少しあかるい夏 夏は嫌いだ。
何より、このうんざりするほど強烈な暑さと、全身からじわじわと噴き出してくる汗、汗、汗。シャツがべったりと肌にはりつく感触は、不快で仕方がない。子供の頃は何とも思わなかった蝉の鳴き声すらも、今はただ、僕を息苦しくさせるばかりだった。
改札を出ると、夏のぎらぎらした白い日差しが一斉に降り注ぎ、一瞬目がくらんだ。今まで冷房が効いた快適な電車の中にいたせいか、急な気温差でこめかみの辺りがズキズキと痛む。
腕時計をちらりと見ると、まだ十五時過ぎ。塾が始まる時間までかなり余裕があった。
そうだ、いつものように自習室で勉強でもしていよう。
そう思い、足を踏み出した瞬間、ふいにめまいがして、僕はその場に立ちすくんだ。
――あれ、僕ってこんなに体力なかったっけ。
自分ではちゃんと地面に足をつけたつもりでいたのに、身体の方がいうことを聞いてくれなかった。まるで、自分の身体じゃないみたいだった。
最近、こういうことがよく起こった。身体のどっかのネジが一本外れていて、何もかもがちぐはぐに動いているような……自分で自分をもてあましているかのような、ひどく不安定で奇妙な感覚。でも、理由はちゃんとわかっていた。よく眠れていないせいだ。眠れないわけじゃない。睡眠時間は十分に取っている。ただ、寝ても寝ても、全く眠った気がしないのだ。
この前なんか、授業中に居眠りをしてしまい、その場で注意されるのならまだ良かった。長い長い授業が終わった後に、個別で呼び出されたのだ。先生に説教をされた経験なんてもちろんなかった僕は、なかなかに絶望的な気持ちで、先生が待つ廊下へと向かった。そしたら、「あなたが授業中に居眠りなんてどうしちゃったの?何か悩みでもあるの?」とひどく心配され、拍子抜けした。と同時に、申し訳なさと恥ずかしさでどうにも居た堪れなくなった僕は、「大丈夫です」と、ただ同じ言葉を繰り返すしかなかった。あんなにも強く、「この場から逃げ出したい!」と思ったのは、幼稚園のプールで思わぬ痴態をみんなの前に晒してしまった、あのとき以来だった。
ゔ……何で今、思い出しちゃったんだろう……。頭のてっぺんが、照りつける太陽のせいでヒリヒリと痛んできた。少し、休憩してから向かった方がいいのかもしれない。何せこの日差しだ。塾に辿り着くまでに倒れてしまったら元も子もない。
僕はくらくらする頭を押さえながら、近くのベンチにゆっくりと腰を下ろした。大きな木にまぶしい日差しが遮られて、少し暑さがマシになった。ほっと息をつく。
この時間帯は駅も人がまばらで静かだ。朝の喧騒が嘘のように空気がしん、としていた。目を閉じると、まぶたの裏にまで真昼の白い光が広がって、むうっとたちこめる夏の緑のにおいに、全身が包まれた。
学校はもうすでに夏休みに入っていたが、今日は特進クラスのみに行われる夏期講習があったため、僕は朝早くから学校に赴いていた。
特進クラスというのは、入学時のテストで成績上位だった者だけが集められる、特別なクラスだ。風間にとって特進クラスに入ることは、入学前からの目標でもあったので、夏期講習も当然承知の上だった。
しかしその後、急遽生徒会の会議が入ったのは予想外だった。話し合いが思った以上に長引いたせいか、昼食もゆっくりと食べることができず、今に至る。
明後日は塾で行われる模擬テストがあるから、そのための勉強もしなくてはならない。前回の模試は点数があまり良くなかったから、これ以上、周りに後れをとるわけにはいかなかった。
そうだ、こんなところで休んでいる場合じゃない。早くみんなに追いつかないと。
だって、僕はあいつと違って、エリートになるんだから。
――あ、まずい。
一人になると、余計にあれこれと考え込んでしまうのは、僕の悪い癖だ。
睡眠不足と暑さのせいだろうか。頭の中が、スプーンで乱雑にかき混ぜられているみたいに、ぐわんぐわんと波を打った。
……僕は、一体何をしているんだろう。
「お?風間くん?」
そう。さっきまではこんな風に空気を読まず、話しかけてくる奴なんかもいなくて、静かで心地よかった。
「お〜〜い。風間くぅん」
