Not Bad 既に日常茶飯事と化してはいるが、夕飯に呼ばれてしまった以上、悟飯の「一杯付き合ってもらえませんか」という言葉を無碍にするわけにも行かなかった。
夕食のメニューもこれから付き合う「一杯」も、どちらにせよ水なのだが。とはいえ悟飯やビーデルがその都度良質のミネラルウォーターを購入したり、時には山麓まで出向いて清水を汲んでくれたことさえある。
ナメック星人は水を多少飲むだけで十分生きて行ける。その生態からしばしば誤解されがちだが、水の味の微細な違いを判別できているわけでは決してないのだ。よほど異物が混じったり妙な匂いを発していなければ何のストレスもなく飲めるので、少なくとも上水道の蛇口から出て来る水のレベルならば何一つ不満はない。水道水にいちいちぬるいだの臭いだの果ては微量成分がどうこうと文句を付けて、わざわざ高い金を出して瓶詰の水を買う地球人の方がよほど水にうるさい――と常々感じている。
その一方で、自分に少しでも美味い水を飲ませたいと気を配ってくれる孫家一同の心映えが何より有難いのだ。
「ピッコロさんにかこつけて、私たちが色々試して水道楽したいだけだから気にしないで」
と笑いながら「たくさん飲んでね」とビーデルやパンが注いでくれる一杯。それがピッコロを満たさない筈はなかった。
水道楽とは面白い言い回しだ、と思う。月に一度は悟飯たちのおかげで随分水道楽をさせてもらっている訳だ。
今日は最初から泊まり前提の招待だった。
食事の後、パンにせがまれて絵本を読んでやる。彼女に気に入られ過ぎてページが何度か外れ、悟飯が補強を施した跡がある。そこまで読み込んだ話なら一言一句覚え込んでしまい、今更読み聞かせもなかろうと言ったのだが、ピッコロの声で聞くことに意味があるのだという。よく分からない。
結局、三分の二も読み進まぬうちにパンは舟を漕ぎ出した。せっかくのピッコロとの時間を無駄にしたくないといくら気張ってもそこは幼児、すぐにくうくうと眠り込んだ。
「結果的に寝かしつけにまんまと成功してしまったようだ」
毛布をしっかりかけてやり、ピッコロが台所に戻るとビーデルも後片付けを終えたところだった。
「ごめんなさい全部任せちゃって。あの子、ピッコロさんがお泊りだって昨日からもうテンションすごくって。あんまり盛り上がり過ぎて疲れたのかな」
「構わんさ。次来る時はオレが何か絵本を持って来よう……と言っても、何を選べばいいか皆目見当が付かん。クリリンにでも訊ねてみるか」
「気を使わないで。でもきっと、ピッコロさんからいただいた本だったら何でも大喜びに決まってるわ。
そしたらちゃんとお礼しますね。ん……何色のペネンコがいいかなあ」
「いやだから、縫いぐるみはこれ以上要らんからな、先に言っておくが」
「はーい」
何事においても察しが良く聡明な夫婦なのに、なぜあの鳥だか猫だか分からん縫いぐるみに関しては一切聞く耳を持たないのか。今だに不可解でならなかった。
「私もあと失礼してパンと寝ちゃうので……お風呂、いつでも入れるようにしといたから、どうぞ。
もしよかったら、悟飯くんがピッコロさんと飲みたそうにしてるから、付き合ってあげて?」
「ああわかった、おやすみ。それに、今日も馳走になったな。うまかった」
「よかった。じゃあごゆっくり」
ビーデルとそんなやり取りを済ませて、悟飯の書斎に来たのだ。
「あっすいません、全然片付いてなくて」
慌てて本や書類を無理矢理積み上げたところで、右の物を左に移す程度ではとても片付けとは言えない。
「今更いいだろう普段通りで。お前の部屋が整然としているとかえって落ち着かん」
と、くすんだカウチにどっかり腰を下ろす。
「ちょっと待っててくださいね! 今日はとっときがあるんです!」
