and after all.雑踏の中で、少年が大きな楽器ケースを背負って歩いている。ショートヘアで、ブルネットとは違う、光を通さない黒髪。身につけているものは上から下まで全て黒で、そこだけ異質、まるで大きなカラスが歩いているようだった。高校生くらいかもしれない。行き交う人より頭半分ほど小柄にも関わらず、誰とも接触せず、器用にすいすいと進んでいる。
交差点に行き着くと四方を見回し、しばらく考えた様子のあと、少年は老夫婦に話しかけた。身振り手振りでしばらくやりとりしたあと、老夫婦は笑顔で手を振り、少年は頭を下げた。日本人だ。日本で育って、つい最近ここへ来た日本人。確実に、たぶん。
「…あいつだ」
向かいの通りの店先から緑色の瞳を通して一部始終を眺めていた男は、感心したように呟くと、改めて少年カラスの動きを追う。
さらさらと揺れる黒髪を遠目に見ながら、アーサーカークランドは4週間前の夜のことを考えていた。水曜日の夜だ。ブーツの底が抜けて苛立っていたからよく覚えている。
ほとんど動いていないアーサーのSNSに未知のDMがあった。普段はそんなものは見ない。無視するに限るとすら考えている。でもそのときは見て、読んだ。年1回あるかないかの気まぐれがそのときは起こった。
そこには、一目見てうんざりするような長文と1本の動画があった。18世紀の貴族だってこうはならない馬鹿丁寧な挨拶の英文のあと「あなたのバンドに加入したい。私はベーシストで作曲もできる」と、そこだけ率直に書いてあった。
アーサーはイヤホンを接続し動画を再生した。若い男が深々とお辞儀をしてベースを弾き始める。サムライかよ…いや、そんなことより。
音は悪くない。むしろ良い。指が馬鹿みたいによく動く。
ベースマンは高校生くらいで、演奏が終わるとまたお辞儀をした。頭を上げると、思ったよりずっと低い声で名前を名乗り、ベースのキャリアを語った。ベースは15年以上、それ以前はギターと、名前は聴き取れなかったが伝統的な弦楽器をやっていた。プロでの経験はないがかつてバンドを組んで作曲もした。今でもアマチュアバンドのサポートとしてあらゆるジャンルの助っ人をしている。成程、とアーサーは片眉を上げた。
男はアーサーの作る曲、書く詩に感銘を受けた、チャンスが欲しいと真摯に訴えた。DMの文章とは打って変わって話す英語は下手クソだが、真面目な良いやつであることは間違いなさそうだ。今は東京に住んでいる、と話し始めたところで、アーサーは思わず「what 」と声を漏らした。冗談を言うには東京は遠すぎる。ここはロンドンで、異国の高校生が参加を熱望するバンドは、輝かしい彼の人生を放り出してまで参加するような価値はない。
少なくとも、アーサーはそう考えていた。
東京発のDMを受信する3日ほど前、アーサーはバンド内で揉めた。スタジオで新曲のアレンジをしていたのがくだらないきっかけで諍いとなり、デスマッチに発展した。ベーシストは怒り狂ってアーサーに掴みかかり、アーサーは彼を突き飛ばした。突き飛ばされたベーシストが愛用のベースをアーサーに向かって投げ、アーサーはそれを避けた。ベースはそれなりに重量があるし、痛いのは嫌だ。
哀れなベースは壁にぶつかってスローモーションみたいにズルズルと落ちた。ペグの形に壁に穴があいて、ボディにヒビが入った。
「良いコントロールしてるな!」
たじろぐ様子を一切見せずにアーサーが笑うと、ベーシストはアーサーに知りうる限りの罵倒の言葉を浴びせて出て行き、それきり二度と戻らなかった。
ひとしきり笑い終わったアーサーは短く息を吐くと、転がっているベースをまるで12歳のときに亡くした自分の犬を抱えるようにしてスタンドに立てた。
「……楽器を投げるなよクソが」
ヒビの入ったボディを撫で、立ち上がって振り向くと、屑籠を思いきり蹴とばした。
「やったんだな、きみが」
バンドのドラマーが帰還した。彼は荒れた室内と不機嫌なイギリス人を見ただけで何が起こったのかを理解してしまった。
アルフレッドジョーンズ。アーサーとうっすら血縁のあるアメリカ人。高祖父だかそのまた祖父だかが共通してるだけで、見た目も価値観もだいぶ違う。
「アルフレッド、俺たちはトリオでなくてデュオになった。新しい門出をその馬鹿でかいソーダで乾杯しようぜ」
アルフレッドはアーサー特有のめんどくさい絡み方を気にしない。それよりまず、ロンドンで買える一番大きなソーダは馬鹿でかいとは決して言えないことを抗議した。
