一
なぜわざわざ遺体を持ち帰って来たのか。自分には縁もゆかりもない女だ。墓を作りかねないマギールを見かね、それらしい口実を付けて彼から遺体を取り上げたはずだった。炉で荼毘に伏してやるとは言ったものの道中に海へ投げ捨ててしまっても問題なかったように思う。
持ち帰った遺体を放り込んだ天国の炉を鉄格子越しに見ながら、ぼんやりとそんなことを考えていると、ふいに話しかけられ、我に返る。
「可愛い子っすね、看守長のお気に入りっすか?」
声の主は炉の見張り番をしている看守だった。
「いや……」
看守の方へ視線を向けることなく生返事をしながらも、看守にかけられた、お気に入りという言葉が妙に頭にこびりつくように感じた。
「焼いちゃうんすか?こんなに細いと骨も残らなそうっすね」
"骨も残らない"その言葉に忘れ去ろうとしていた感覚が蘇ってくる。
不意に合わせられた唇の感触、言葉も発せられぬほど強く絡められた舌、縋り付かれた裸体から漂う鼻孔をくすぐる甘やかな香り、行為の大胆さに似合わぬほどに震える小さな体。忘れ去ろうとしても忘れられない、もどかしい記憶が蘇り立ち眩む。
その小さな体は今、視界の中で炉の炎に焼かれていく。
酷い眩暈に見舞われるような感覚に思考が奪われ、体が勝手に動いていた。
「看守長!?何してるんすか!?」
看守の驚愕した叫び声が看守長の耳に届いた時には鉄格子を開け放ち、彼は炉の中で焼ける遺体を抱えていた。感じた痛みは炉の炎の熱の為か、ずっと胸を焦がしていた何と呼べばいいか言いようのない感情のせいなのか、よくわからなかった。
全身を焦がす熱に耐え、炉から遺体を引きずり出してようやく我に返る。一部始終を見て何やらニヤニヤしている看守と目があった。
「やっぱり、惜しいっすよね」
惜しい、看守に言われた通り惜しいと思ってしまった。しかし、これをネタにしばらく看守共に揶揄われてしまうのは腹立たしい。
「確かに惜しいと思ってな」
「そうでしょう、可愛い子っすもんね」
揶揄ってやろうと声を弾ませる看守を見下ろしながら看守長は言葉を続けた。
「可愛い?何を言っておる?半ば焼け焦げた死体を刑場に晒してやるのだ。日に日に腐り果てていく様に囚人共はさぞ震え上がる事であろう。そんな奴らの顔を眺めるのはさぞ楽しかろう?」
いつものように冷淡に吐き捨てる。
「そういうのは勘弁っすよ。人間は腐ると臭いがヒドイっすから!そんな所で仕事するのは嫌っす!」
看守は心底嫌そうな顔をして首を振った。こうなればしめたものだ。
「そうか、ならば私一人で腐り果てていく様を楽しむとしよう。臭いが嫌ならば、しばらく私の部屋には近付かぬことだな」
看守を背にそう言いながら、彼は焼け焦げた遺体を抱いたまま足早にその場を立ち去って行った。
二
焼け焦げた遺体を自室に持ち帰り半刻ほどした頃、看守長は応接用のソファーに座り頭を抱えうずくまっていた。
向かい合わせで置かれているソファーの向かい側の席に横たわっているのはモンゾーラでマギールから引き取ってきた女の遺体。否、彼によって蘇生され既に遺体ではなくなっていた。
(つい、ザオリクしてしまった。どうしよう……。)
わざわざ自分を呼び付けてまで彼女の蘇生を望んだマギールの頼みを断って遺体を引き取ってきたのに、なぜ今になって蘇生してしまったのか自分でも訳が分からなかった。
彼女の妹を助け出したのは、そうしなければずっと彼女はマギールの傍から離れないと思ったから。蘇生を断ったのは地位も名声もすべてを手にしているマギールへのささやかな嫌がらせだった。遺体を取り上げたのは墓を作られてはマギールの地位が危ぶまれるから。
それならば今なぜ蘇生してしまったのか?
