かしむようにゲゲ朗が目を細めた。
「俺も、人肌を感じるのは久しぶりだ……」
瞼が重くなっていく。水木はそのまま眠りに落ちた。
「……人肌、か」
ゲゲ朗はその言葉をしばらく反芻した。そしてゆっくりと手を離した。
久々によく寝たと彼が目を覚まし見た光景は牢屋越しだった。
「ゲゲ朗!!?」
慌ててスーツに着替え、水木は外に飛び出した。