「俺が昼食を買いに出た15分でバンド形態を勝手に変えるなよ。迷惑なやつだな本当に」
困っているようには見えない。アーサーが対人トラブルを起こすのをアルフレッドはよく知って慣れているからだ。アーサーカークランドが才能と対人スキルをまるまるトレードオフしているのはここ数年で完璧に理解した。
「デュオは御免だ。解散もしない。新しいベーシストを探す」
アルフレッドはアーサーに小さなコーヒーを差し出しながらきっぱりと言う。
「どこにいるんだよ?南極か?」
「ベースがいなきゃバンドはできない。俺はロックバンドをやるためにわざわざロンドンまで来たんだぞ」
南極にいるなら迎えに行くと言わんばかりのアルフレッドに、ソファに身を投げ出しながらアーサーは言う。
「ボスの仰せのままに」
全くうんざりする。どれもこれも靴底のガムみたいにクソだ。
馬鹿げた熱さのコーヒーがアーサーの喉を流れていく。
「きみも探すんだぞ!北極から目を皿にして見て回れよ」
ソーダのカップを持った手でそのままアーサーを指差してアルフレッドが言う。
アーサーは天を仰いだ。
俺の探しているベーシストがどこにいるって言うんだ。空からでも降ってこいよ。
神にとって俺は、皿の端に残った豆くらいどうでもいい存在だ。やつは確かに実在する。そして俺にあらゆる最悪シリーズを見せつけて楽しんでいる。
アーサーの忌々しい気分をほんの少しやわらげてくれたのは意外にも例の動画だった。
謎のベースマンから唐突に送られてきた動画を気まぐれに開いた日から、アーサーは繰り返し繰り返し何度もそれを見た。ベッドに入ってから見ることもあった。何度も見たので、彼が話しながらわずかに下を向くときは、原稿を確認しながら言葉を紡いでいるのだとわかった。背後に映るギターケースの存在にも気づいた。聴き取れなかった伝統楽器の名前はシャミセンというらしい。一度だけ「あっ」と慌てるような、ごく小さな声が聞こえたときは、思わず口元が緩んでしまった。じわじわと、彼を彼たらしめるなにかがあらわになっていく気がする。
アーサーが最初にイヤホンから流れる音を聴いたとき、内臓を掴み、背筋にゾワゾワと走る低音は少年の見た目とは相反して不気味だとすら感じた。海の底の怪物に、ぺたりと足首を撫でられたみたいに。それでも動画を繰り返してしまう。そうするうちに彼が生み出す音、楽器を弾く指先、眼差し、表情が、バンドにとって福音なのかもしれないと理解した。
彼の技術はバンドの屋台骨となり、アーサーのどんな言葉も声も拾い上げてくれる気がする。とはいえ、謎のベースマンはアーサーの要求に対して完璧すぎた。美味い話などない。未知の罠の可能性もある。それも含め、アルフレッドに伝えるべきなのはわかっている。
「……明日?まだ、もう少し……」
アーサーはイヤホンを外して目を閉じた。
ベーシストを探すため、地球を隈なく探すと宣言してから1週間ほど過ぎた頃。アルフレッドがスタジオに到着すると、アーサーがソファで膝を立てて座り、自身のスマートフォン(無駄に頑丈で、たぶん火山に放り込んでもビクともしない)を凝視していた。なんなんだ。普段はあらゆるデジタルデバイスを無視するくせに。
「ヘイ」
アルフレッドが声をかけると、アーサーは顔も上げずに「これを見ろ、聴け」とディスプレイを指差した。
黒髪の少年がその身に合わない重いサウンドを奏でている。クセの強い英語を話すが、丁寧で誠実さがある。
「どう思う」
アーサーがアルフレッドに聞く。
「新曲」
アルフレッドのひとことに、アーサーがぴくりと反応した。
「頓挫してたろ。新曲。彼の技量ならレコーディングできるんじゃないか」
アーサーの口に出さない考えを、アルフレッドはいつも的確に言葉にする。
「ああ…ああ、そうだな…」
アーサーは動画から目を離さずに言った。
「今すぐ彼に返信すべきだよ。俺はエージェントにビザの話、通しておく」
アルフレッドは自身の端末を取り出してオフィスに電話をかける。彼のフットワークの軽さに感謝しながら、アーサーはSNSのDMを開いた。平易な英文で綴る。
「ロンドンで会おう」
間口の小さな古いレコード店は、本田菊がロンドンで唯一知っている場所だった。菊が中学生のとき、この店の前で好きなバンドのメンバーが取っ組み合いの大喧嘩から解散騒ぎに発展したことがあった。SNSやネットニュースで何度も見たのでよく覚えている。
間違いなく辿り着ける場所として、菊はここで会うことを提案した。アーサーは「いいね、良い旅を」と短い返信を送った。