グラスを二つテーブルに置き、悟飯は慌ただしくキッチンへ向かう。
「いや、オレは酒はやらんが」
「分かってますって。だから、うーん……水、みたいなものです! すぐ来ますんで!」
酒を嗜む年齢になって久しいのに、いつまで経っても顔付きや物腰が子供の頃と変わらない。
既にいささか水でダブつき気味の腹具合ではあるが、一杯二杯付き合う程度なら余裕はあった。
「お待たせしました! はい、これ……です!」
小さな、しかし高性能の保冷ボックスを開ける手付きが随分勿体ぶっている。
凍結した白い物体は、いびつで角の取れた四角形。一辺は5~6cmと言ったところだろうか。
「ドライアイス……とも違うな? これは」
「ええ、氷です。何の混ざり物もない、水だけが凍った――でもちょっとだけ特別な氷、ってとこかな。
だからピッコロさん、安心して食べて……じゃないな、飲んで? もらって大丈夫ですから」
悟飯はそう言いながら大きめのロックグラスにそれぞれ白い氷を入れ、ピッコロにはミネラルウォーターを、自分にはウィスキーを少なめに上から注いだ。
「ん」
その音に、実はボックスが開いた時から気付いていたが、それが一気に大きくなる。
「流石ですね…じゃないか、ピッコロさんには聞こえて当たり前ですよね。
ボクはこうやって、耳を近づけないとしっかり聞こえないけど……」
と、そっと持ち上げたグラスを耳元に寄せる悟飯。
ごく小さく、しかしはっきりと。
ピシ、ピシと鋭い音が氷の中で何か所も弾けている。炭酸を注いだ時の音ともまた違っていた。
「随分と賑やかな氷だな。悟飯、種明かしをしろ。その話が肴なんだろう?」
悟飯は素直に頷く。無論、この氷の正体を開帳したくてたまらなかったのだ。頬がムズムズ動くのを見ればピッコロにはすぐに通じる。
「地球の南の端っこ……ものすごく寒い極地エリアがあるのは知ってますよね? 氷河とかある……」
「ああ」
「あの極地に半年滞在する調査隊に、ボクの大学時代の友人が参加してたんです。で、彼が任期明けで帰って来る時にちょっと無理をお願いして、お土産として氷を持ち帰ってもらいまして」
「じゃあこれは、南の果ての氷なのか。ほう……それにしてもなぜこんなに白いんだ?
真水が凍った物体には違いない筈なのに、普通とは随分違う」
「そう、そこなんですよ。さすがピッコロさんだなあ……んー! うまい! やっぱり南極の氷で作ったロックは格段に美味しいや」
いよいよ蘊蓄を語れる嬉しさにテンションを挙げつつ、「ちびり」と言うにはいささか多めの一口を含み、一気に呑み込む。
「おいやめておけ、大体お前、強くもないくせに」
無論ピッコロ自身は酒を嗜まない――というよりやはり体が受け付けないのだが、飲んでいる連中を傍目に見ていれば、アルコール耐性の個人差が大きいことは容易に見て取れる。美味そうにビールを煽る悟空やヤムチャが酒豪かどうかは知らないが、地球人と比較しても悟飯はむしろ変化が出やすいタイプなのは知っていた。
「この白いのは、空気なんです」
「ほう?」
「極地の氷っていうのは、氷というより……雪が長い時間かけてギュ~~ッと圧縮されたものなんだそうです。だから中にぎゅうぎゅうに縮められた空気がたくさん入っていて、それでこんなに白いんですよ。なんて、これ全部その友達からの受け売りなんですけど」
あはは、と少し照れながら笑う。
その説明を受けてグラスを凝視するピッコロの表情がどこか子供のようで、どうしようもなく気持ちが満たされて行く。
「なら……この音は、氷……いや雪の中の空気がようやく解放されている音なのか。」
「そうです。しかも氷河と同じぐらい昔の……少なくとも五万年ぐらいは前の空気だとか。
