痛みをめぐる夜話眠れない夜、クロードのもとに行くと科学のうんちくやおとぎ話(という名の食物連鎖の話)を話してもらえるので、聞いてるうちにねむくなってくる。この時間が実はけっこう好きだ。
「雷に七回打たれた男の話を知ってるか?」
「ええっと、知らないや」
「なら、人が一生のうち雷に打たれる確率は?」
「ううん、それも」
「一千万分の一だ。そしてそれが七回となると、概算にして二万千八百七十垓分の一。垓は十の二十乗だから、ふつうに考えてこれは「ありえない」数値だ」
「へえ……数のスケールが違いすぎてまったくピンとこない」
「しかし俺が思うに、この逸話の主題は確率でも運命論でもない」
「…じゃあ、なに?」
「痛み、だ」
「痛み?」
「痛みは全ての人に平等にもたらされる。痛みとはある人間にとっては血を流すことで、他の誰かにとっては孤立することで、また別の誰かにとっては――雷に打たれることだったりする」
「痛みはその人間に最も適した形でもたらされる。そして全ての人間は、生きている限り痛みから逃れることはできない。決して」
なんかこの話前にもされたような気がするな、と途中で気づいた。まあネタ被りくらいよくある話だし、クロードだってどれを話したのか忘れてるのかもしれない。そんなことを思いながら相槌を打った私の耳が、小さな呟きを拾った。
「ふうん」
あ。
やばい。
一瞬で気温とは別の寒さをおぼえたので、私はホットミルクの入ったカップにつけかけていた口をぱっと離した。
「でもさ、これ前に聞かなかったか?」
「……ええ?そうだったっけ?」
私の目の奥を覗き込むようにクロードは訊ねる。それを直視しながら、私は心中の焦りをなんとか取り繕って言葉を重ねた。
「俺の記憶違いかなあ。なんか話した気がするんだよな」
クロードはたまに、語弊をおそれずに言うと、こういういわゆる『試し行為』をする。
恋人と交わした会話をーーつまりはクロードの話をちゃんと聞いているか、適当に聞き流されていないか。
「えっと、別パターンのおはなしかなって思って」
いやでもさ、ひとつ言わせてもらっていいかな。
恋人にしろ友だちにしろ、話した会話をすべて覚えられる人っていないと思うよ。
カップを支える指が固く強張る。何のスイッチが入ってこういう『重め彼女モード』のクロードになるのかは未だにわからないけれど、下手に刺激すると予後がそれはもうメチャメチャにされてしまうと経験上わかっているので、私は言葉をぐっと飲み込む。
そしてその葛藤すらも見透かしてそうなのがまた、こわい。
「……まあ、繰り返し聞くのもいいもんだよな。面白かったら同じ本だって何度も読むし」
「本……あっそういえばこの間図書館で借りたクロードの植物図鑑、あれ挿絵もあってすごくおもしろかった!」
「ああ。気に入ってもらえたなら何よりだよ。他にもあるぞ。例えば…」
苦し紛れに話をそらしたが声音はすっかり元通りになった。どうやら通常の『やさしいお兄さん』モードに切り替わったらしい。
その後もいくつか他愛のない言葉をかわしながら、私は内心そっと胸を撫で下ろす。ほんとに、心臓にわるい。カップの中のホットミルクはとっくに冷めていて、膜が表面にぷかぷかと浮いていた。
クロードのヘンテコな寝物語はまだまだ続く。