長時間フライトを耐えた甲斐があった。立ち止まってしばらく感慨深く店舗を眺め、そういえばと周囲を見回すと、若い男と目があった。
金髪、緑の瞳、細身の体躯、キュートで凛々しい太い眉。この人だ。
若い男は片眉を上げて微笑むような表情で言った。
「ハロー、公爵。ようこそロンドンへ」
「こう…しゃく…?」
本田菊は面喰らった。意味がわからない。聞き間違いだろうか?自分は紛れもない平民だ。理解できなくて申し訳ないが、なにか皮肉を言われたのかもしれない。あるいは人違いをしているのかもしれない。欧州の人は見慣れないアジア人の見分けなんてつかないだろうし。
「あの、あなたはアーサーカークランドさんです、よね?」
自分の壊滅的な英語が通じない可能性もある。落ち着かなくては。内心であたふたする菊のことなど知る由もなく、アーサーは短く「イエス」と答えた。
大丈夫。言葉は通じている。きちんと名乗れば問題はない。
「あの、始めまして。私は本田菊と申します。この度はお忙しい中、貴重な時間を割いてくださってありがとうございます」
アーサーカークランドが会ってくれるとわかった日、挨拶から自己紹介、ベースを弾くに至ったきっかけ、作曲について、自分に関して聞かれるだろうことを細かく想定した問答集を作った。フライトの間もひたすら繰り返し練習した。こう来たらこう返す。拙い英語力をほぼ丸暗記でカバーしようと必死だった。
深々とお辞儀をする頭上から「uh……」と戸惑ったような声がする。
「そんなにかしこまらなくていい。俺たちはここで会えた。それでいいんだ。中に連れがいる。行こう」
あいつはレコードフリークだからな。ここへ来たら長いぞ、と言いながらアーサーは古い扉を押して中へ入るように促す。
当時の音楽雑誌で見たのと同じだ。壁という壁、上から下まで埋め尽くされたレコードの棚。少しカビ臭いにおいも好ましかった。
「アルフレッド」
アーサーが店の奥へ声をかける。
棚の奥から親指を立てた右手が見える。
「アーサー、マジでヤバいの見つけた!この店いつ来ても異次元だよ」
歓喜に満ちた声とともに、うきうきした様子で古いレコードを何枚か抱えた若い男が現れた。金髪で青い瞳、メガネをかけている。
「あの大型犬がうちのドラマーだ」
アーサーが口の端を片方だけ上げて微笑む。大型犬呼ばわりのアメリカ人は、気にする様子もなく明るい表情をさらに輝かせて言った。
「あの動画の!ワオ、はじめまして!俺はアルフレッド。アーサーの監視員やりながらバンドでドラムを叩いてるよ」
アルフレッドはレコードを左手に持ち直して、右手を菊に差し出した。
「はじめまして、私は本田菊と申します」
菊はアルフレッドのしっかりした大きな手を取った。がっしりと力強い握手だった。
「日本人?ニンジャみたいに黒ずくめだな!そういえばアーサーに送ったあの動画!あのとき着てたTシャツさ、あれローゼスの2019年のツアーTだろ?あれ日本公演限定デザインでさ、ロゴにカタナがあしらわれてて、いいな〜って思ったんだ」
アーサーとは違うアクセントのはきはきとした話し方。ちょっと早口でところどころ菊には聴き取り辛いが、不思議と言っていることが理解できる。
アーサーはアルフレッドに「買うなら早く済ませろ」と促し、菊との音楽談義の端緒を早々に制した。
「詳しいことは後だ。とりあえずスタジオへ…」
アーサーが言いかけて菊へ尋ねる。
「おまえ、荷物は?まさか楽器ケースだけ抱えてロンドンへ来たわけじゃないだろ?」
「宿に預けてからここへ来ました」
指差す方角に正確にあるわけではないだろうが、親指で後方を示しながら菊が答える。
滞在予定のホテルの名と所在を告げると、アーサーとアルフレッドはワオ、とでも言うように目を合わせた。アーサーの言葉を借りるなら「極めてお上品」な場所にある。
「なんだってそんなとこに…おまえ、これまで海外経験は?」
「欧州は初めてですけど、仕事で東南アジアとか、北米は行ったことがあります」
「そうか、初めてのヨーロッパなんだな……待てよ、今なんて言った?」
「欧州は初めてでイギリスは勿論ロンドンも…」
「そうじゃない、仕事?仕事って言ったか?おまえいくつだ?高校生くらいじゃないのか?」
「2月で28になりました」
アーサーは思わず天を仰いだ。マジかよ。
自分が23、アルフレッドが19。この東洋のベイビーがバンドの最年長になるとは。いやに落ち着いているとは思ったが。
「きみビジネスマンだったのか!日本だとサラリーマンて言うんだっけ?ところで北米のどこ?アメリカだろ?」