そう思うと何だか――まあ化学的には普通の氷と同じ成分なんですけど、とても特別な気持ちになりませんか?」
「なるほど。まさかその、何万年前の空気も、こうやって異星人の口の中に入るとはよもや思っていたなかっただろうな」
ピッコロはそう呟いて、白い氷の外観と音を愛でながら、そっと一口冷水を含む。炭酸は何も入っていないのに、なぜか軽い刺激を伴って喉を走り落ちて行く。一しきり説明を聞かされたせいなのか、確かに普通よりもずっと美味に感じた。
「うん。悪くない」
「でしょう? 不思議だな……ロマンを食べてる感じというか、気分の問題なんだろうけど……でも絶対それだけじゃないんだよなあ……何だろ。なんだかこれを知ってる気がするような、そうでもないような」
あまりにも漠然とした疑問を探りつつ、悟飯がもう一口ウィスキーを啜った。
「ん、そうか。もしかして、だけど」
「ん?」
やや考えてようやく口を開く悟飯に、ピッコロも反応する。
「"気"なのかも、って。なんとなーく、気っぽい味がするんです」
「……ふむ。ああ、うん……分からんでは、ないな」
ピッコロは紫の舌を出して氷の表面をチロリと舐めてみた。これだけ貴重さを知ってしまうと無碍に噛み砕くのは気が引ける。ただそれだけの何気ない一瞬の行為は悟飯の心を粟立てずにはおかなかった。
(参ったな……今日はそういうことしない雰囲気だったし、ただお酒だけ飲むつもりだったのに。こんなの見たらキスしたくなっちゃうって~)
でもどうせ、そんな風になってるのボク一人なんだよな。寂しいけど。
「オレたちは地球人より随分長命の種族だが、さすがに万年単位は想像もつかん。
だがなんとなく、それほどの大昔には、今と比べ物にならんほど気が濃かったような気がする。人間だけでなく動物――いや、植物や鳥に至るまで。
単なる妄想だが、大気にもそれらの気が満ちていて、それが凍った物だとしたら確かに感慨深いな」
「あっそれ、本当にそれなんですよ。氷を送ってくれた友達も、それに研究室の先輩も言ってたんです。
まだ人間が社会を作っていたかどうかもわからない太古の昔は、当然文字もなければ声に出す言葉もロクにできてなかったと推察されています。
その中で自分の感情を誰かに伝えたり、助けを呼びたい時に言葉の代わりに気を送っていたんじゃないかと。ほら、父さんたちも気が最高に高まった時とか……あと界王さまの背中に触っていると違う星にまでテレパシーっぽく話が出来たでしょう? あれも父さんや界王さまの気のレベルが凄くて、周囲に気が充満していたからこそじゃないかと」
「うん。オレも同感だ。押し込められて凍った大昔の気の味、気の音、か。悪くない」
「……」
「どうした?」
酒の香りを愛でつつも軽く恨みがましい目で自分を見る圧に気付き、ピッコロがグラスを置く。
「いやどうでも……本っっ当にどうでもいい事なんですけど~」
悟飯のこういう物言いは「少しもどうでもよくない」ことの前振りだと熟知していた。
「いいから言え」
「ピッコロさんはいっつもボクには、『悪くない』とか、そういう言い方しかしないんだよなーって思っただけですぅ~」
「なんだもう酔ったのか、三口も飲んでないだろう」
「酔ってませんよ! ボクには昔っからそんな感じの言い方しかしないじゃないですか。
パンにはいっつも、『いいぞ』とか『なかなか』とか普通に褒めてるのに。なんでそんなに違うんですか! 差別は良くないと思うなあボクは」
「何かと思えばそんなことか。お前なあ……いい年して自分の娘に、ええと……何だったか……ああそうだ”ヤキモチ”か。ヤキモチを焼いてどうする。
しかもパンはまだ三歳になったばかりだろうが」
「ボクが何にもない荒野に置き去り特訓されたのは確か四歳でしたけど~。今のパンとそんなに変わらない年でしたが~?
