2-1 カオスは人間を信じられないでいた。
かつて彼らと争った時。エリュシオンが人間に捨てられた時。その全てで精霊は道具として扱われていた。
巫女は怯えていたはずだ。巫女だけではない。あそこにいた人間たち全員が、精霊の脅威に怯えていたはずだ。だが人間は学ばない。精霊を無碍にすることの恐ろしさを忘れ、再び道具とし、そして破滅を迎えた。それがエリュシオン滅亡のきっかけである。そして今、忌まわしき理想郷は、まるでシンフォドリアが自分のものであると主張するように、ただ無機質な開かずの砦だけ残して佇む。
精霊は人間に二度裏切られた。
だから、カオスは人間を信じない。どれだけエリュシオンの外の人間が優しくても、それは薄氷の表面。その氷の下には過去と同じ未来が待っているのだ…。
◇
馬を乗り継いで、一日。ルール王国を出た一行はエーレクトラオスの辺境に来ていた。クイーン曰く、そこで人と落ち合う予定らしい。
「いた!」
彼女の指す先に道を塞ぐように一人の少女が立っている。可愛らしい容姿とは裏腹に、表情は少し堅い。
「説明して、師匠!」
開口早々出てきたのは怒りの訴えだった。
少女の名はフィオラ。かつて亡国の兵士として不老不死の魔女になったが、脱走した先でクイーンに出会い、そのまま弟子になった。今はエーレクトラオスの田舎で平穏に暮らしている。
クイーンはフィオラに事情を説明した。
「つまり、あたしが師匠の代わりにルールで実験台になれってことね。薄情~。事情は分かったけど、まずは国に招集命令かけてもらわないと行けないよ」
「大丈夫。ルールの女王から預かった親書があるわ。それにルールが神託を通達した時点で、エーレクトラオスは協力することを宣言してるから、ほぼ確定であなたはルールに協力することが決まってるはずでしょ」
「…おっしゃる通りで。それで、あんたがシンフォドリアの番人?意外と普通」
ジロジロとカオスの全身を観察する。どんな姿を想像していたかは分からないが、どうやら彼女の心くすぐる姿ではなかったらしい。
一行はフィオラと共に首都ヴィエナの城へ向かった。親書のおかげで、中に通されるまでにそう時間はかからなかった。急であったにも関わらず出てきたのは第一王子アベラルドだった。どうやらエーレクトラオスには話の分かる人間が多いらしい。(もしくは警戒心がないのか…。)直々に召集令状を受け取ったフィオラはその足ですぐにルールへと飛び立った。
アベラルドは三人を客間へ通し、ソファーに腰を下ろした。
「オケアニスの遺跡にある遺物が必要だと」
「ああ。それがあれば私に力の一部が戻る」
「困りましたね。事情は理解していますが、すぐに渡すわけにはいきません」
カオスの怪訝な顔に、彼は言葉を続けた。
「ルールから神託が言い渡され、国民は不安です。そんな中、例年行われている感謝祭は私たちにとって安心できるもの。その要となる遺物さえも無くなってしまったら、彼らの心の拠り所はどうなるのでしょう……」
「だが、そんな悠長なことを言っていられるのか?」
「なにも戦えるのはあなただけではありませんよ。私たちも有事に備え、行軍する準備はできています。話は戻りますが、私から提案があります。明後日に開催される感謝祭の手伝いをしてください。短期間ですが、それを通じてあなたには感謝祭の意味を学んで欲しいのです」
「……わ、分かった。カタリナとも約束したし…」
不安はあったが、カオスは何も言わなかった。これ以上何を言っても進展が無いことを理解していたからだ。
かと言って手伝いとは…
「何をすれば良い」
カオスは街に出て途方にくれる。中心街では今まさに、感謝祭の準備が進められていた。立ちすくむカオスとは反対に、ファイェンは真っ先に水色を基調とした美しい装飾に目を輝かせ、人々の輪に入っていった。クイーンに背中を押されトボトボと近寄るカオスの手をファイェンはグイッと引っ張った。二人に気がついた中年の女性が声をかける。
