不可侵心の中のものを外に出すことで痛みが生じるなら、外に出さなければいい、と思った。
――本当に大事なことは、誰にもどこにも言わないほうがいい。言わなければ、気づかれなければ、壊れることなくずっと自分の中に在る。
何が好き、と聞かれる度に、本当に好きなものじゃなくて、二番目三番目に好きなものを答えるようにしたら、すこし楽になった。これでよかったんだと思った。
でもどうしてだか、痛みが自分を追いかけてきた。逃げられなかった。切り傷や擦り傷のようなするどい疼痛ではなくて、内臓が朽ちていくような、嫌な鈍痛がじわじわと自分を蝕んでいく。
痛みを忘れるために自分を見ないようにした。そうすると代わりに他人のことがよく見えるようになった。何を欲しがっているのか、話したがっているのか。
痛がっている人に近づいて、背中をさすってあげることが増えた。
そういう人を見つけるのがどうやら得意なのだと分かった。人の傷の心配をしていれば、自分の痛みのことは考えなくてよかったから、ますます積極的に背中をさすり続けることにした。
大丈夫、きっと治りますからね。
やさしい声でそう告げる。痛くて動けない人の手を握って、大丈夫だよと励まして、望まれる欲される言動に徹する。
誰かの痛みはとばせても、自分の痛みはどこにもとんでいかない。 ずっとここに在って、すこしずつ、緩慢に、確実に、自分を損なっていく。でも止められない。もう、これ以外の生き方が出来ない。こうやって生きていくしかない。
大丈夫。今までちゃんと、やってこられた。だから、いつかのときまでは、それを続けるだけ。ある日突然ぼきんと折れるかもしれなくても、何の予兆もなく粉々に崩れるかもしれなくても、その瞬間までは。
のこりぜんぶ余生みたいなものだから、と思うようにしたら、納得できた。自傷じゃない。自殺でもない。ただゆるやかに、朽ちていくことに身を任せるだけ。抗わずに穏やかに。
何も欲しくない。何も大事じゃない。「いつか」がいつ訪れてもいい。ぜんぶ置いていける。
俺はちゃんとずっとそう思っていたのにどうしてあなたは俺を見つけてしまったんだろう?
あなたは俺に似ていた。
あるいは、俺があなたに似ていた。
この世界で、ただひとり。
「優しいお兄さん……でいられるように接してくれてたってことですよね?私が不安にならないように」
――まずいな、と思った。
本来であれば、それは俺の「得意な仕事」のはずだった。痛みに寄り添って、やさしい声で大丈夫ですよと説いてあげること。
でもそれは、どうでもいい人間相手だから出来たこと。
俺は今や、数多の無責任な大人達と同じ存在に成ってしまってずっとこなしてきた得意なはずの仕事を、あなた相手に完遂するのは到底無理そうだった。
誰のための何者にも成れるのに、俺は、あなたの一番にだけはなれそうにない。
だからよりいっそう、注意した。決してあなたに接触しないように。どんな小さなほころびも生じないように。
今までと同じ。
いちばん大事なものを心の奥底に隠しておくのと同じ。
だから俺のことは、一生忘れたままで構いません。
その代わり、どうか心の奥底に、あなたすら触れられない場所に、俺をずっと居座らせてくださいね。