彼女の妹を助け出したのは、そうしてやりたいと思ってしまったからか。蘇生を断ったのは地位も名声もすべてを手にしているマギールが、さらに自分の欲しい物を手に入れようとしているのが気に入らなかったからか。遺体を取り上げたのは傍に置きたかったからなのか。そして、蘇生したのは触れ合う唇の熱をまた感じたかったからなのか。
神に仕える我が身が異性を傍に置き触れ合いたいなど、そんなはずはないと首を振りながら頭を抱えているとふいに声がかけられた。
「あの……」
戸惑いの混じった女の声だった。確かにあの女の声だ。遂に目覚めてしまった。いっそ、今一度殺してしまおうか。しかし、また蘇生してしまうかもしれない。生殺をある程度思うままにできる己の能力が今は心底恨めしい。
様々な感情や考えが頭の中をぐるぐると駆け巡り、顔を上げることもできず、ずっとうずくまっていると頭に何か触れるのを感じた。
何かと思えば、どうやら頭をなでられているようだ。遠慮がちでいて女性特有の優しい手つきに何も考えられなくなり、次に我に返った時には両肩をつかみ彼女をソファーに押し倒し上から見下ろす格好になっていた。
「すっ、素肌に触れてはいけないんじゃなかったのですか?」
ひどく怯えた今にも消え入りそうな声だった。
確かに彼女の言う通り彼がいつも身に付けている手袋は焼け焦げてしまって今は素手だ。荼毘に付そうと焼かれていた彼女の身に付けていた着衣は大部分が焼け落ちてしまって掴んでいる肩も含め彼女の肌は大きく露出している。
指摘されたことで素手だったことを意識してしまい、手から伝わる素肌の感覚に、余計離れがたくなってしまった。
「よいではないか、固いことを言うな。見ろ、そなたのお陰で私まで焼かれてしまった。禊は先に済まされてしまった事にすればよい」
自分でも驚くほどの甘い声で囁いていた。それとは対照的に彼女の眼は怯え切っている。
「私が恐ろしいか?ならば少しの間目を閉じていろ。……興が削がれる」
余程恐ろしかったのか言われるがまま彼女はこれから我が身に起こる事に身構えるようにぎゅっと固く目をつぶった。忘れ難かった唇の触れ合う感触を今一度と、そろりそろりと唇を合わせた時彼の胸に冷たい物が流れるのを感じた。
固く閉じられた目と同じように唇もまた固く結ばれていた。それが意味するのは、明らかな拒絶。
以前の彼女には目的があった。それが果たされた今では拒絶されるのは容易に想像できた。連れ帰り傍に置き、何かを得た気になっていたのは思い上がりでその実、初めから何も手に入れてはいなかったと思い知る。
ほんの一瞬軽く唇に触れただけで彼は身を離した。
「もう……よいぞ」
言いながら立ち上がり焼け焦げた服を脱ぎ棄てながらクローゼットに向かって歩き出す。
「えっ?えぇっ?」
何かされるのではないかと身構えていたが、自分から遠ざかっていく彼の行動が理解できず、思わず彼女は頓狂な声を上げてしまった。
「何だいつまでも焦げた服でいるわけにもいかぬだろう?着替えだ。あまりじろじろ見るな」
その言葉に危機は去ったのだと安堵し、見るなと言われるままに彼から背を向けた。
沈黙の中、着替えの衣擦れの音だけが微かに響く部屋で、彼女は今の状況を整理しようと努めた。ここはどこなのか?今まで見たこともない華美な部屋。モンゾーラとは違う空気。部屋には二人きりなのか、他に誰かがいる気配がない。
副総督様に妹へ預けた種を探すように告げた後で意識は途切れたように思う。次に気が付いたらここにいた。副総督様ならこの状況を説明してくれるだろうし、何とかしてくれるのではないかと思い立ち、おそるおそる口を開いた。
「あの……、副総督様はどちらへ?」
余計な言葉を発して彼の気に障るかもしれないのは恐ろしいが、この男と二人きりでいることが耐えられなかった。綺麗な顔で甘事を囁き、冷徹な笑みを浮かべ辱められたのは忘れられない。他者の心を折ることに悦びを見出している、そんな男だ。憎いというよりも、一切関わり合いになりたくない。可能ならば今すぐにでも逃げ出してしまいたかった。
「知らん。いや、そうだな……あえて言えるとすればモンゾーラにおるのであろう。あれはあの地から動けんはずだ」
彼の返答からして、やはりここはモンゾーラではないのだと容易に察せられた。ではどこなのか?彼は監獄島の看守長だと以前名乗っていたのを思い出す。部屋で着替えているのだから、ここは彼の自室なのであろう。
「ここは監獄島なのですか?私は妹の代わりに連れてこられたのでしょうか?」
「察しが良いな。その通りだが――」
着替え終わったようで、そう言いながら彼が近づいてくる気配がした。
「妹とやらの代わりと言うのは間違いだ。キサマはあの時死んだと思われた。荼毘に付すためここの炉に放り込んだら生きておった。ただそれだけだ」