あの時のピッコロさん、クソガキだの死ぬならそこまでだの、本当に残酷でしたよ。その後だってずっと、ちゃんと褒めてもらったことなんかないのに、パンの前じゃデロデロじゃないですか。デロデロ」
言われる内容に心当たりは無論大ありなのだが、こうも一方的にまくし立てられると面白くはない。面白くなければ一矢ぐらいは撃ち返したくなるのがピッコロであった。
「ふん。あんな幼い娘に醜い嫉妬か。本当にお前は図体ばかり立派になっても、中身はクソガキのままだな。あの頃から少しも成長しとらん」
「……う……」
てっきりむくれるか、そうでなければ言い返して来るだろうと思っていたのである。
「何だ悟飯、変に黙りこくって」
悟飯は本格的に研究職に就いてから鍛錬はないがしろになる一方だが、その分弁は立つようになった。その彼がまさかこんな神妙な、随分とナイーブな表情で黙り込むとは思ってもいなかったので調子が狂う。むしろ自分がひどい悪口を投げつけてしまったのかと罪悪感さえ湧いてくる。いつもならば日常茶飯事の軽口の範疇ではなかったのか。何か触れてはならぬ部分を不用意に踏み付けてしまったか――などと数秒でも思ったことを心底後悔させてくれる言葉が返って来た。
「いやあの、何ていうかええっと……久々にピッコロさんから『クソガキ』って言われたもんだからあの……不覚にもすごく……すっっっごく興奮してしまって」
「……はぁ?」
「す、すみません! 我ながら気持ち悪いこと言っちゃった」
「あ、ああ。気色悪い自覚はあるんだな」
「酷い!」
「お前をそんな風に喜ばせてしまうのなら二度と言わんから安心しろ。クソオヤジ」
「ああっひどすぎる! それはやめてください、痛烈なだけで少しも愉しくない」
「うるさい。女房も子供もいるんだ、どこからどう見ても親父なんだからクソオヤジで何が悪い」
「うわあんピッコロさんのバカ! 悪魔! 大魔王! もう悲しさにかまけてやけ酒してやりますからね、どうせ明日は完全オフだし、紀要の校正も終ったし」
「やめろバカ、すぐ潰れるくせに」
と、慌てて瓶を取り上げると、悟飯は長い溜息を吐きながらむくれた。
「だがそうだな、確かにオレの言い方も良くなかった」
「え?」
存外素直なピッコロに、悟飯の気が抜ける。ついでにふわりと回りかけていた酔いもスッと引いた。
「折角お前が手を尽くして取り寄せてくれた貴重な氷に『悪くない』は礼を欠く言葉だったな。
とても美味い。それに面白い趣向だ。気を使わせてすまんな悟飯」
「え、そ、そんな急に豹変されると調子狂っちゃうなあ……ずるいや。
もういいですよ、そうやってずうっとボクで遊んでればいいんだ」
「本心だぞ。少なくともお前じゃなかったらこんな珍しい氷を手に入れる伝手はなかっただろう」
「まあいいや、そう言ってもらえると僕もいい気分です。
それにこんな風にガーガー言い合うより、もうちょっと氷の音――違うか、雪の音か。それを聞いてたいかな」
真っ当な提案に同意しない理由もない。ピッコロも穏やかに再びグラスを傾ける。
最高の時間だ、と悟飯は思う。
岩山の上に放置されて泣いて震え、獣に怯えながら眠るしかなかったあの日々の幼い悟飯に、こんな穏やかに醸成された、大人として二人だけで向き合う時間が訪れようとは想像しようもなかった。あの時のピッコロはあくまで厳しく、無慈悲で、けれども表に出さぬ優しさを隠しきれぬ――到底追い付けぬ大きな背中だった。
けれども氷や水ではなく、たまには悟飯自身に賞辞を投げてくれたらどんなにいいか――などとはきっと、贅沢すぎる我侭なのだ。
言葉より、こうして家族同然に過ごせる時間が頻繁に持てる幸せを享受し、感謝すればいい。ただそれだけのこと。
しかしいつももっともっと、と思ってしまう自分は、誰が思うよりも強欲なのだ。ピッコロが自分程は強欲になってはくれない。そんな彼だから愛してしまった。それはそうなのだけれど。
「炭酸が入っているわけでもないのに、氷のせいなんだろうな。水を啜った時に口の中で薄く弾ける感じだが、これはこれで面白い」
「え、大丈夫ですか。炭酸得意じゃなかったですよね、確か」