会計を済ませ、紙袋を小脇に抱えて戻ったアルフレッドが弾むような声で菊に尋ねる。
「はい。ミネソタです。いいところでした」
「ミネソタ!日系企業は確かに多いね。出張で?」
「いえ、関連会社への出向です」
タイのアユタヤには出張で…と菊が答えたところでアーサーが割って入る。
「またおまえらは…いいか、勝手にお茶会を始めるな。ともかく、菊」
名前を呼ばれて、菊はわずかに硬直した。アルフレッドに呼ばれたときは気にもしなかった。ところがアーサーに下の名前で呼ばれるのはなんだか妙な感じがする。普段は美しい詩の形に動くアーサーの唇が自分の名前を発音したことに体の芯が震えた。
「率直に言って」
アーサーが映画賞の受賞者を発表するように慎重に口を開く。
「そのホテルはやめとけ。場所も悪い」
アルフレッドも同意を示すように何度か頷いた。
「音合わせの前にオフィスに寄った方がいいな。今夜はしかたないにしても、明日からの滞在先をまともな奴らに相談する」
まともな奴ら、というのは所属事務所の社員のことだ。決められた時間内に決められた仕事をし、まともに生活しているのでアーサーはこう呼ぶ。彼らなら安全で清潔で、あわよくば財布に優しい宿の在処を尋ねることができる。
レコード店を出てオフィスへ向かうため連れ立って歩いている途中、菊はふと思い出した。
バンド加入がほぼ固まり、ロンドンへ発つためビザ取得だの滞在先選びだの忙しくしていた頃だ。アーサーとテキストのやりとりをする中で何度か「親の許可は取れているのか」と確認されたことがある。その都度、菊は家族の理解を得ています、問題ありませんと返事をした。
今となってやっと、あれはアーサーの脳内で高校生で未成年たる自分を心配していたのだとわかった。
ビザ取得のための必要書類は菊とオフィス間でやりとりするだけだったし、アーサーは「日本人の若いベーシストが来る」以外にはこれといって関心がなかった。正確には「ベースの技能がバンドの求める水準にあるかどうか」が重要で、学校や仕事で何をしていたどんなやつか、という情報は特に必要を感じなかった。正直に言えばほんの少しだけ良い人柄を期待はしていた。とは言えそれはベーシストとして完璧であれば目を瞑れる項目でもあった。あらゆるパターンを想定して全て対処可能だと自分が思えば、アーサーはそれでいいと考えている。
菊は好奇心からアーサーに尋ねた。
「すみません、もし私が実際に未成年で、親の許可が取れていなかったら?」
「そんときは…そうだな、留学させるよりずっと社会規範が身につくから心配するな、と説得するよ」
アルフレッドが笑う。
「確かにね。アーサーとやっていければ、世界中どこででも耐えられるよ」
アーサーがアルフレッドのふくらはぎを軽く蹴飛ばす。
「おまえは人をなんだと思ってる」
アルフレッドはこれが日常さ、とでも言うように肩をすくめて菊に言う。
「こういうとき蹴り返して問題ないよ。黙ってたらいいようにされる」
菊は思わず笑ってしまう。このふたりのやりとりを間近で見られるだけでも、ここへ来てよかったと思えた。
オフィスはレコード店から徒歩5分ほどの場所にある。このオフィスから通りひとつ向こうにレコーディング拠点となるスタジオがある。
オフィスに着き、菊がその扉を開けると
「Welcome to London 」
という賑やかな声に迎えられた。
菊は驚いて一瞬固まったあと、ほとんど反射で頭を深々と下げた。顔を上げながら「Thank you so much 」と告げるのが精一杯だった。
その場にいた社員は男性と女性がひとりずつ。ふたりの社員でなんとか回している小さなオフィスだ。エージェントを名乗る女性がイタズラっぽく笑いながら「ボスはアメリカ人で、若いけどすごいやり手なの」と扉の方を指差した。
菊はたった今開けた扉の方へ振り返る。
アルフレッドが笑顔で菊の方を見つめていた。
「サプライズ!びっくりした?このオフィスは俺が立ち上げたんだ」
菊は開いた口が塞がらない。アルフレッドはまだ19歳だったはずだ。バンドのメジャーデビューが2年前。17歳で外国へ移住しビジネスを始めたというのだろうか。菊にはにわかに信じがたいエネルギーと行動力だった。
我関せずという表情でいたアーサーが菊に耳打ちする。
「あいつの生家は上位1パーセントの富を掌握してるタイプの家だぞ」
思わずのけぞってしまう。「やり手の先祖の血は残らずアルフレッドの家系に流れてるってわけだ」アーサーはうんざりしたような誇らしいような複雑な表情で言う。