早く塾に行かなくちゃ。まずは、この前あまり点数が良くなかった数学から対策していかないと……。得意な英語も最近伸び悩んでいるし、今よりもっと、勉強時間を増やした方がいいのかもしれない。
「か・ざ・ま・と・お・る・くぅ〜ん。なんで無視するのぉ〜?」
「あ〜〜〜〜ッもうっ!うるさぁ――――――い!!」
「お、やっぱり風間くんだ」
しまった。あまりのうざさに耐えきれず、反応してしまった。
立ち上がり息を切らした僕の目の前には、あのムカつく声からして予想通りの奴が立っていた。
「……何で、お前がいるんだ」
「えぇ〜?そう言われましても〜」
ここ、カスカベだし。
やれやれ、と両手を広げて、奴は呆れた調子で首を横に振った。真夏には眩しすぎるくらい真っ赤な色のTシャツと、膝丈まである薄黄色の短パンからは、日に焼けた健康的な手足がのぞいている。あの頃と何も変わらない、いかにも夏を楽しんでます、といった出立ちだった。
「いや〜それにしても土偶ですなぁ」
「……それを言うなら奇遇だろ」
「そうともゆ〜やの次はゆ〜」
そういえば、こいつと最後に会ったのはいつだっけ。
――ああ、思い出した。確か中学一年の夏休み。
あの頃の僕はかなりピリピリしていて、「風間く〜ん、カブトムシ採りに行こ〜」と、突然僕の家にやってきては呑気に誘ってきたあいつの無神経さにイラッときて、乱暴に追い返したんだった。
あれから、しんのすけが家に来ることはなくなった。こいつにも一応遠慮というものがあったんだな、と少し驚いた。それから、一度はちゃんと謝ろうと思った僕だったが、忙しさを言い訳にして、こいつに会うことを避けてきた。……たぶん、変な意地を張っていたんだと思う。
それなのに。目の前のこのノーテンキで浮かれた奴からは、気まずさのひとっ欠片も感じられなかった。一体何を考えているのか、いまいち感情を読み取れない表情で、海藻みたいにゆらゆらと左右に揺れている。
……なんだよ、僕だけかよ。こんなに悩んでたのは。
「風間くんこそ、こんなとこで何してんの?」
「……別に。ちょっと休憩していただけだ」
嘘はついていない。そのはずなのに、なぜか妙に後ろめたい気持ちになって、顔を上げられず俯いていると、額から汗が滝のように流れてきた。にじんだ汗で、おでこにへばりつく前髪が気持ち悪い。
僕の足元には木漏れ日が降り、葉影がちらちらと揺れていた。ばかみたいにピカピカに磨かれた……おそらく上等なものであろう、僕の革靴。その先に、くたびれたあいつのサンダルが見えた。はだしの足先は、少し汚れている。
前髪の隙間からちらりと上を覗くと、夏の日差しを全身に受けて大きな影になったあいつが、八月の太陽みたいに強くまっすぐなまなざしで、僕をじっと見つめていた。思わず、身体が強張る。
僕は、昔からこいつの目が苦手だった。
身体の中心がざわりと不安で波打つ、それでいて、全身が期待でどくどくと湧き立つような……。
汗ばんだ手のひらに、ぎゅっと力が入る。こいつには全てを見透かされているようで、僕はいつも居心地が悪くなる。
まるで蛇に睨まれた蛙みたいに目を逸らせずにいると、なんでもない風に、こいつは言った。
「オラんち、来る?」
***
「ほ〜い。プスライト一丁上がりぃ〜」
とん、と僕の目の前に、透明な液体が並々と注がれたコップが差し出された。パチパチと泡のはじける音がする。
「ぷは~っ!やっぱりプスライトは開けたてに限りますなぁ」
しんのすけは、お風呂上がりの親父みたいにお行儀悪くコップをあおると、ヘラヘラと笑った。プスライト一杯でこんなに喜べるなんて、ほんっと幸せな奴。
数年ぶりにお邪魔したしんのすけの家は、びっくりするほど、あの頃と何も変わっていなかった。夏の原っぱみたいにあかるい色の絨毯も、茶色い机についた細かいキズやしみも。ピンク色がまぶしい台所に、置きっぱなしにされた読みかけの雑誌。冷蔵庫の扉に貼られた大量のチラシやメモなんかも。そっくりそのまま、僕の記憶のあの頃のままだ。
でも、その変わらなさが、今はどこにいるよりも安心させられた。大きく開け放たれた縁側の窓からは、なまぬるい風が入ってきて、僕の汗ばんだ背中をすっとなでた。
「〜〜〜〜〜〜」