恐らくピッコロの口腔内は普通の地球人よりずっと鋭敏なのだ。アルコールを含むビールは言うに及ばず、コーラやサイダー、低刺激の部類のガス入りミネラルウォーターも「バチバチして痛い」と好まないので、今まで敢えて勧めることはなかった。その彼がこう言うとは実に意外だった。
「そうなんだが、これは痛くない。軽やかで、なんというか円いな。やはり特別な氷は違うんだろう」
「気に入ってくれたのなら何よりですよ」
「いい気持ちだ。オレは酒が呑めんが、酔いというのがこんな気持ちなら、悪くなさそうだ」
やっぱり「悪くない」なんだなあ、この人は。
悟飯は優しい苦笑を浮かべつつ、ピッコロを眺めながら氷の表面に唇を軽く触れさせる。
数万年の眠りから目を覚まされた氷は、現代の外気に触れて溶け出していく。気の味。気の香り。単なる思い込みかもしれないが、いつもと同じ酒とは思えない芳醇な味わいだった。
「普通の氷よりずっと保つよ」と友人は言っていたが、それでも氷は氷。初夏の夜の温度にはそう長くは耐えられないだろう。その間、普段は同じ物を食べられない悟飯とピッコロが共通の気と氷を水を味わえる。
それは確かに「悪くない」時間に違いなかった。
何かしらあれこれ話はした。主な話題はパンの日常である。
幼稚園での様子、あれが出来るようになったこれが読めるようになった、背が5cmも伸びた、怪我をして肝が冷えた。そんな他愛のない、どこの親子にもありふれた話がもっともピッコロを楽しませることを悟飯はよくよく知っている。
少なくとも大学での悟飯の仕事や論文の話より数段マシなことだけは間違いない。自分の話になれば必ずトレーニングを二の次にしていることを叱られるのが必然なので、その意味でもあまり触れたくなかった。
そしてピッコロもまた、パンがどれほど有望な弟子か伸びしろを語る様子が実に嬉しそうなので、二つの意味で悟飯は幸せだった。
二人ともとりとめなく話をして、時折水や酒で喉をしとらせて、なんとなく眠る。休日前の夜の過ごし方としてこれ以上のものはない。ないのだと、つい触れたくなる自分に言い聞かせていた。
そうこうしているうちに、溶けにくいという触れ込みの氷も2cm角――と呼ぶにもだいぶ角が取れて丸みを帯びていた。
「ふむ。最後は贅沢にいただくとするか。
悟飯。こいつは……噛み砕いてしまっても構わないか」
「はい、好きなように」
ん、と小さく頷くより先にピッコロはそれを口に含み、しばらくゆっくり転がして半分溶かし味わったところで、その立派な歯でがりがりと噛み砕き、最後の嚥下の刺激を愉しんだ。
「うん。実に面白かったな」
「よかった。ナメック星の人が褒めてくれるんなら間違いないですね」
悟飯のグラスの中の氷も、ピッコロの物よりさらに小さくなってしまった。
「じゃあボクも真似っこします。んー! 噛むの勿体ないけど美味しいですね。御馳走さま!」
と煩く噛み潰し、静かに飲み込む。至高の清涼感が胸いっぱいに満ちていた。
「あの。ピッコロさん」
「なんだ」
こんな時に限って真正面から目を見返して来なくてもいいのに。
視線の強さに若干気圧されそうになりながらも、悟飯は率直に答える。
太い黒のメガネフレームに手を当てるのは、言い辛い言葉を絞り出す時特有の仕草だった。
「いやあの、なんか。キス、したくなっちゃって」
「……」
「そんな魂胆で部屋に来てもらったわけじゃないから、今日は我慢するつもりだったんですよ。
でもやっぱり、ダメだな。ダメみたい、です」
「決意だけは殊勝なのにろくすっぽ維持できない悪癖は少しも治らんな」
「すみません」
「……別に構わん。今更そのぐらい」
「え?」
さっきまで下がりに下がっていた眉尻がぴゅん、と復元する。
「氷の礼には安すぎるぐらいだろう」
「そういう恩着せみたいに思われたくないから我慢してたんです」
「だが全然我慢できてないな」
「はい……」
「小難しく考えるな、それもお前の良くない所だ」
黒い、長い爪。いつの間にかピッコロの指が悟飯の視界を覆っていた。
そう気づくと同時に眼鏡が外され、テーブルの上に無造作に置かれる。眼鏡を取るのは睦み合いの予備動作だった。