「お嬢ちゃんたち、他所から来たのかい」
「うん。あのね、私たちオケアニスについて知りたくて…それと一緒にお手伝いもしたいの」
「急だね…でも助かるよ。そうだね、貝の絵付けをやってもらおうかね」
そう言って、彼女についていった先では貝殻に模様を描く作業が行われていた。彼女は、そのうちの一個を二人に見せる。淡い乳白色の貝殻に薄い水色で唐草模様が描かれている。それはエーレクトラオスの祭りで頻繁に使われる、貝殻の燭台だった。
「こんな感じで二人にも絵を描いて欲しいの。柄は自由よ。他に分からないことがあれば、そこら辺の人に聞いてちょうだい。じゃあ、よろしくね」
「ありがとう!」
早速、作業に取りかかるファイェンに対して、カオスはしばし固まっていた。描くものがわからないのだ。好きなようにと言われても、そもそも『好き』という概念に馴染みがないため、何をしたらよいか分からない。見かねた先ほどの女性が様子を見に来る。
「なにをそんなに難しい顔してるんだい」
「何を描けばいい」
「なんでもいいさ。好きなもので良いんだよ」
その言葉によけい眉間のシワが深くなる。好きなものという概念がまだなかった。シンフォドリアを守るという使命を何よりも優先するカオスにとって、それ以外のものは些事に過ぎない。だからこれまでに何が好きか、何が嫌いかなんてことは考えたことがなかったのである。
横で作業を進めるファイェンを見る。既に彼女は一個描き終えようとしていた。見よう見まねでカオスも彼女の描くものを真似る。
これは猫。ああ、初めて土から出た時にも見たな。
これは本。ファイェンもよく読んでいた。
それから、これは花。そういえば屋敷にも花が咲いていた。
…。
ふと、筆を下ろし、今しがた描いたばかりの拙い線を見つめる。
おかしい。どうしてこんなにも想いを馳せているのだろうか。
三個ほど絵を描いた時点でカオスは筆を置いた。絵付けは止め、隣で行われていた単純なろうそく立て作業につく。エーレクトラオスの感謝祭では貝殻を燭台に、ろうそくを立てお供えする。その事前準備である。今度こそカオスはただひたすらに、ろうそくを貝殻に立て続けるのであった。
お昼は近くの屋台でエーレクトラオス名物の海鮮料理を楽しんだ。地元民ももちろん一緒である。ファイェンはカオスの隣で、海の幸をふんだんに使用したパエリアを美味しそうに頬張る。カオスも肉を中心としたルールの食事とはまた違った香りを楽しむ。
食事の最中、すっかり地元民に馴染んだファイェンが聞く。
「わたしたち、ルールから来たの。でね、エーレクトラオスのこと知らないから教えて欲しいんだ。カオスが王子様から感謝祭の意味を知らないと遺物をー」
「感謝祭の起源とオケアニスとの繋がりが知りたくて、ね」
ファイェンの言葉を遮ったのはクイーンだった。抗議しようと口を開くファイェンを彼女はウインクで制した。
「オケアニスはこの国の守護精霊と言われていてね。これは昔の話だよ…」
そう言って彼女は訥々と語り始めた。
♢
むかしむかし、エーレクトラオスには二人の魔女がいた。安寧の魔女と薄氷の魔女。人々に安らぎを与える安寧の魔女は慕われ、氷を操る薄氷の魔女は恐れられた。
だが一人の少女だけは薄氷の魔女を慕った。彼女の孤独に少女だけが寄り添ったのである。薄氷の魔女には記憶と心がなかったが、少女との交流の中で心を育み、優しさを得た。心を得た魔女はやがて少女以外の人との繋がりも得た。いつしか彼女は孤独ではなくなっていた。
それを羨んだのは他でもない、安寧の魔女であった。魔女の正体は森の精霊アルセイデス。彼女は純粋な心を欲していた。アルセイデスは少女を誑かし、少女の心を奪い取り、純粋な心を得た。