何やらばつが悪そうに口ごもりつつされた説明が聞き取りづらく、え?っと聞き返すと癪に障ったのか彼の眉が吊り上がるのが見て取れた。
「何だ!?生きたまま焼かれたかったのか?ならば今すぐにでもそうしてやってもよいぞ!」
「いっいえ、結構です」
「ならば、キサマも着替えろ。その恰好でいたいと言うならば無理にとは言わぬがな」
言いながら着替えるついでにクローゼットから持ってきた服を彼から手渡された。
その恰好と言われ、焼け残ったボロキレのようなものがわずかに残る裸とさほど変わらない格好をしていることに初めて気が付いた。羞恥がこみあげてきて思わず受け取った服を胸に抱き込むようにしてうずくまる。
「別に隠さずともよいぞ、そのような貧相な体を見た所で何も感じぬ。私に見られるのが不都合ならば、向こうに浴室があるからそこで着替えてくるがよい」
示された方向にはドアがあった。そのドアの向こう側に彼の言う通り浴室があるのだろう。浴室と聞きうずくまっていた顔が勢いよく跳ね上がる。
「お風呂があるんですか!?はっ、入っても良いですかッッ!?」
いままでの怯え切っていた態度は何だったのかと思うほど、食い入るように身を乗り出してくる彼女に驚きつつ、ああと彼が短く返事をすると同時に彼女は浴室へと駆け込んで行った。
「これが……、お風呂」
飛び込んだ扉の先の景色に圧倒され思わず感嘆の声を漏らす。
部屋の入り口には脱衣のためのスペースが設けられ、衝立で仕切られた向こう側には湯が張られた陶器製のバスタブがあり、金属製のピカピカしたシャワーが備え付けられている。バスタブに面した壁には大きな窓が設けられ外の光が差し込んでいた。
外から丸見えだと不都合があるので、窓の外をそろりと覗き込むと一瞬息をのんだ。ここは建物のだいぶ高いところにあるのか眼下にはどこまでも続く海と空が広がっていた。これなら外からのぞかれる心配も無いだろうと安堵し、入浴することにした。
書物の中でしか見たことのないきちんとしたお風呂に入れるなんて――、とまさに夢見心地で入浴を済まし、上機嫌で手渡された服に袖を通そうとした時、彼女の表情は曇った。
そのころ、看守長は書き物机で視察の報告書の執筆に追われていた。
(おのれマギールめ!視察にかこつけて無理やり呼び寄せられたお陰で、無意味に報告書まで書かされる羽目になったではないか!実際何も視察などしていないのに、何を報告しろというのだ!)
ぶつぶつと恨み言を言いながら紙にペンを走らせていると、着替えを済ませた女が浴室から出てきた。
「あの……、これは……?」
遠慮がちに声をかけられ、手元に注いでいた視線を女の方へやると、今にも肩からずり落ちそうなぶかぶかなローブを着た女が何か言いたげにこちらを見ていた。
「やはり、私のではサイズが合わぬか……。適当に紐で縛って脱げぬようにしておけばよいだろう」
言いながら書き物机の引き出しをごそごそ漁り丁度よさそうな紐を取り出して彼女方へ放り投げた。投げられた紐はひらひらと丁度彼女の足元の床に落ち、それを拾い上げようと彼女がしゃがむ様子を見ていた。
「貧相だのう……。鑑賞にも耐えんとは、どうしたものか……」
ため息交じりに小さく呟いた声が聞こえたのか、ダブダブに余ったローブの布を彼女が胸元に寄せるのが見て取れた。
「……副総督様は美しいと言ってくれました」
貧相貧相と言われるのがよほど嫌だったのか、小さな声で彼女は抗議した。
「ああ、キサマは目的の為なら誰にでも脚を開く売女であったな」
苛立たし気に机にペンを置く音が響いた。
「そうだな……。何か希望があるのなら、その体を使って私に願い出てみればよい。得意であろう?」
言いながら書き物机の椅子から立ち上がり、彼女のもとに歩み寄って顎をつかみ俯いていた顔を上げさせた。すぐに目を逸らすだろうと思っていたが、意外にも彼女は目を逸らすどころか睨み返してきた。
「あなたは約束を反故にする嘘つきだって、副総督様は言ってました」
まただ、彼女の口からマギールの名が出ると看守長は無性に苛立ちを覚えた。
「そうであったな。ならばどうする?ここにはキサマを甘やかしてくれるマギールはおらぬぞ」
看守長がそう言い終わらぬ間に彼女は顎をつかまれた手を振り払いバルコニーへの窓を開け放ち手すりの縁まで走って行った。
「先の短い命です。もう、願いは無いのですよ」
あきらめたようにそう言うと、彼女は躊躇うこともなく手すりを乗り越え飛び降りてしまった。
「この高さから落ちおった。なんと愚かな……」
一瞬の出来事に、彼は唖然として呟いた。何かを考えこむようにその場に立ち尽くしていたが、やがて急ぎ足で部屋から出て行った。