「あっちょっと待ってくださ……」
言い終わる前に、さらりと乾いた唇が重ねられる。
いつも体温の低いピッコロのその部分が更に数段冷たいのは、先ほどまで氷を食べていたせいなのだろう。
キスを仕掛けるのがどちらでも大した問題ではない。その日の気分次第で定まってはおらず、今日はピッコロの方から顔を傾け、深くした接合部から舌を挿し込んで来る。
(ん、だからこれ、今はやばいんだって……)
僅かに戸惑いながらも、まさぐる舌をつい貪らずにはいられない。
左手でピッコロの頭をかき抱き、右手が行き先を決めあぐねる。
そうしているうちに、仕掛けたピッコロの方が先に顔を離し、大きく息を継ぐ。
そのまま自分の口元を軽く押さえていた。
「う……」
「大丈夫ですか? だからボク、する前に口すすいで来ようとしてストップかけるとこだったのに、やめないんだもんなあ」
ボクのせいじゃないですよ、と言いたげな顔で、悟飯はボトルに半分以上残った水を注いだグラスを渡した。
微量ながら悟飯の口腔内にはアルコールが残っている。その状態で唇を食み合えば、ピッコロには強烈な酩酊刺激となるのは当然だった。
「ほら、たくさん水飲んだ方がいいですって。悪酔いしたら大変だ」
「ん、一瞬クラッと来たが大したことはない。さっき氷の気の刺激を受けて少し慣れていたせいかもな」
と答えつつ、素直にゆっくりと二口含み、口内を洗い流す。
似ている、と思った。
小さい気たちが口の中をくすぐりながら踊るようなあの刺激と。
悟飯とキスを交わす時の、むずむずと小さく、そして甘く痺れる感覚と。
「とにかくボク、うがい……じゃないな、一度歯磨いて来ますから、待っててください」
腰を浮かそうとしたが、少しも立ち上がれなかった。ピッコロの片手が悟飯の肩を押さえている。
「ピッコロさん?」
「いいから、そのままここにいろ」
朝まで、と零れそうになった二の句を強い理性で呑み込む。
「……いいんですか? 知りませんからね」
「だから、大丈夫だ」
ニヤリ、と口角を上げるピッコロの表情に、獣欲が素直にせり上がる。そして悟飯もまた、鏡に映したかのような少し不敵な笑顔で応えた。
「ピッコロさん……好きです。大好きなんですよボクは、ずうっと」
そんな言葉を何度も何度も繰り返している。きっとピッコロは聞き飽きたに違いなく、それでも伝えずにはいられない。
「分かっている」
分かっている。心底分かっている。理解できている。そのつもりだ。
悟飯が自分に向け続ける思慕の強さと深さ。
成長に伴って変容を続けて凝り、地球人が「愛」と呼ぶ代物に化けてしまったこと。
恋愛。性愛。愛執。地球で言う「愛」はあまりにも細分化されて複雑で、その理解はピッコロの手に負えない。正直もう少しシンプルにまとめられないものかと思うが、異星人が文句を付けても仕方のないことだ。
何より。
ピッコロの口から同じ「好きだ」という言葉を聞かせてほしいのだと。分かっている。
たかが数音、悟飯の声を鸚鵡返しに真似る。行為自体はごく容易い。
それを口にすれば悟飯はどれほど感激するだろう。その顔が想像できるからこそ――どうしてもできなかった。
つがいを作り、他の個体の優位に立つための恋愛も。
同胞を増やし、同種を絶やさぬため生殖行為も。
そして性愛の基本となる性の別すら、ナメック星人は持ち合わせていない。概念そのものが存在しない。
「ピッコロ、お前ってさあ、頭いいくせに……じゃないか、いいから、なのかもなあ。
とにかく頭が固ぇんだよ。
そりゃナメックの人たちが地球人とは何もかも違うのは、俺だってお前の星で色々見せてもらったんだ、知ってるさ。
けどお前は地球で育って、俺たちの仲間になってからの方がもうずうっと長いじゃねえか。
だったらもうさあ、『だいたい地球人』扱いでいいんだよ。つうか周りの人だって昔ほど変な目で観ねえだろ? 馴染んで来てるんだって、それなりに」
クリリンから、そんな風に言われたことがある。
「こないだ一緒にパンちゃんのお迎えに行った時さあ、幼稚園の先生一々お前見てビビらなかったろ?
