陶酔窓から眺める夜の街は、まるで腐った夢を包み込むように重たく沈んでいた。
ガス灯が薄い霧の中にぼんやりと浮かび上がり、不吉な色で染め上げていく。
リチャードは、冷たい硝子を指先でじっとなぞった。指のひらひらとした跡が、まるで誰かが触れたかのように残る。
その感触は、ひどく生々しく、脳裏に消えない。
「……姉さん」
その名を、吐息のように囁く。優しさの欠片もなく、ただ冷徹に響く声。
彼の唇に浮かぶ微笑みは、無邪気な子供のものではない。
いや、それどころか――悪魔の微笑みだ。
机の上には、すでに開かれた羊皮紙があり、そこに滲んだインクが暗く光っている。
鉄の匂いが鼻をつき、リチャードはその匂いを深く吸い込んだ。
彼の手がペンを取り、滑らせる。その動きは無駄のないものだった。
***
姉が婚約しているその男の名前を、リチャードは口にすることさえ嫌だった。
その男が、彼女の手を握り、彼女の笑顔を奪う。その事実が胸を引き裂くようだ。
「君が彼に微笑んだ。君が彼の腕に手を添えた」
喉の奥で、乾いた笑いがこぼれる。
──それは赦されない。
決して、誰にも、君を奪わせはしない。
「大丈夫、姉さん」
静かに囁く声は、あたかも彼女に慰めを与えるようだが、実際にはその中に隠された毒が底知れぬほど深い。
ペン先が羊皮紙を切り裂き、リチャードは書き進める。
『近頃、子爵殿が不穏な動きをしているとの噂を耳にしました。
その背後には、補給金の不正横領が……』
リチャードは一度筆を止め、静かに笑った。その笑いの中に、何もかもを見透かすような冷徹な輝きが宿っている。
真実かどうかなど、どうでもよかった。
社交界では、真実がどうであれ、噂こそがすべてだ。噂こそが権力であり、恐怖であり、処刑台の縄なのだ。
宛名にゴシップ好きの趣味の悪い夫人の名前絵を書き、封をする。
彼は立ち上がり、ベルを押す。
若い給仕がすぐに扉を開け、リチャードの前に現れた。
彼は無表情で、少年に手紙を渡す。その手紙の裏には、微笑みを浮かべた顔がある。
「これを、夫人のもとへ。……忘れるな、これは内密だ」
給仕が去った後、リチャードは再び窓辺に戻り、暗闇の中で目を細めた。
夜風がカーテンを揺らし、冷たい空気が頬に触れるが、彼の心はますます熱を帯びていく。
あぁ、姉さん。君はきっと、これを知らないまま、あの男との縁を絶たれるのだろう。
君は泣くだろう。心を痛めるだろう。けれど、心配はいらない。
「貴女には、私がいる」
その言葉を、彼は甘く囁いた。
まるで告白をする生娘のように、頬を少し赤らめて。そうして微笑みながら、再び口を開く。
「君には、最初から私だけで十分だったんだよ」
足元の絨毯に、リチャードの靴音が沈む。だがその足音には、どこか重々しさがある。
まるで獣が獲物を捕らえるような、確実な足取り。
次の手。
リチャードはその日、決定的な一手を打つ。
娼館の女に頼み、子爵が頻繁に通っていたことを証言させる。彼女には十分な報酬を与える。その口から、全てを語らせてやる。
そして、その言葉が広まり、子爵の名は徐々に黒く染まり、彼の信頼は崩れ去っていくだろう。
リチャードはその結果を想像し、にやりと笑った。
彼は何も急ぐことなく、優雅に策略を練りながら、少しずつ姉を取り戻す準備をしている。
まるで、姉と自分が子供のころに夢見たお伽噺の騎士のように。
だが、その剣はもはや、無垢な騎士のものではない。
血に染まった策略だ。
──君が、まだ夢を見続けられるように。
私が、代わりに現実を汚し尽くす。
夜が明けるのを、リチャードはただ見つめていた。
窓の隙間から差し込む薄明かりをじっと見つめながら、ゆっくりと微笑む。
「大丈夫だよ、姉さん」
その声は、酷く優しく、けれど恐ろしいほど甘かった。
***
翌日、午後のサロンは、薄曇りの光にぼんやりと包まれ、空気の冷たさがしんと漂っていた。レースのカーテンがわずかに揺れ、窓の外から忍び込んだ風が、部屋にさらに静けさを沁み込ませる。
ソファに座る姉の指先は、かすかに震えていた。手にした紅茶のカップは、すでに熱を失い、白い陶器の内側に微かな濁りを落としている。青白い頬に、かすかな紅が浮かぶ。それがかえって、その不安げな面差しを際立たせていた。
そこへ、リチャードは静かに歩み寄り、何の音も立てずに隣に腰を下ろした。彼は、姉の手からそっとカップを取り上げ、卓上に戻す。カップと木の天板が触れ合うかすかな音が、広いサロンに小さく響いた。
「顔色が良くないな、姉さん」
声は低く、穏やかだった。心配そうに見えるその響きの奥で、彼の視線は姉の揺れる瞳を静かに、離さずに捉えていた。
姉はかすかに肩を震わせ、ゆっくりと顔を上げる。瞳は翳りを帯び、不安と恐れが浮かんでいる。
