はらから「あれ、えーしんくん。もう食べないの?」
「……ああ。満腹でな」
鋭心は用意された弁当を半分残したまま箸を置く。同じ机で昼食を摂っている秀と百々人は不思議そうに、あるいは心配そうに首を捻って見つめてきた。
「珍しいですね。具合悪いんですか?」
「いや、実は腹が減って間食をしてしまった。カロリー摂取量からしても、弁当を食べ切るべきではないと思う」
「あはは、それこそ珍しいね。だったら、僕らでもらっちゃってもいい?」
「ああ。構わない」
「ありがとう。しゅーくんご飯食べていいよ。僕はおかずもらうから」
「ちょっと、アンフェアすぎるでしょ。公平に分けましょうよ」
たわいもないやりとりを始めた二人を見て微笑むと、歯ブラシを持って休憩室を出た。日課の歯磨きだろうと二人は判断したのか、そのまま弁当の取り分を決めているようだった。
静かな廊下をゆっくりと歩く。
……残りを食べると申し出てくれたのは助かった。残すのも忍びないが、残飯を二人に押し付けるような形にもしたくなかった。百々人もそれを察して自分から言ってくれたのだろう。
ありがたい、と思う。
腹が重く苦しい。胃から、おそらく腸の方まで。泥でも飲んだようだ。最近ずっとろくに食事ができていない。
間食をしたなんて真っ赤な嘘だった。
この苦しみはストレスによるものなのだろう、と自己判断していた。本来であれば病院に行き医師に診てもらうべきだが、気が進まなかった。
これから映画の撮影が始まる大切な時期で、体調には気遣うべきだとわかっているのに。
原因に心当たりがあるか聞かれたらどうしよう、と思うと、どうしても症状を打ち明けるつもりになれない。
――弟のことを考えてから、ずっと、腹が苦しい。
歯ブラシを持ったままトイレに入り、そのまま個室に篭り、人の気配がないか気を配り、
「……おえ……っ」
先ほど食べたばかりのものを、便器の中に吐き出した。なるべく静かに、と思うのに、声はどうしても漏れてしまう。気色悪いペーストと化した胃の内容物も、ぼたぼたと音を立てる。誰かに聞かれたら気づかれてしまう。
三人で弁当を食べていた時は和やかだったのに、楽しく食事ができたのに、と思うと少しだけ泣きそうになったが、堪えながら水を流す。また吐き気がして、でももう胃液しか出なかった。
これから撮影が始まる映画で鋭心が貰った役には、二人の腹違いの弟がいた。彼らは兄弟でもあり、良き友であり、しかし、いずれ袂を分つことになる。
当然、兄としての振る舞いを求められることになる。難しいことではないはずだった。ファンタジーの作品では、兄としての側面よりも演じるのが難しい要素がたくさんある。想像し、模倣し、再現し、『兄らしく』なれるはずだった。
……けれどどうしても、演技をしようとするたびに、あの母子手帳が頭をよぎってしまう。
水を流す音に誤魔化しながら、何度も胃液を吐く。こんなことではだめだ。いつかボロが出る。
わかっているはずなのに。
後始末をして廊下を歩く。……ふと、惹かれる爽やかな香りがした。香水だろうか?
腹の不調のせいか最近はさまざまな匂いで吐き気を催すようになっていた。だからこそ心地よい香りの正体を知りたくて、つい足を向ける。香りのしてくる方は、自分たちが使っていたのとは別の休憩室の方で、
「おや、お客さんか?」
その部屋にたどり着く直前に、声をかけられた。
「……葛之葉さん。お疲れ様です。そちらの部屋はLegendersが使われていたんですか」
「まあな。それより顔色が悪いぜ。栄養が足りてないんじゃないか?」
ぎくり、と心臓が跳ねた。まさか、顔を見ただけでわかるほど憔悴しているのだろうか?
「……まあ育ち盛りだしな。良ければ持っていくといいさ」
ほら、と手渡されたのは、小さな柑橘類だった。蜜柑だろうか。……ふわりと香るのは、先ほど心を癒してくれたのと同じ匂いだった。
「……ありがとうございます。ありがたくいただきます」
「まあ、俺たちは同じ役を演じるわけだからな。少しくらい気にかけさせてくれ」
頭を下げると、雨彦はひらひら、と手を振って笑った。どこまで見透かしているのか分かりづらい目つきで。
「じゃ、午後のレッスンに行くとするか」
「そうですね、お引き止めしてすみませんでした」
「気にするな。……それと、飯はちゃんと食ったほうがいいぜ」
「やはり、お見通しでしたか」
「それに……『そいつ』には恨まれちゃいないさ。あんまり怖がって、『悪いもん』にしないように気をつけな」
「な……んの、話ですか」
理解できないまま、なぜか腹を無意識に手で覆ってしまう。隠すように。庇うように。
「大事そうに腹を抱えるなよ。悪いな、無理に引き離そうってわけじゃないんだ」
彼は何を言っているのだろうか? 全くわからないのに、なぜか、怖くて。
気がつけば蜜柑を握りしめていた。甘く清々しい香りが一層強くなり、手から滴った果汁が、足の間にぱたり、ぱたり、と溢れていく。
「ああ……掃除屋の仕事だな。気にするな、こういうのは慣れたもんさ」
雨彦の声がどこか遠い気がする。
なぜか、
頭の中に産声が響いていた。
水に浮かんでいた。片割れと共に。
いつか出ていくべき狭いところだった。もう一人と一緒に出て行こうと約束していた。
その日が来て、自分たちは一緒に「光」の中へと解放された。
何かおかしいと気づいたのはその後で。
片割れが、おぎゃあ、と、何か大きな音を立てているのに気づいて。
ああ、自分は、肉と魂が分かれてしまったのだ、と気づいた。
気づいた頃にはもう、母体は遠くて。
戻れる胎は、片割れしかいなかった。