「アルフレッドさんてすごい人なんですね」
菊が言うと
「俺は頑張ったからね」
勿論ラッキーもあったけど、とアルフレッドがウィンクしてみせる。
孤高の天才詩人と、突き抜けた万能の若者に挟まれ、自分は何ができるだろう。菊は自分の無鉄砲な行動の結果に身震いした。
男性の社員が「こちらへどうぞ」と菊をソファへ促す。アーサーが熟練の執事のように恭しく席を示すので、菊は従う。楽器ケースと寄り添うように腰を下ろした。アーサーとアルフレッドも菊を挟むように腰掛ける。
「ありがとうございます。ビザの申請もいろいろ助けていただいて」
菊が頭を下げると、向いの席に腰を下ろした女性社員が
「驚くほどスムーズに進んでよかった。普通ならもっと時間がかかるそうよ」
観光目的の入国なら本来、日本人は英国へのビザ申請は必要ない。菊はミュージシャンとしてバンド加入を前提としていたため、相応のビザを申請する必要があった。
「菊さんの提出書類に不備がひとつもなかったからね」
男性社員が盆に載せたお茶をかわいらしい小さなケーキとともに配膳しながら言う。菊は目の前のティーセットに静かに感激していた。英国のお茶文化には親近感が大いにある。写真を撮ってこの素敵なおもてなしを日本の家族に見せたいくらいだ。
アルフレッドが小さなフォークを手にして言う。
「彼女はバンドと、俺たちメンバーのマネージメントの一切を請け負ってる。彼はそれ以外の全部。権利関係とかあらゆる折衝とか、本当に全部」
お茶を一口飲んでアーサーが続ける。
「彼らが飛び抜けて優秀だから2人雇うだけで済んでる。俺たちは、ゆくゆくはケンジントンのゲート付きマンションに2人を住まわせる責任がある」
アーサーはバンドの商業的成功にも目を向けている。菊は「俺たち」という言葉を噛み締めた。しっかり働いて役割を果たしたい。菊は改めてそう思った。
「住むところ、と言えば」
アルフレッドが思い出したように口にする。
「菊の住まいについてなんだけど、仮住まいに手配したところがあんまり良くなくてさ、探すの手伝ってほしい」
女性社員がOK、と言って立ち上がる。ラップトップを取りに行ったようだ。
「ここ近くの方がいいですよね。ただこの辺りはどこもそれなりにしますよ。設備があればオフィスで寝泊まりも有りなんですが」
男性社員が申し訳なさそうに告げる。
歩きながらラップトップで調べつつ、女性社員が男性社員に尋ねる。
「オフィスで費用を負担できない?全部彼に負担させるのは…こちらの都合で呼んだのもあるし」
ホテルの宿泊費や短期滞在向けの家賃相場が聞こえてくる。都市部はどこも高い。ロンドンなら尚更だ。忙しい人たちに余計な仕事を増やし気を遣わせている事実に、菊は申し訳なさといたたまれなさで耐えがたい気持ちだった。
優秀な2人がラップトップを挟んで議論をしている。その様子をしばらく黙って眺めていたアルフレッドが「閃いた」という顔をした。
「それならもうアーサーの家でいいじゃないか」
名案だと言わんばかりに目を輝かせて提案する。
その場にいた全員がアルフレッドの方を向いた。
菊が、ほんの少しだけ目を見開く。その一瞬の反応は誰にも見られていない。
「俺もこっち来てからしばらく住んでたし、どうせその部屋が空いてるだろ。ここからアーサーの家まで地下鉄乗って郊外まで行くし、菊が慣れるまでいろいろ案内してあげなよ」
「悪くはない案ですが…」
男性社員が言い終わるのを待たずにアーサーが声を上げた。早口の英語が菊の頭の上を行ったり来たりしている。
ああ、なんてことだ。
「おまえが住むことを許可したのは多少は人となりを知ってたからだろ!おまえは初対面の人間といきなり共同生活できるのか?」
普通の人間なら、アーサーの詰め寄るような物言いに怖じ気づくかもしれない。事実、社員のふたりは怯えているように見える。しかしアルフレッドは違った。こともなげに、そしていくらかシリアスなトーンで淡々と答える。
「まあ、状況によるけど。菊は悪いやつじゃないし、住むとこに問題があるなら寝床くらい貸すさ」
アーサーは何かを言いかけてやめた。開いた口を閉じるために息を吐く。
「…わかった。いいよ」
アーサーが菊へ向き直る。菊は畏まって王がその口を開くのを待った。
「俺の家に来ていい。ただし、ルールは俺だ。おまえには全て従ってもらう。反論は一切なしだ」
緑色の瞳が静かに燃えている。菊は息を呑んだ。
「はい。勿論」