しんのすけは扇風機に向かってあぐらをかいて座り、子供みたいに顔を近づけて遊んでいた。じゃがいもみたいに、つるりと綺麗な形をした頭。そこからあっちこっちに伸びた短い黒髪が、扇風機から吹くゆるい風でくるくると踊っている。あの特徴的な丸みを帯びた眉も、相変わらず無造作に生えていた。……でも、あの頃よりもほんの少し凛々しさをまとったあいつの横顔は、どこか大人びて見えて、胸の奥が微かにざわついた。
流石にじっと見すぎていたせいか、風間くんもやる?と、期待を隠そうとしない目でしんのすけがこちらを見てきた。
「や・ら・な・い」と口だけを動かして言ってやると、体をくねらせて、「トオルちゃんってノリ悪〜い」と言われた(ような気がした。あいつも口パクで返してきた)。
そういえばさっき、こいつと並んで歩いているときに気づいたが、身長はまだ僕の方が勝っていた。でも、記憶の中のあいつよりも幾分か背が伸びていて、なんだか無性に腹が立った。……こいつには絶対、抜かされたくない。
ふと、視線を前に向けると、コップの表面にはもう水滴がいくつもついていて、この部屋の暑さを物語っていた。僕は慌ててコップを手に取ると、腕にまでその水滴は垂れてきた。その感覚にびっくりした僕は、勢いよくそれを喉に流し込んだ。冷えた液体が、乾ききっていた身体全身に、どくどくと染み渡っていく。喉の奥でしゅわしゅわとはじける炭酸の痛さと、口いっぱいに広がるソーダの甘さがひどく懐かしく、鼻の奥がつーんとした。
「――風間くん。その前髪、暑くない?」
しんのすけに唐突にそう訊かれて、一瞬息が詰まった。しばらく会っていなかったことを今更のように思い出して、なんだか気まずくなった僕は、おでこにはりついた前髪を指で鬱陶しく横に流す。
「……お前には、関係ないだろ」
「んもぅ~相変わらず冷たいんだから~そんな風間くんには……」
あ。
それまで所在なさげにだらんと垂れていた僕の右腕が、瞬間的に、いや、反射的に持ち上がった。どれだけ年月が経っていようとも、記憶というものは身体に染みついているようで、自分ながらに感心する。
しかし時すでに遅し。
僕の右耳は、守れなかった。
「何すんだ――――――ッ!!」
「お、元気になった」
……たぶん、こいつはなんにも考えてない。
それなのに、ばかなこいつにこの僕がしてやられたようで、ひどく気に食わなかった。手に触れた耳たぶは、わずかに熱を帯びていて、その事実がさらに僕を不機嫌にさせた。
「お久しぶりぶりの耳フーでこの反応。流石ですなぁ」
「お前って奴は……」
「嬉しい?」
「嬉しいわけあるか!」
くそっ。
嬉しそうにヘラヘラ笑っているのも、むかついて仕方がない。
「んじゃ次はお背中」
ぶちんっ。
僕の堪忍袋の緒が、盛大にぶち切れる音がした。
「……しんのすけぇぇええええ――――――――ッ!!」
***
あれからどのくらいの間、走り回っていたのか。僕は考えたくもなかった。こんな蒸し風呂状態になった部屋の中で、子供じみた追いかけっこをするなんて、ばかのやることだ。……まぁ、そんな大馬鹿者がまさに今ここに、二人いるわけなんだけど。ハァ……何をやっているんだ、僕は。
お互いにぶつくさ文句を言いながらも、僕らは扇風機の前に並んで腰を下ろした。全身汗でびしょびしょの身体には、扇風機の風は心許ない。頭のズキズキは、いつのまにか治っていた。
「……お前は、変わらないな」
僕は呆れと、少しの羨ましさを込めて、そう呟いた。
当のしんのすけはなんとも思っていないのか、ほうほう、と呟くと、一瞬考え込むような仕草をして、僕をじっと見つめた。僕の苦手な、あの目だった。
「風間くんは――」
汗でじっとりと濡れた前髪が風で乱れ、しんのすけの顔がハッキリと僕の目に映る。吸い込まれそうなほど、まっくろな瞳が、まっすぐに僕をとらえた。
「ちょっぴり、お疲れですな」
――ちょっぴり、お疲れ。
しんのすけにそう言われて、僕ははじめて気がついた。
そうか。僕は、疲れていたのか。
そう気づいた途端、全身からどっ、と嫌な汗が噴き出した。今まで、自分の心の深い深いところに押し殺してきた気持ちを、何の前触れもなく突然外に取り出されたみたいに、胸がきゅうきゅうと音を立てる。