普通に『あらピッコロさんお疲れ様』ってさ。
そんなもんなんだって。だからさあ。難しく考えねえで見よう見まねで何でもやりゃいいの」
そうは言われても周囲のサンプルが偏り過ぎているので、彼が言う程軽くは考えられない。
と答えたら、クリリンは一笑して笑い飛ばした。
「大体オレらだってよー。初めてデートしたりキスしたり、子供作るすったもんだだって、みぃんな見よう見まねで、ままよって感じで当たって砕けて今があるんだぜ。地球人だから最初っから上手くなんてできねえんだから、考え過ぎんなよ。な?」
衷心からの助言だと分かってはいる。実にクリリンらしい暖かいアドバイスだった。
好きだ。
愛している。
地球の女が好む創作物のように、常套句を返してやれば、二人の間は更に深まるだろう。
深みに嵌る――のを恐れている。その自覚はあるが今はそこは問題ではなく。
慈愛以外の愛とは無縁のナメック星人がもっともらしく恋や愛の言葉を口にすることは、あまりに不実に思えてならないのだ。
不誠実。それだけは耐えられない。悟飯に相対する時は常に誠実でありたい。ピッコロが絶対に譲れない一線だった。
悟飯からは、出会いの時からずっと、「誠」しか貰っていないのだから。
だから今は、いや少なくともしばらくは。
自分の矜持だけに拘り続けるオレを、赦してほしい。
何が減るわけでもないのに、お前を喜ばせないと分かっている言葉しか使えないオレを。
他の誰から見てくだらぬ自縄自縛でも、それを崩せばオレがオレでなくなるような気がして――そうだ。きっと。怖いのだ。だから今は。
いつの間にか嗤えなくなっているな。ベジータのことを。
悟飯との「先に進むしかない本気のキス」に溺れつつ、少しばかりそんな思念がピッコロの喉元を過っていた。
心地良い刺激が、いつもより強く。
それが「性欲」でないとしても確実に存在する「愉悦」をどこまでも励起する。
キスに味があるとすれば、それは悟飯の気の味である。今日はそれに、僅かにまだ「太古の氷の中の気」が混じっている。
清涼でもあり、甘いようで酸いようで。やはりナメック星人には表現が難しいが、それは悟飯との魂の接続をより強固にするような感覚で。
実に、心地よかった。
人には言えぬ行為を、もっと激しく、今夜だけは行ってもいい。
珍しくそんな気分に導かれる。
その不思議に美味な昂奮を、悟飯はより濃く受け取っている。
今日のキスは明らかに普段とは違っていて。
体も頭も熱くなるのが早い。止まらない。
どこもかしこもピッコロへの情欲で満たされて、すこしも昂りが止むことはない。
(これほんとに、よっぽどすごい気が入ってたんじゃないか? あの氷……)
今はただ感謝するだけだ。普段よりピッコロさんがちょっとだけ大胆みたいで、ボクにはそれだけで最高だ。
唇での交わりはいつもより長く、そして熱烈だった。
「やっぱり酔ったのか? 何だか今日は変にしつこいぞ」
「たまにはいいでしょう? すごいキスがしたい気分になったんです」
「ふん」
「……で、すごかったですか?」
衒わず超直球で訊ねてみる。悟飯本人が思うよりずっと「雄の獣」の顔付きは、ピッコロから2cmと離れてはいない。
「自信過剰の面構えだな悟飯。
まあ……そうだな、悪くはなかった」
「ほら! また言った、『悪くはない』って。
ホントそれもう……今日は禁止にしてもいいですか~?」
「じゃあどう言えば満足するんだ」
「え、そりゃあ……えっと……
『上手い』とか……『気持ちいい』とか……
あーもう恥ずかしいな! そういうのはエッチ……じゃなかった、少し大人向けの映画とかドラマとか見て! 勉強! してくださいよ。
