「明日はお寿司とか食べにいきましょうね。何か食べたいものはありますか?」
窓辺の椅子に座ってホテルの部屋からぼんやり夜景を眺めていると、妙に優しい声で昏見にそう言われた。向かいに座ったその男に視線を移す。
「いや……もう……外出る気もないんだけど、俺」
「つれないですねえ」
からかう口調に溜息をついてやるほどの気力も残っていなかった。たまには違う場所で稽古してみましょうよと言われてぼんやり着いてきてしまったのは自分だ。だからといって小さな鞄を一つしか持ってない男に北海道まで連れてこられるなんて誰が予想できるだろうか? そんなやつが居たらそいつは名探偵だ。そして俺はただの失格探偵だった。
函館の夜景は綺麗だ。無理矢理連れてこられた函館だってそれは変わらない。目に痛いくらいの光が窓に滲んでいる。
「まあ、お部屋でゆっくりしたいならそれでもいいんですけど。ルームサービスとか頼んじゃいますか? カニがジェンガみたいに積まれているお鍋とか! イクラしか入ってないイクラ丼とか!」
「そんなヤンチャなルームサービスないだろ。稽古しにきたんじゃないのかよ」
昏見は上機嫌に笑っていた。部屋の照明は薄暗いから、その白い頬は窓から飛び込んでくる夜景の明るさに照らされている。素直に認めるのも癪だが、見た目と所作で言えば文句の付けようもなく綺麗な男だ。実際は拉致されたようなものなのに、自分がこの美しい人間に惹かれて勝手に着いてきたのではないかと疑ってしまう。
「のびのびとして感性を養うのも稽古のうちですよ」
「舞奏社は出張費にしてくんないと思うけど」
「それくらいのお金ありますよ。私を誰だと思ってるんですか?」
「大繁盛のバーをほっぽって北海道なんか来てる、どうしようもないマスター」
「えー? 刺々しいですねー。……疲れちゃいましたか?」
そこで少しだけ小さく、心底労るような声色で囁かれるから困ってしまう。……疲労なら当然溜まっている。それなりの長旅だ。途中までは行き先すらもよく分かっていないままの旅路なら、外に出たくなくなるほど疲れるのも当然だろう。
「一緒にお風呂に入りましょうか? お背中流してあげます」
「百歩譲って風呂はいいけど、背中は流すな。あとさっきシャワー浴びたばっかだろ」
二人とも浴衣を纏って、髪からは慣れないシャンプーの香りをさせていた。昏見の長く艶やかな髪なんかドライヤーで乾かすのも一苦労だろうに、自分がシャワーから上がって水を飲み干す頃にはすっかりいつも通りになっていた。気がついたら鼻歌を歌いながら櫛でとかしていたのだから、手品か何かなのかと疑った。手際が良いのだろうか。
「じゃあ、お風呂に入らなきゃいけないような事をしちゃいます?」
昏見がすっと腕を伸ばしてきたと思ったら、その長い指に手を撫でられた。くすぐる動きは、はしたないくらい明らかに誘ってきている。疲労にくすぶっていた欲を再燃させようとしている。
「……疲れたから」
「所縁くんは寝そべってるだけでいいですよ?」
それ、俺が嫌なんだけど。
言おうと思っていた文句が柔らかい唇に押し返されて、潰れてしまう。
そうやっていつも、全てなし崩しにされてしまうのだ。
押しかかるように預けられる体重を感じながら、少しだけ苛立った。
譜中だろうが函館だろうが札幌だろうが昏見の肌の温度は変わらないし、くすくす笑われながら手玉に取られてしまう自分も変わらないのだった。
それと朝日が眩しい事も、変わらない。
「おはようございます、所縁くん。今日は何牧場に行きたいですか?」
「牧場に行くことは揺るがないんだな」
「私、牧場にいかないとガラスの靴だけ残して消えてしまう呪いにかかっているんですよね。救ってくれます? 所縁くん」
昏見が何を言っているのか分からないのも、いつもと同じだ。慣れない部屋の中で昏見だけが馴染んだ姿でそこにいる。浴衣が着崩れている自分と対照的にしっかりと身支度をして、髪は三つ編みにしていた。
「別に、牧場くらい行くけど……お前が運転すんの?」
「不安ですか? 私はこれでも地元じゃ負け知らずなレーサーなんですが」
「その不安を煽る経歴は無視するけど。いや、なんか申し訳ないし……」
昏見は笑ってみせる。こんな朝も早い時間なのに、この男が笑うと少しだけ夕闇の気配がした。
「気にしないでいいんですよ。私の呪いを解いてくれて、あとは所縁くんが函館を満喫してくれたらそれでいいんですから」
「あー……」
妙にむずがゆい響きの言葉に、ある程度は諦める事に決めた。あまり申し訳なさそうにしすぎても興を削ぐだけだろう。だから黙って牧場くらいは付き合ってやることにしよう。それと、
「……やっぱ寿司も食べたいな」
さっきより朝に相応しい色の笑顔が返ってきた。