徐々に生気を失う少女に薄氷の魔女は涙を流した。するとたちまち街に大雨が降り、川は溢れ、大海は荒れ狂う。そこでようやく薄氷の魔女は自身が何者なのか思い出す。彼女は水の精霊オケアニスだったのだ。自身が何者か思い出したオケアニスは心を少女に捧げ、故郷の湖で泡となって消えた。
後に、その湖に映った自身に見とれたアルセイデスは、足を踏み外し湖の底に落ちたと言われている。
◇
「そのときの少女が後にエーレクトラオス初代女王になったと伝えられているのよ。感謝祭は元々、そのオケアニスへ感謝を伝えるためのお祭りだった。いつしかそこに水の恵みに対する感謝の意味も含まれてきたんだけどね」
「そんな話、聞いたことない」
カオスは終始信じていない様子だった。過去から今に至るまで、大陸で起きたことは認識できるが、過去の記録を探してもそんな話は出てこない。きっと作り話なのだろう。そんなカオスにクイーンが囁く。
「でも、この国の人はそれを信じてる。中にはそれが事実でないことを理解している人もいるはずよ。それでも皆、水の恵みに感謝をする。伝説に対する想いが先か、水の恩恵に対する想いが先かは…分からないけれど」
「これがあなたの知らない精霊の在り方よ」と彼女は言った。
カオスは心に僅かな違和感を覚えた。自分が良く知るはずの精霊の、知らない一面。モヤモヤする心とシンフォドリアが集積した人々の記憶を照らし合わせる。
「かなしい」
「急にどうしたの」
クイーンの言葉にかれは首を横に振った。
感謝祭当日。街は彩り、通りには屋台が軒を連ねている。はしゃぐファイェンの数歩後ろをカオスは歩いていた。歩く度にふわりと鼻腔をくすぐる、食欲をそそる香りにファイェンが立ち止まる。その度に彼女は「あれが食べたい!」「これも食べたい!」と報告しては、クイーンに「そんなに食べられないでしょ」と止められるのである。ふと、そんな光景を見てカオスは足を止め、空を仰いだ。
人々にとって何気ない風景が、かれにとってはあまりにも新鮮で目眩を覚える。慣れない風景、音、環境。その全てが、知識として知っているはずなのに、経験して得られる膨大な情報量に圧倒されたのであった。
夜が近付くにつれ、街はより活気を帯びる。日が落ちる頃、王都最大の広場に人々が集まる。広場には光が灯り、幻想的な雰囲気を醸し出している。噴水から絶え間なく出る水は街を走る水路へと流れていく。各々ろうそくを手に持ち、揺らめく炎に千変万化の想いを乗せる。ファイェンとクイーン、そしてカオスも人々に倣って貝殻を、水路の縁に供えた。水面に橙の光が踊る。感嘆の声をあげるファイェンの横で、カオスは水を撫でた。ひんやりとした感覚が指先を包む。
どこまでも続く光の道を『彼女』は見ているのだろうか。エリュシオンでは見ることのなかった風景。人々の笑顔とともに精霊に託される想い。
「精霊は道具だった」
零れた言葉は小さく、だがファイェンは振り返った。
「エリュシオンでは精霊は道具だった。人間の生活を豊かにするためだけの材料でしかなかった。精霊のための祭りなんてものはない、ただの…」
「なーんだ、エリュシオンってつまんなさそうなのね」
「?」
「だってお祭りって楽しいでしょ。お祭りがあるのは精霊のおかげだし、私たちが美味しいご飯を食べられるのも水とか火があるおかげ。そこには必ず精霊がいるんだよ」
当たり前のように言う。彼女の言葉にクイーンも頷く。エーレクトラオスの人間ではないファイェンが、時代を跨いで生きるクイーンがそう言うのだ。精霊と共に生きる。その感覚がエリュシオンの外では既に根付いていた。
カオスは感じる。今の心の穏やかさと、そして温かさを。歩み寄る彼らに、自分も目を向けるべきなのだ。きっと皆がみんな、同じ考えではない。それでも少しでも寄り添ってくれる存在がいる以上、この平穏を守りたい。それが今思える精一杯。けれど精霊の思いも蔑ろにしたくない。だから…
「オケアニスに会いたい。会って、彼女の気持ちを知りたい…!」