目の前に君臨する王の決定を覆そうなどとは思わない。菊はひとつも抗うことなく諾々と従った。滅相もない、申し訳ないと辞することができなかった。間違えることはできない。どうしていいのかわからなかった。
指先から悪魔の歌声を奏でるベーシストは、生贄の羊のように黙ってその運命を受け入れた。
一緒に肩を並べようなどとは、思い上がったことを考えてしまった。歩きながら、菊はそんなことを考えていた。
オフィスで事務的な手続きや今後のスケジュールなどを確認し、優秀な2人と連絡先を交換した。「ここにあるのはひとつのチーム。共に頑張っていこう」とオフィスを出る前にボスたるアルフレッドが語ったことを菊は頭の中で反芻する。いやいや、チームというより……。ため息を飲み込んで菊はアーサーの背後についていく。
アーサーの家にしばらく世話になることが決まり、その日予定されていた音合わせは延期になった。2人はスタジオではなく駅へ向かった。
当初滞在予定としたホテルには男性社員が「全日程キャンセル」と連絡を入れてくれた。ダブルブッキングがあったそうで、キャンセル料は払わずに済んだ。電話の傍でアルフレッドが笑っていたから、他にも何かよからぬ事があったのかもしれない。
アーサーの家はサウスゲイトにあり、カムデンタウンのオフィスからキングスクロス駅までは女性社員が車で送ってくれた。別れ際、角を曲がって姿が見えなくなるまで心配そうに見守り、手を振ってくれた。
ツヤのない真っ黒なトランクをゴロゴロ言わせながら、楽器ケースの肩紐をしっかりと握りしめ駅構内を注意深く歩く。大きな駅で人通りが多いため、アーサーを見失わないよう必死だ。
アーサーが突然立ち止まって振り返る。菊も立ち止まる。
「オイスターカードあるか」
アーサーが指で名刺サイズのカードの形を示す。色彩とシャッタースピードを調整すれば、その姿は90年代のオルタナティブロックのアルバムジャケット写真のようだ。絵になるなあ、そんなことを思いつつ、菊は肩から下げた小さなサコッシュを思わず握りしめた。
「あります。ヒースローで買って…」
ならいい、とアーサーは言って再び歩きだす。「Piccadilly line」という表示に沿って歩く。地下鉄の様子は東京とそんなに変わらない。改札を通りホームで電車を待った。サウスゲイト駅まで約30分。アーサーはほとんど話さない。
地下鉄に揺られ辿り着いたのは落ち着いた郊外の街だった。駅を出て10分ほど歩くと静かな住宅街が見えてくる。どの家もきちんと手入れされ、美しい庭木のさまざまな緑が菊の目にやさしく映る。窓辺に猫のいる家が何軒かあったのが菊の心を躍らせた。平静を装って通り過ぎながらさらに歩くと、アーサーが「ここだ」と立ち止まり、通り沿いの一軒を指し示した。
「わあ…」
思わず声が漏れた。そもそも「アーサーの家」と聞いた当初、菊はもっと近代的なフラットかなにかを想像していた。ところがロンドン市街を離れ、流されるように着いた先、ほとんど話さないアーサーに付き従うように歩いてきたその目の前にあるのは、まるで絵本に出てくるような可愛らしい小さな一軒家だった。
レコード屋の店先でもしばらくそうしていたように、菊は圧倒された様子で家を眺めた。
「なあ、それ」
アーサーが菊のトランクを寄越すように言う。意を察したものの、先程からのこともあり、菊は正直なところアーサーを恐れて固辞した。とは言え、玄関ドアまで辿りつくには無骨なコンクリートの階段を数段昇る必要がある。トランクと楽器ケース、自力でふたつ同時に運べなくもないが、楽器が不安定になってしまう。それは避けたい。それならまず楽器ケースを置き、それからトランクを運ぶことになる。それでは余計な時間を消費して、アーサーに迷惑がかかる。それはなんとしても避けたい。菊は苦渋の選択を迫られた結果、「すみません」と頭を下げてアーサーの方へトランクをおずおずと押した。少ない荷物でいくらか軽いのがせめてもの救いだった。アーサーはトランクをひょい、と片手で持ち上げる。申し訳なさと感謝を半々で噛み締めながら、楽器ケースの肩紐を両手でしっかりと掴み、菊はアーサーに続いて階段に足をかけた。
「曽祖母の家だったんだ」
アーサーが玄関ドアを開けながら言う。表情は平坦で感情は読めない。
「靴はそこで」
菊はアーサーが指し示す一角で靴を脱いだ。玄関と室内を区切る段差がない。不思議だ。
