「冷える前に部屋へ戻ろう」
スキーグローブを外した左手を差し出され、私は思わず固まってしまった。
「手を繋いでくれるのか?」
彼の行動が私の思っている通りなのか尋ねれば、自分と変わらない位置にあるマゼンタが伏せられ、彼は差し出した手を引っ込めようとする。
「……気を悪くしたのなら」
「いいや」
何か続けようとしたブラッドの言葉を遮り、手をとる。きんと冷えていた私の指に、じんわりと彼の体温が広がった。
気を悪くするなんてとんでもない。そんな風に思わせてしまうとは、まだまだ私もブラッドとの信頼関係が築けていないな、と、ルーキー研修でメンターを務めた最初の世代として、少しばかり反省をする。
グローブで温められていた手は、己のそれより少しだけ細く、滑らかで、日頃から指の先までケアの行き届いている彼らしかった。
私が第十二期末で『ヒーロー』を引退し、第十三期司令の任についてから、もうすぐ四ヶ月が経つ。体内の【サブスタンス】を停止してからも、同じだけの月日が経ったが、未だに能力がないことをうっかり忘れてしまう程度には、長く『ヒーロー』をやっていた。
ブラッドの入所した第十期では、別の研修チームでメンターを務めており、彼とは一度特別任務で同行することはあったものの、担当セクターが被ることはついぞないまま現役を終えた。
そのため、こうやって長い時間を共有するのは、司令になってからが初めてだ。
「ぅわ」
強まる吹雪に視界が悪くなる。そろそろゴーグルをつけた方がいいかもしれない。
際限なく降り積もる雪は柔らかく、歩くたびに膝まで埋まる。これは、ブラッドの能力でスキー板なりを作ってもらったほうが、早く帰れるのではないだろうか。いや、斜度が緩いし難しいか――そんなことを考えながら、私の先を歩くブラッドの背に目を向け、そのまま繋がれた手に視線を落とす。
しっかりと繋がれた手は、外気によってだいぶ冷えてしまった。彼にはグローブもあったというのに。
ざく、ざく、と柔らかい雪をブラッドが踏みしめ、歩きやすくなった道を私が続く。
ブラッドと背丈も、体格も、そう変わらない。年齢だって、まだ三十代だ。司令になってからも日常的に鍛えているし、戦闘の経験もある元『ヒーロー』。こんな風に、手を引いてもらうようなか弱い存在じゃない。
けれど一度けがをしたら、もう『ヒーロー』の頃のように、すぐには回復しない。
ブラッドにとって、一般人とさほど変わらないこの体は、たくさんの守るものを抱える彼の、その対象のうち、ということなのだろう。
そして、そう思われるのは、元『ヒーロー』の私のプライドが傷つくかもしれないともわかっていて、それでもブラッドは手を差し出した。
「こんな風に」
声を出すと、白い息が風に乗って流れる。ブラッドは、ちらりと視線を寄越し、次の言葉を待った。
「こんな風に守られて、私が女の子だったら、ブラッドのこと好きになってしまってただろうな」
話にきく、街中でブラッドを囲う女性たちを思いながらそう言えば、ブラッドは「なんだそれは」と小さく笑った。
美しい容姿だけでなく、骨の髄まで『ヒーロー』が染みついている部分も含めて、その全てが彼が数多の女性たち――もちろん、老若男女問わず、大勢の市民も――を魅了する所以なのだろう。
ルーキー時代のやんちゃぶりを知っている身としては、少し感慨深さすらある。
いや、あの頃から変わらず彼は根っからの『ヒーロー』で、それに実力が伴った、ということなのかもしれない。
「今度、ルーキー時代のブラッドたちの話、改めてジェイに聞いてみようかな」
「なんだ、急に」
「もっとお前のこと知りたいなって」
寒さによって、手の感覚が少しずつ鈍くなる。そんな手を決して離さないとでも言うように、力強く握られ、心の真ん中に火が灯ったような気持ちになる。
「知るなら、過去ではなく今の俺たちを知ってくれ。今のあなたといるのは、ルーキー時代の俺ではない」
「はは、ごもっともで」
けれど、やはりあの頃のブラッドと、今の彼を比べて成長を感じたくなってしまうのは、私がもう年だからだろうか。ジェイならきっと、わかってくれる気がする。
「……あのブラッドに手を繋いでもらえるなんて」
司令になってよかったなぁ、と、彼からの「からかうな」という返しを期待して続ければ、
「俺も、あなたが十三期司令でよかった」
などと嬉しい言葉を返されたものだから、柄にもなく照れてしまい、空いた左手で雪に濡れた彼の髪をくしゃくしゃにかきまぜてやった。