そんなことを言われたら 広く長い黒色の廊下を渡る。角を曲がると室内がひときわ明るくなって無名は目を細めた。右手には窓が連なって、そこから朝陽が白く差し込んでいる。
窓辺に寄ると薄い水色の空が映り、鳥たちがじゃれ合うように飛び交う。足を止めて外を眺めていた。
「おい」
ぼんやり漏れる陽の光を浴びていると背後から声をかけられた。振り返ると見慣れた男がひとり。
夏侯惇だ。
「孟徳が呼んでいる。部屋に来いと」
……曹操が?
思い当たることなど無い。首をかしげると、夏侯惇は「ふっ」と笑う夏侯惇と目が合った。
「先日任された反乱軍の鎮圧の件かもな。急な任務だったが難なくこなしたと聞いた。褒美でも貰えるんじゃないか?」
ああ、そういえば確かにいきなりの任務だったな、と口元に指を当てて思い返す。
今日みたく廊下を歩いていると、向かい合わせで曹操がやって来た。外套をひらりとなびかせ、「紫鸞」と呼び止められた。
「周囲を騒がせている反乱軍がいる。ごく僅かな人数と聞いた。お前だけで十分だろう。早めに芽を摘んで来い」
当然やれるだろう? と曹操が視線を送ってきた。可能だ、と小さく頷いて返す。
その足で向かい反乱軍を壊滅させてきた。
「ほら、そろそろ行って来い」
夏侯惇は曹操の部屋の方へ目線を送った。先ほど言われた褒美の二文字に、豪勢な料理が頭に浮かび上がる。ごく、と唾を飲み込んだ。
無名は内心浮足立って陽に照らされた廊下を歩き出した。
曹操の部屋の前に着いて扉を軽く叩いた。
「紫鸞か? 入れ」
扉を開けて中を覗くと、陳列された壺や香などの骨董品が目に入った。数は多くないが町で見かけない珍しい模様が描かれている。
曹操の方に視線を映す。何か書き物をしていたのか、握っていた筆を机に置き頬杖をついた。
「待っていたぞ」
無名を見て曹操は微笑んだ。その表情から、夏侯惇の褒美の話は本当なのでは? と、はやる気持ちを抑える。
数々の料理が脳内に自然と浮かび、今か今かと曹操の口から目当ての言葉が出るのを無名は待ちわびると、
「紫鸞、お前も詩を嗜んでみないか」
――詩?
予想外の言葉に無名は首をかしげた。
「武芸以外の道を作っておくのも良いだろう。楽しめることが新たに増える。始めてみないか?」
「……」
「どうした? 顔が硬いが」
「俺には向いてない」
無名は口を尖らせて返事をした。欲しい言葉が得られず、曹操相手に突っぱねる態度をとってしまった。
夏侯惇が褒美なんて言わなければ……と勘違いで膨れ上がった期待がしぼんでいく。
「俺はそういう嗜みに疎い。すまないが他を当たってくれ」
踵を返し部屋を出ようとすると、
「まあ待て。向く、向かないの話ではない。心で感じたことを言葉に綴る。難しいことではない」
曹操の声がいつもより柔らかく聞こえる。
「私は、その暁天の瞳が何を感じたのか知りたい」
じっ、と無名の目を見つめる。
「別に、何も変わらないと思う」
無名が視線を一瞬下に滑らせると、ガタッと椅子から立ち上がる音が聞こえた。
曹操は窓辺に近寄り、黄みが混じった白い陽光と重なる。こちらに振り向く動きは分かったが、逆光で彼の顔が見えない。
「……伝わっていないようだな。言い方を変える」
カツン、カツンと靴音がゆっくりと鳴る。無名の方向へ近付くにつれ逆光は薄く散っていく。目の前に立った曹操は不敵に笑っていた。
「我が紫鸞は何を思い、何を感じたのか。何に心が動き、どんな言葉を紡ぐのか」
さらに一歩前に詰めて二人の距離がぐっと縮まる。
「曹、操……」
「私は、お前をもっと知りたい」
「……その言い方は、自分が特別だと勘違いしそうになる。嫌だ」
戸惑う表情を浮かべると、曹操は無名の顎に指を添えて口を開いた。
「何を言っている? 我が紫鸞は曹孟徳にとって特別だろう」
まるで当然のように言い放たれて無名は顔を薄っすら赤らめた。
聞かされる方が恥ずかしくなる台詞に、気乗りしない嗜みに心が揺らぐ。
「少しだけなら……」
先ほどまで曹操がいた机の方へ顔を向けた。
「ふっ、素直で愛い奴だ」
本当は詩なんて全く興味は無いが、曹操の誘い文句で久々に筆をとってしまった。
脳内でずらりと並んでいた料理たちはいつの間にか消え去っていた。