アーサーが玄関スペースの隅にスーツケースを据えるやいなや、菊はサコッシュからウエットティッシュを取り出し、スーツケースの車輪を手早く拭いた。アーサーはその様子にたじろいだが、悪意のある行動ではないので気にしないことにした。
「来客なんてないからな、悪いがスリッパの用意はない」
「いえ、はい」
菊はまごまごと返事をしながら促されるまま玄関ホールを抜け、リビングへ通された。マントルピース、大きな出窓、奥にはサンルーム。目に映るもの全てが目新しい。
良く整理された、質素で機能的な美しい住まいだ。菊は自分が育った祖父の家を思い出した。
「ここで育ったのですか?」
おそるおそる菊が尋ねると、アーサーは菊の様子に頓着する様子もなく答えた。
「いや?この家で暮らすのは曽祖母が亡くなってからだな。小さい頃には何度も来たらしいが、よく覚えてない」
遺言でこの家をアーサーに遺すとあったそうだ。
「住むとこがあるから落ち着いてバンドを始められた」
助かったよ、とアーサーはソファに腰を下ろした。
「曽祖母がいよいよってとき、何人かの曾孫の中で俺だけ定職についてなかったからかもな」
相続に関する見解を語って、アーサーは楽器を背負ったまま所在なげに立つ菊に促す。
「座れよ、疲れただろ。楽器もそこに置いたらいい」
アーサーの指さす先には、白いレースのカバーがかかったつやつやとした木目の美しいアップライトピアノがある。菊は先ほどのアーサーの言葉を思い出した。小さなアーサー坊やは曽祖母の奏でるピアノに合わせて歌ったりしたのだろうか。
ソファに沈みながらアーサーは菊に告げる。
「落ち着いたら部屋へ案内する」
菊は楽器ケースをピアノの傍にゆっくりと降ろすと、印象派の絵画みたいな模様の、どっしりした布張りの1人掛けソファに腰掛けた。祖母がその昔「コール天」と呼んでいた生地に似ている。懐かしい記憶が、菊の緊張をほんの少しやわらげてくれた。
「すみませんでした」
おもむろに菊が深々と頭を下げる。黒髪が縋るように頭の動きに合わせて揺れた。
「…何が?」
虚を突かれた表情でアーサーが菊に問う。
「私の考えが甘いばかりに、このようなご迷惑をおかけしてしまいました」
ためらいなく人に頭を下げる。日本人はみんなこうなのか?菊の頭をまじまじ眺めながら、アーサーはため息を誤魔化すように言った。
「いや、いい」
頭を上げろよ、とアーサーはソファに預けた体を起こして言う。
「よく知りもしない街に出鱈目みたいな日程で呼び出したんだ。おまえが悪いわけじゃない」
東京からロンドンへ呼び出してから今日まで4週間。準備や後始末で目の回る忙しさだったはずだ。こいつにしてみたら、バンドに合流すること以外は優先順位の蚊帳の外で、住むところなんて深く考えるはずもない。知らないんだ。こいつは知る時間もなくここへ来た。たったひとりで。
「それは…そもそも私が唐突な行動を取ったのが発端で」
「そのおかげで俺のバンドは死なずに済んだ」
アーサーは菊の瞳をまっすぐ見て「いいんだ」と制するように告げる。いいんだ。本当に。これは俺の問題だ。
「俺は…そうだな、たぶん人と暮らすのに向いてない」
アルフレッドと住んでるほんの数週間、あいつの生活習慣にはマジでうんざりしたからな、とアーサーは苦々しく言う。
その言い方が菊には少し温かく聞こえた。ふたりの間には、確かな信頼関係と絆が存在する。
ふと、アーサーが思い出したように立ち上がる。
「お茶を淹れる」
キッチンへと向かうアーサーの背を見送って、菊はようやくひと心地ついた気分になった。
いちご泥棒だ。
アーサーが菊に差し出した紅茶は、可愛らしい小鳥の模様のカップに注がれていた。かつての職場の先輩が、どうやら英国の音楽を好むらしい菊に、音楽以外の英国情報をしばしば教えてくれたものだ。そのうちのひとつがウィリアムモリスだった。カップを眺め、上司や先輩、同僚のことをじんわり思い出す。菊は自動車メーカーで電子制御ユニットの設計をしていた。エンジニアのご多聞に漏れず馬鹿みたいに忙しかったが、皆いい人ばかりだったし、仕事はとても楽しかった。
「…茶道のアプローチなのか?」
アーサーが訝しげに菊に尋ねる。菊ははっとして
「違います、これは、日本にいるときにこの模様を見たことがあって、それで…」
あたふたと言い訳をする。供されたお茶を飲むでもなく、しげしげと器を眺めているなど無作法だったと恥ずかしくなり、申し訳ない気持ちでいたたまれない。
「すみません」
素直に頭を下げた。アーサーはやれやれ、といった表情のあと「別に謝らなくていい」とソファに片肘をつきながら静かに笑った。
