今日は世界で一番幸せです 数騎の騎馬が駆ける。辺りは夜闇。星月夜ではあるが、雲に隠れてか細い。
目視の先に篝火が見え、馬の歩を緩める。
「戻ったか」
「外はどんな具合だった」
「十人の斥候でした。東の小さな森に散らばっていたので、仕留めてきましたよ」
馬を降りながら、得意げに話す鈴音。愛馬の首元を撫でて、共にいた兵士に同意を求める。
荒野に点在する城の一つ。王翦軍は行軍中、近くにあったこの城で足を休めた。丁重なもてなしを受けながら、道中に気付いた驚異。鈴音が自ら行くと志願し、数人と共に警戒に出た。
案の定敵国の密偵がおり、全ての命を刈り取った。生捕りとも逃がせとも言われていない。ただ、驚異を払え。そう言われていた。
どこから来た?何をしに来た?他に仲間は?
鈴音が丁寧に聞き出し、近く戦はないようだが、警戒するにこしたことはない。
その情報を持ち帰り、鈴音は血濡れのまま王翦に報告へ行くため城内を歩く。軍の兵士とすれ違い無事だったかと声をかけられ、鈴音は笑みを返した。
「あ、鈴音。王翦様は今外におられるぞ」
「外?なんで?」
「城主と話されている」
あぁ、なるほど。呼び止められて、鈴音は踵を返して外を目指した。
階段を登って外への出口から顔を出す。辺りを見渡して、王翦の姿を見つけてぱたぱたと走る。近くには身なりの良い壮年の男と、甲冑を纏った若い兵士。着飾った娘と、侍女がいた。
邪魔をしないほうがいいか。鈴音は残念そうに眉を下げて、来た道を戻ろうと足を止める。
ふと、王翦が鈴音を振り返った。
「ぁ、おうせん…さま」
「戻ったか。此方へ来い」
「はっ、はい!」
思わず名前を呼ぶと、王翦からも呼ばれて、背筋を正して慌てて駆け寄る。
普段ならばそのまま口を開くのだが、知らない人間がいるため、鈴音は片膝をついて拝手をする。それができるほどの礼儀くらいはあるため、様になったその姿で、鈴音は外での出来事を包み隠さず告げる。
「ふむ。残しはないのだな」
「はい。念入りに、芽を潰しました」
「よくやった」
「お役に立てて光栄でございます」
その一言に、鈴音は伏せた顔を綻ばせる。頬を染めて、込み上げる嬉しさから、握った拳にぎゅうと力が入る。
王翦様が褒めてくれた。頑張ってよかった。私が行くって言ってよかった。嬉しい……。
歓喜に震えるその身。王翦から楽にしろと言われ、鈴音は体勢を崩して立ち上がる。
視線に気づいて、顔を横にやる。
「ひっ……」
「……………………」
この城の城主とその娘。その護衛と侍女。全員が、鈴音に怯えた瞳を向け、青ざめた顔のまま身を強張らせている。
その様子が、鈴音には何なのかわからなかった。すぐに、理解した。
あぁ、私、怖がられているんだ。こんなに血みどろだもの、仕方ない。でも、そこまで怯えなくても……。
気分が一気に下がったように、高揚していた気持ちはなくなり、瞳は凍てつく。せっかく王翦様に褒められたのに。鈴音は最悪だと、小さくため息をはいた。
「おんななのに……」
ぽつりと、無意識であろうこぼされた言葉。鈴音の肩が揺れる。
女が戦場に出て何が悪い。好きな人のために、得意なことを武器にして何が悪い。人殺しが好きな私を、私のことなんて何も知らないくせに、女だからって、その一言でくくらないで。
大袈裟に深呼吸をして、鈴音は己を落ち着かせる。娘の言葉に反射で言い返せば、この城の王翦への心象が悪くなる。王翦の顔に泥を塗ってしまう。それだけは避けなければと、鈴音は爪が食い込むほどに拳を握りしめ我慢する。
ぱっと顔を上げて、王翦にだけ綺麗に腰を折って、城の中に戻ろうと体をひねる。
「待て」
「いだぁっ!?」
伸びた手が鈴音の後ろを向きかけた顔を掴んで、ぐいと強引に引き寄せられた。首元に燃えるほどの痛みが走りながら見上げると、距離が近い王翦に真上から見下ろされていた。
「あ、あの……、報告は終わり、ましたので。私はこれで……」
「まだ残っているだろう」
王翦の言っていることがわからない。報告はあれで全てであり、これ以上ここにいる意味はない。これ以上自分を惨めに思ってしまうまえに、早くいなくなりたかった。
鈴音の不安げに揺れる瞳。王翦の手が、鈴音の頬を撫で、鈴音も気づいていない首元の渇いた血液を撫でる。
「お前は私の護衛だ」
「は……、あ、は、はい……」
たしかに、護ると決めた。勝手に貴方のために全てを捧げると誓っている。
鈴音は王翦軍の兵士で、王翦に個人的に仕える存在。
視界が熱く、滲んでくる。震える唇でなんとか頷くと、王翦の手がやっと鈴音から離れた。
「では、私はこれで失礼する」
「い、いや!まだ、お話はッ……」
「終わりだ」
「そんな……」
城主の男が必死に王翦を呼び止めているが、相手にせず王翦は歩く。鈴音ともう一人の護衛はその後を追いかける。ちらりと、後ろを振り向くと、娘が鈴音を睨むように見ていた。
「本当に、よろしいのですか……」
鈴音の言葉に、王翦が立ち止まる。
「部下を侮辱された。立ち去る理由には充分だ」
振り返らないまま、王翦はまた歩き出す。
時が止まったようで、鈴音は動けない。
ついてこない鈴音に、王翦はやっと振り返る。
「鈴音。来い」
「っ……、はい、王翦様!」
王翦様。王翦様。鈴音は、貴方と出会えて、貴方のおそばにいれて、幸せです。
毎日が幸せなのです。だから、こう言うのはちょっと違うんですけど、でも、やっぱり、云わせてください。
今日は世界で一番幸せでございます。