だめだ。このままこいつと一緒にいたら、僕はだめになってしまう。早く、早く離れなきゃ。
「っそろそろ塾の時間だから、帰るよ」
喉から飛び出た声は、恥ずかしいくらいにうわずっていた。それを誤魔化すようにして、床に置いてあった鞄をひったくると、しんのすけの方も見ずに立ち上がった。胸の鼓動が速くなる。
「待って風間くん!」
自分を呼び止める声に、気持ちとは裏腹に足が止まった。
やめろ、僕にかまうな。
「風間くん」
後ろから聴こえてくる、やさしさを含んだ声に、自然と耳を澄ましてしまう。お願いだから、やめてくれ。
「……なんか心配だから、そこまで送ったげる」
ああ、だから嫌なんだ。
コイツの全てが、僕にとってあまりにも苦しくて、残酷で、この上なく――甘すぎる。
***
「……この辺でいいよ」
歩いている途中、僕たちは一言も言葉を交わさなかった。
こういうとき、しんのすけは空気が読めるのか読めないのか、はたまた何も考えていないのか、びっくりするほど静かになることがある。
そういえば前にもこうして、しんのすけが僕を送ってくれたこと、あったっけ。あのときも、僕はこいつのやさしさに、押しつぶされそうだった。
「じゃ、おまた〜」
僕はそれにまたね、とは返さず、曖昧にうなずいた。
蝉はもう弱々しく鳴いていて、ぬるく穏やかな風が、僕の湿った前髪を巻き上げる。
しんのすけはまだ何か言いたそうに、じっとこちらを見ていた。――また、あの目。
「……なんだよ」
戸惑う僕に向かって、しんのすけが突然、そのぶら下がっていた両腕を思いっきり広げた。そして、
(こいつはもしかして、この世の全てを吸い尽くすつもりなんじゃないか?)
そう、不安になってしまうくらい、大きく大きく、息を吸い込んだ。
「すぅぅ――――――ッ風間くんがっ!」
「いつでもオラのお胸に飛び込んできてもいいようにぃ!」
「受け止める準備はぁ!」
「もうっ、できてるんだゾ――――――――――ッ!!」
一瞬、世界が止まった。
一斉に鳴き出した蝉の声も、ぎらぎらと輝く夕陽のまぶしさも、僕たちを勢いよく包み込んだ突風も。この世の全てが、こいつのために存在しているかのような、そんな錯覚にとらわれた。
だってあいつが。
あいつが、夏の太陽に負けないくらいあかるくて、強くて、まっすぐな目を、僕なんかに向けるから。
息ができない。胸がどくどくと鳴っている。苦しい。痛い。嬉しい。
あいつにはめずらしく大真面目な顔。そして、胸が張り裂けそうなほど、めいいっぱいに両腕を広げたポーズ。指先は少し、震えている。
その光景をしばらくぼんやりと眺めていた僕は、なんだか急におかしくなって、噴き出してしまった。
「あ!笑うなんてひどいゾ!」
「ふっ、ふふ……あははっ」
通り過ぎていく人たちが、不思議そうに僕たちを見ている。けど、もう、どうでもよかった。
こいつの痛いくらいのあかるさに、僕はやられてしまったんだ。
「でも……僕の方が、身長高いぞ」
「……え、そうなの?」
「お前、ちゃんと受け止められるのか?」
「むっ……オラだってまだまだ成長期の途中だも〜ん。風間くんなんてすぅぐ追い越しちゃうもんね〜」
余裕余裕〜〜。
そう言いながら、奇妙奇天烈な動きを、僕の目の前で次々とくり出し始めた。通り過ぎる人たちに、今度は迷惑そうな目を向けられている。
こいつといるといっつもこうだ。……もう、慣れたけどさ。
そんな姿を見ていたら、またあのときみたいに涙が出そうになって、僕は慌ててまばたきをした。今度はバレてないといいな、と思いながら。
「……じゃあ、またな」
しんのすけは一瞬きょとんとした顔になると、よく動く眉を、嬉しそうにふっと浮き上げた。その、あまりにも素直で正直すぎる反応に、僕は照れ臭くなって目を逸らした。
街は西日に照らされて、ほのかなオレンジ色に染まっていた。しんのすけの黒髪が光に透けて、きらきらと輝いている。僕はそのまぶしい光景に、目の奥がじん、とあつくなった。
「トオルちゃあん。ママにもちゃあんと甘えるのよぉ~」
「ママの真似はやめろ!」
今年の夏は、少し好きになれそうだ。