若者に押されるかたちでの恋人関係だと思っていたが、確実に絆されている自覚はあった。兄を失い、父親の帰りを冷たい路上で一人待っていたあの少年が、ジェハンの隣で幸せそうにしている。小さなことにも顔を綻ばせる様子を見せられ続けて、胸が暖かくならないわけがない。
そもそも同居人としての相性は元よりよかった、と思う。ヘヨンの気遣いを気遣いと感じさせない心地よさに胡座をかいているわけではないと信じれば。
身の回りを小綺麗に整え、丁寧な暮らしぶりのヘヨンではあるが、他人に強制することはない。雨の日のチヂミだとか、いいことがあれば牛肉を焼き、季節の魚や野菜を選ぶ。伝統的な韓国料理ばかりかというとそんなこともなく、オムライスやハンバーグ、パンの朝食などもそれなりに作っていた。ジェハンの方でも、以前は素通りしていた小洒落た店に立ち寄り、パンやコーヒーを買ってみたりするようになった。今では新しい雑貨屋や流行りのカフェの噂にすっかり耳敏くなってしまった。
また、ジェハンが復職し勤務しているうちに、警察官とはいえ必ずしも同じ熱量を持っているわけではないことを早々に思い出すことになった。その点ヘヨンは職業倫理が合わないということもなければ、仕事への向き合い方も似たようなものがある。仕事に打ち込みすぎるきらいのある互いを、時に支え、時に落ち着かせるのも、近くにいるからこそできることだ。
ジェネレーションギャップだけでなく、潜伏していた十五年分のギャップもあった。それにも動じず、ジェハンが社会復帰できるように、ヘヨンは親身に尽くした。ジェハンの方から若者を見てもびっくりするようなことはあるが、殊更取り沙汰さないだけの分別はある。
朝の爽やかな光が食卓に落ち、遅めの朝食を彩っていた。トーストし直したクロワッサンと目玉焼き、それに林檎までついた朝食も、今ではすっかり見慣れたものだ。ジェハンが選び、焼き直したクロワッサンは、幾分焦げ目がつきすぎていた。ましな方をヘヨンにやろうと見比べるジェハンの目の前に、マグカップが置かれた。湯気とともに芳ばしいコーヒーの香りが漂い、ヘヨンが居候してくるまでは濃度も定まらないインスタントばかりだったことを思い出す。
ヘヨンはテーブルの向かいに腰を下ろすと、今日の天気の話でもするように「恋人としての僕はどうでした?」と尋ねた。
「及第点だったのなら、ジェハンさんからキスしてください」
ゆったりと首を傾げるヘヨンは、このまま十年でも二十年でも待ちかねない。ジェハンばかり動揺させられて、最初からヘヨンの勝ちは決まっているような余裕が癪だ。無線越しに奔走させられていた三十年近く前から、実はあまり変わっていないのかもしれない。
ジェハンが椅子を引く音が、やけに大きく響いた。数歩の距離を跨いで、ヘヨンの顎へと手をかける。どうにでもしてくださいとばかりに伏せられた瞼に、ジェハンの唇がヘヨンのそれを掠めた。乾いた皮膚同士が擦れた気配をキスと呼べるのか微妙なところではあるが、歯がぶつかるよりましだと思ってほしい。なにせジェハンには初めてのことだ。
ジェハンの唇が触れた場所を、ヘヨンは指先で慎ましく抑えた。ゆっくりと持ち上がった瞼の下で、ヘヨンの聡い目がきらりと瞬いた。
「いつ勝機があると思ったんですか」
俺が恋愛対象としてみていないことくらいわかっていたでしょう、と続けると、ヘヨンは「あー」と語尾を伸ばして目を彷徨わせた。
「ジェハンさんが僕のことを特別だと思ってくれているのは十分すぎるほど感じていたので。あとは、すっかり情が移るまで待ちました」
狡いでしょう、と眉と鼻に皺を寄せて笑う顔は、精一杯の悪い顔のようで、ジェハンからすれば待てが得意な忠犬にしか見えなかった。ヘヨンに言われて無碍にできないのはあたっているが、それだけではない。
「情、だけじゃない」
ヘヨンの手を取ると、自らの胸に当てた。ばくばくといつもより大きく脈を打つ心臓の音が、ジェハンの鼓膜を内側から揺らしている。手のひらを通して、ヘヨンにも伝わるといい。
「情だけなら、こんなにならない」
「僕もです」
ヘヨンはジェハンの大きな手のひらを取ると、自らの頬に押し付けた。しっとりとした肌が触れ、冷えた指先にヘヨンの体温がゆっくりと移っていく。
「ジェハンさんが生きているとわかったとき、これからは絶対に側にいたいと思ったんですよ」