何で当事者のボクが教えてあげなきゃならないんです」
「もう少し親切にしたらどうなんだ、オレは憐れなさすらいの異星人なんだぞ」
「ピッコロさんを憐みの対象として見たことは一度もないですからね、言っときますけど」
「ふふん」
腹立つなあ、と悟飯はまだ憮然としている。およそ恋人を組み敷きながら交わすやり取りではない。
「とにかくパンだけじゃなく、たまにはボクのことも褒めるべきですよ、もっと」
「例えば、他に何か言ってほしい言葉があるか」
「え? うーん……そうだなあ、ピッコロさんに言えそうなのは~……
『上出来』とか」
ふん、とまたわざとらしく大きく鼻で笑ってやった。
「そんな高望みは、一度でも上出来に性交してオレを満足させてからから言うんだな」
「はあー? 言いましたね? じゃあもう本気出しますよ、後で気持ち良すぎてヒイヒイ泣いたって絶対止めませんからね」
悟飯はムキになって、いきなり強くピッコロの首筋に齧り付き、そして強く吸い上げる。
「おいやめろバカ、オレの内出血は目立つんだ」
「キスマークって言ってください、って教えましたよね? わざと目立つところに付けてんですよ」
「ケッ好きにしろ。どうせマントで隠れる箇所だ、どうということもない」
「かっわいくないなー。啼くの以外は少し黙っといてもらえますか」
そう言うと悟飯は、白いTシャツを本気の顔で脱ぎ捨てた。
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「……で、あの。
どう、でした……かね」
結局数回抱いてしまってから、悟飯はおずおずと尋ねる。
「少しは力加減とかブレーキを覚えろ、と……言いたい」
まだ息の整わないピッコロは、背と言わず腿と言わずキスマークまみれである。
紫の血が緑の肌に吸い上げられると黒に近い色になる。確かに彼の言う通り、普通の人間のそれよりも雄弁過ぎて正視できなかった。
「すみませんでした……」
「まあ、うん。
感覚的には……悪くは、なかった」
「やっぱりそれしか言ってくれない~!」
「だからなあ。オレが『上出来』なんて言うとしたら、それは戦いの中だけだ。
ねだりたいなら、もう一度初心に戻って修行をやり直す気になってからにしろ」
「もういいですよ。ピッコロさんのばか」
愛おし気に後ろから抱きしめながら、悟飯が甘い声で呟く。
バカはお前の方だろう、とピッコロは思う。
強くなったな、だの。
見違えた、だの。
オレは色々お前に伝えた気がするのだが、お前は覚えていないのか。それとも記憶に留めるほどの言葉でもなかったか。
確かに同じ年頃で較べると、パンには率直で悟飯には手厳しい。それは否定しないが、状況が違うのだから仕方あるまい。
正直、愛の言葉はともかく、「上出来」ぐらいは言ってやってもいい。
けれどそれはあくまで、悟飯が戦場での「上出来」を披露してくれなければ叶わない。
(できればそんな見事なお前の戦いぶりを、もう一度見せてほしいものだがな)
しかしそれを望むのはもう難しいのだろう。
悟飯は今や、ピッコロの理解の及ばない学問の世界で、想像も及ばない「上出来」を産み出しているのかもしれない。
それは世界が平穏な証なのだから、それこそ。
悪くは、ない。わけで。
やれやれ。体を合わせるだけのことに一々やかましいクソガキだ。
心中だけで呟きながら、ピッコロは鳩尾に回された悟飯の手の甲に、そっと掌を合わせた。
手が会わされた瞬間、とっくに溶けて消えた筈の氷の刺激が、口から胸にピシピシと奔った。
<End>