「リチャード……聞いたでしょう? 彼の、あの噂を……」
かすれた声だった。リチャードは唇の端をわずかに引き締め、ゆっくりと首を横に振った。
「くだらない。誰かが流した作り話だ。そんなものに、姉さんが心を煩わせるなんて、勿体ない」
言葉はやわらかく、しかしどこか決して異を唱えさせない重さを帯びていた。
彼の手が、そっと姉の肩に触れる。その仕草は幼い頃、姉が夜に怯えたときに彼がしたものに似ていたが、その掌の温もりは、今や逃れられぬ拘束のようだった。
姉の額が、そっと彼の胸に触れる。彼女は小さく息を吐き、かすかに震えながら呟いた。
「私……どうしたらいいの……」
リチャードは腕をまわし、姉の背をゆっくりと撫でた。その指先には、確かな力がこもり、かすかに姉の細い身体をその腕の中に沈めていく。
「心配しなくていい。私がそばにいる」
囁くようなその声は、ひどく優しい響きだった。だがその柔らかさが、かえって逃げ道を閉ざす鎖のように絡みつく。
姉は力を抜き、重さを彼に預けるように身を委ねた。リチャードの唇の端には、静かな笑みが浮かぶ。その微笑みは、姉には決して見えぬ場所で、深く静かに刻まれていた。
腕の中で震える姉が、かすかに頷く。そのか細い仕草が、彼の掌に確かに伝わる。リチャードの手は、さらに確かに姉の肩を抱き寄せる。細い身を、その腕の中にそっと封じ込めるように。
サロンには再び沈黙が降りた。窓の外の風がカーテンを揺らすたび、部屋の空気がわずかに動いた。しかしその中で、リチャードの腕に囚われた姉は、もうどこにも逃れられなかった。
やがて、姉の手がそっと彼の手に重なった。リチャードの指が、その細く冷たい指先を静かに包み込む。ゆっくりと、しっかりと。
「……全部、私に預ければいい」
その言葉は、穏やかで、逃げ場のない優しさだった。姉は、再びかすかに頷く。
リチャードはその小さな震えを、何より甘く味わいながら、静かに微笑み続けた。彼女の不安も涙も、そのすべてが、確かに今、彼の掌の中に収まっているのだった。
***
姉が俯き、白い肩を震わせるのを見た瞬間、リチャードの呼吸は浅くなった。
胸の奥で、熱と冷たさが同時にうねる。甘く、痺れる毒が、じわじわと四肢に満ちていく。
それでも彼の唇は、穏やかにほころんだ。優しい弟の顔を崩さずに。
「……そんなふうに泣かないで、姉さん」
声は柔らかく、まるで冬の夜に灯る小さな火のようだった。
けれど、心の底で、リチャードはその涙に酔いしれていた。
喉の奥がひりつくほどに渇き、そして満たされていく。
──ああ、これだ、と。
この涙こそ、彼の飢えを癒す唯一の蜜だった。
「君がそんな顔をすると、私の胸が痛むよ」
言葉の端々には、痛ましいほどの優しさが滲んでいる。
だが、内側でリチャードは、もっと深く、もっと激しく、その涙に溺れたかった。
姉が崩れるその音を、もっと聴きたかった。
「……大丈夫。私がいる。君を守るから」
指先がそっと姉の頬を撫でる。震えるその感触に、リチャードの内側で何かが小さく弾けた。
頬を伝う涙の熱が、彼の指に吸い込まれ、脳髄を痺れさせる。
その甘さに、彼は心の奥で静かに酔いしれていた。
「辛いときは、こうして泣いていい。私だけの前でなら、ね」
耳に優しく囁きながら、その声の裏で、リチャードは狂おしい歓喜を噛み殺す。
姉が壊れかけている、その瞬間こそが、彼にとってこの上ない悦びだった。
誰にも見せない脆さを、自分だけが知っているという事実が、彼を陶然とさせる。
「……全部、私が受け止めるよ。君の痛みも、悲しみも」
その声はどこまでも優しく、慰めに満ちていた。
だが、リチャードの胸の奥では、黒く歪んだ熱が渦を巻く。
姉の涙をすべて自分のものにしたい、姉が壊れゆく音を耳元で感じていたい──
そんな底知れぬ欲望が、甘く、蕩けるように膨れ上がっていく。
「君は一人じゃない。私が、君のそばにいる」
言葉を重ねながら、リチャードは姉の顔を両手で包み込んだ。
その触れた頬の熱が、彼の内側の狂気に油を注ぐ。
けれど、表情はただ、優しい微笑みのまま。
額にそっと唇を落としながら、彼は思う。
この涙を、もっと見たい。もっと深く、もっと崩れた君を──
けれど、それを望む声は心の中に封じ込め、彼はただ、柔らかく抱きしめた。
「……安心して。姉さん。私はずっと君の味方だよ」
そう囁く声は、甘く、優しく、決して刺々しいものではなかった。
だが、その奥底には、狂おしいほどの独占欲と、終わりなき陶酔が渦巻いていた。
誰にも渡さない。誰にも触れさせない。
姉の涙さえ、この瞬間さえ──私のものだ、と。
リチャードは静かに、深く、姉を抱きしめた。
世界がどうあろうと、この瞬間だけは、姉が泣き、彼がそれを受け止める。
その甘美な均衡の中で、彼はさらに深く酔いしれていった。