眠り姫の如く静かな夜だった。
時計の針が「もういい加減寝ろ」と警告を鳴らしているのに、
リビングから柔らかな灯りが漏れてくる。
思わず足音を忍ばせて覗くと、
セーニャがソファに腰掛けて、分厚い絵本を開いている。
表紙の金文字は「眠れる森の美女」。
やけに古風な綴じ方で、どこか異国の空気をまとっている。
その本は、セーニャの髪や指よりもよっぽど”整然”とした美しさを持っていて、
俺はちょっとだけ羨ましく思った。
「また童話か」
冗談混じりに声をかけると、
セーニャはやんわりと顔を上げた。「童話だけど、大人にも大事なことがあるらしいですよ」とかなんとか言って、
ページの端を優しくめくっている。
俺の見てるこの光景――
ほっそりした指、ふわふわの髪、微かに浮かぶ寝癖――
どう見ても「守ってくれる王子を待つ娘」ってより、
食べ残しのケーキのことをずっと考えてそうな、のんきな顔。
けどなぜか今夜は、
眺めているうちに、だんだん絵本と現実の輪郭が曖昧になってきて、
目の前のセーニャが“現代の眠り姫”にでも思えてきた。
そりゃまあ、セーニャのおっちょこちょいおっとりっぷりは、
こっちの神経を無駄に大量にすり減らすパンチ力がある。
今朝だって、玄関で「行ってきます!」と元気よく出ていったのに、
やっぱり鍵を忘れ、
数分後に家の前でシュンとうなだれていた。
台所でも、お湯を注ぐだけで軽く火傷しかけるし、
洗濯は干す前に三度たたみ直す始末。
「目を離したら二度と戻らない動物でもなんかかよ」って、
何度冗談を言ったかわからない。
けど今夜のその姿は――
本当に”油断したら現実ごと物語に飲み込まれて消えてしまいそう”な気配があった。
セーニャがページを繰るたび、
俺の想像力も勝手に膨らんでいく。
大昔、呪われた王女が糸車の針に指先を刺して永遠の眠りについた――
そんな話はフィクションだとは知ってる。
…けど、もし目の前のこのおっとりしたやつが本当に”指を刺して”眠ったら?
もしも現実の時間が巻き戻ったり止まったりして、
自分一人だけ、ずっと動き続ける孤独な森の中に取り残されたら?
俺の頭の中で、
ありもしない妄想が急速に膨れあがる。
想像は時に現実よりずっと残酷だ。
甘い香りの部屋で、
一人分だけ寝息の消えたベッド。
コーヒーのカップも、ゆっくり冷え、
「ただいま」と返る声は永遠に戻らない。
どちらも童話のような”魔法”では目覚めない。
俺だけが、必死に日常の全部を守り続ける。
だが、日が経つにつれてその存在は「遠い夢」になっていく――そんな悪夢。
ふと我に返って、
ソファの後ろからセーニャを覗きこむ。
「なぁ、手ぇ貸して」
「え?…ページめくってほしいんですか?」
天然特有のピント外れな返事。
「違ぇよ。お前、指を針で刺すなよ。
それか本格的に眠り姫になるなら、まず俺を巻き込んでからにしろ」
いっそ皮肉混じりに言ってやると、
セーニャがきょとんとして、それでもすぐ分かりやすく照れる。
「魔法使いに出会ったら、絶対にカミュさまにも相談しますね」
そんな約束証文みたいなこと、
想定外に本気にした顔がずるい。
わざと隣に腰を落とすと、
不意に本の中の挿絵が目に入る。
眠る姫の回りで茂みが絡まり、時間そのものが静止している森――
まるで、いま俺の部屋を描いたみたいだった。
「でもさ。王子様って迷って迷って、ようやく姫に辿り着くわけ。もしもの話だが、
目覚めても世界が百年変わっていたら、
それって幸せなのかな」
セーニャはページをそっと閉じて、小首を傾げる。
「私は……誰かを信じて待つのはすごく勇気がいる気がします。
それでも、会いたい人がいるなら、きっと起きて最初に笑えます」
やけに真面目なトーン。
「はは。俺なら百年も寝てたら間違いなく身体がバキバキだ」
笑いに紛らせる。
だが、心のどこか、本気で”目を離したら隣にいなくなる”ような落ち着かなさが拭えない。
「けど現実は残酷でな、誰も来ねぇうちに朽ち果てる可能性だってある」
「それでも……カミュさまは来てくれますか?」
「しつこいくらいに呼び戻してやる。何なら眠る暇もねぇくらい耳元で話しかけてやる」
「眠り姫、寝不足で目覚めるのはちょっと可哀想ですね」
そうして、また絵本をテーブルに伏せて俺の方を見る。
セーニャは危なっかしい。
本当に目が離せない。
“物語の森”じゃなくても、家の中、駅のホーム、普通の交差点……
油断すると、どこへでも消えてしまいそうな予感がいつもある。
けどだからこそ、俺はこの現実で、
何度でも「呼びかける」役を買って出たくなるんだ。
セーニャの手を取る。
とくに理由のない日常の中、
まるで眠りから姫を目覚めさせる代わりに、
現実世界にちゃんと繋いでおく儀式みたいなもん。
「変な夢見て変な魔法にかかったら、その時はどうなるんだ?」
「……カミュさまの声、聞こえるまで帰ってきます」
強いようで、儚いその約束。
それが今夜だけじゃなくて、
この先もずっと続けばいいと思う。
俺は絶対、
この現実の眠り姫を森に放りっぱなしにはしない。
だから、
「絶対目ぇ離さねえぞ」
そう告げて、
明かりを消した。