菊は、アーサーは怒っているのだと思っていた。よく知りもしない外国人を家に入れ、共同生活を始めなければならない理不尽に憤っているのだと。
今なら少しわかる。彼を包んだのは混乱だ。彼の生活を脅かすかもしれないものに対してひたすら困惑していたのだと思う。
本当に申し訳ないことをした。
菊は彼の期待に応えるべく振る舞わねばと改めて自身に誓った。アーサーカークランドの才能は本田菊の魂を打ちひしぎ、地の底から掬い上げもする。アーサーのバンドへ加入することは自分にとって信仰の試練であり、歓喜の巡礼でもあるのだ。
決意を新たにしたところで、菊はふと気になってアーサーに尋ねた。
「茶道をご存知なんですね」
アーサーは紅茶を啜りながら答える。
「俺は大胆かつ慎重な性格だからな。おまえを採用するにあたって日本文化だってしっかり調べたさ」
誇らしげに言うのが妙に可愛らしかった。菊はわずかな空気漏れかのように静かに吹き出す。きっと、ただ怖いだけの人ではない。才能と情熱とユーモアと、自分の守るべきものについて。それらに対するアーサーの愛情を菊は確かに感じた。いい人だ。少しわかりにくいだけで。
菊はゆっくりとお茶を飲み干した。
お茶を飲み終えるとルームツアーが開始された。リビング周りから改めて始まり、サンルームを経て台所。独立した空間の広々としたキッチンだが、湯を沸かす以外にアーサーはほとんど使っていないと言う。
重い戸を手前に開くタイプの、中が3段ある備え付けの立派なオーブンに関しては「古いがたぶん使える」という曖昧な回答だった。食器やカトラリーなどの場所を教えてもらいながら、ややぞんざいな様子で説明するアーサーの話に菊はしっかりと耳を傾けた。もしかしたらアーサーは台所にはあまり興味がないのかもしれない。
「鍋や包丁が必要なら、適当に探して使ってくれ。ところで、おまえは自分が冷蔵庫に何を入れたか把握できる人間だよな?」
アーサーの質問の意図がわからない。菊は返答に窮しながらもなんとか応じる。
「ええと…はい。自分が買ってきたものや作ったものは、その、はい。わかります。勿論、人のものとの区別も」
「それならいいんだ」
正解だったようで菊は胸を撫で下ろした。
「アルフレッドと暮らしたとき、あいつがたまに連れてくる連中が俺が買ってきた酒だのミルクだのを無断で消費して戻さないことがよくあった。俺は正直おかしくなりそうだった」
ミルクのボトルに「アーサー」と名前を書くのが惨めに感じて「仔猫用」と書いたこともある。アーサーは当時の苦痛を思い出して眉間に皺を寄せる。
「腹いせにあいつの買ってきたものを片端から消費してやったら、あいつ怒るどころか全く気にもとめないんだ。どうかしてる」
菊は内心で少し頬が緩んだ。共同生活の価値観が異なるアーサーとアルフレッドのやりとりがなんとなく想像できる。「基本的に」とアーサーが念を押すように言う。
「自分の用意したものを飲み食いしてくれ。必要な買い物があるなら慣れるまでは付き合う」
菊は素直に「はい」と答えた。
続いて浴室を案内される。
「バスルーム」と書かれた真鍮の小さなプレートがドアに打ちつけてある。アーサーがドアを開けて中を示すので確認すると、向かって右手にクラシカルなバスタブが設置されたシャワーコーナー、左手に洗面所とトイレが設置してあった。菊は少々困惑した。なぜひと部屋に全てを置くのか。それはそういう文化だから、となんとか自分を納得させ、菊はアーサーに質問する。
「バスタブに湯を張ってもかまいませんか?」
「いいけど、溢れさせるなよ。おまえら日本人が考えてる風呂と違うからな」
本当に日本文化を学んでくれたんだ。菊はうれしくなった。つい頬が緩んでしまう気持ちを抑えた。浮ついた言動は控えるべきだと身に染みている。
「はい。ありがとうございます」
ルームツアーはつつがなく終わり、結局のところ菊が自由に立ち入っていい場所はリビング、サンルーム、台所、バスルーム、ランドリーなどの共有スペースと自室となる客間。要するにアーサーの部屋以外は家中どこにいてもいい。
リビングの大きな出窓近くの、壁一面の書棚にある本もいつでも好きに読んでいいし、ピアノも早朝深夜でなければ好きに弾いてかまわないとのことだった。
ルームツアー終了後、Wi-Fiのパスワードも教えてもらった。
「至れり尽せりでは…」
自室として案内された部屋で荷解きをしながら菊はしみじみと思った。本来なら今頃は安ホテルの喧騒と設備トラブルに頭を抱えていたかもしれない。