6-3 むかしのことを思い出す。大きな樹の下で子供が泣いていた時のことを。
『どうしたの?』
「あのね、いたいの」
『どこが?治してあげる』
聞くとその子はモジモジして俯いてしまう。
「あのね…おかあさんにおこられて…こころがいたいの」
私に心は治せない。癒やす手助けはできても最終的に治るかは本人次第だからだ。
『見て、花冠。きれいでしょ』
私たちには人の心の機微が読み取れないことがある。だけど寄り添うことはできる。彼らが花を見て癒されることを知っている。
『これは君にあげる。一緒にお母さんの分を作ってあげよ?それでごめんなさいって言うの』
「そしたらもうおこられない?」
『うーん…それは君のいい子次第かな』
子供は不安な表情で小さく頷いた。
それからどうなったかな?多分、親子は仲直りできたと思う。母の愛情はあの子に伝わっていたのかな?少なくとも子供の愛は母に届いたよ。
『元気にしてた?カオス』
目の前で繰り広げられていた記憶の映像は消え、今は暗くなにもない空間が私たちを包む。
「ドリュアデス…すまない…」
『君が謝ることはないよ。何一つ』
「でも私は君の遺跡を壊した」
『謝るべきは初代でしょ。まったく昔からすぐ暴力に頼るんだもん』
カオスはドリュアデスの力を再び手にする過程で遺跡を破壊した。『そんな悪いことをする子に手は貸せません』とも断れた。でも今の大陸の状況を知っているから無下に断れない。それに、謝るべきは遺跡を壊した張本人である初代なのだ。そのくせして初代は、いたずらをした犬が、犯人は自分じゃありませんよーといった風に知らんぷり。一方で生まれたばかりのカオスはしょぼくれている、叱られた子供のよう。カオスが今どんな状況に立たされているかはドリュアデスも把握している。経緯はどうであれ、目の前に佇む子が頑張って人に寄り添おうとする姿も知っている。その結果が良い方向にいかなくても、それはそれで仕方ない。けれどこの子の意思を蔑ろにして、過去の遺恨が表に立つのは良くないことだって分かる。
『私が初代の心を癒せたらよかったんだけど。ごめんね』
「違う。お前は何も悪くない…」
『優しいんだね。うん、分かってる。初代も悪くないってことも。あの子はあの子なりに自由を求めたんだもん。最終的にどうするかを決めるのは君だよ。君はどうしたい?』
「私は…私はもう一度ファイェンに会いたい…。この地に住むものを守りたい」
初めて見た縋るような青い瞳。嬉しいなんて思ったらいけないんだろうけど。ごめんね。
『うん。私ができるのはただ一つ。種を蒔いておくね。それが咲くかどうかは君次第。とは言っても君はすでに咲かす条件を持っているんだけどなー』
「?」
『これ以上言ったら今度は初代が可哀想だから言わないでおくね』
これが私のできる精一杯。子が苦悩して成長する姿を見るのも親の役目でしょ?なんて、親じゃないけどね。
◆
アレイスター騎士団が本格的に進軍を始めたという話がルール全土に広まると、国内のみならず大陸全土が緊張に包まれた。相手がアエルであろうと、ブルカンであろうと、始まってしまえば甚大な被害になることは予想がつく。行軍開始までの束の間、女王は兵士に余暇を与えた。
そんな余暇に、静かな空間で本の壁に囲まれてページを捲る魔女が一人。フィオラである。特別任務を与えられた彼女は軍隊と共に従軍する予定はないが、帰れる保証がないのは兵士たちと同じである。不老不死とはいえ首を斬られれば死ぬのだ。というわけで不老の人生でやり残したことをやり尽くしておこうという意気である。その中の一つが興味のある論文を読んでおくこと。死んでしまったら知識もクソもないのだが。そんなわけで彼女は王立図書館に保管されている論文を読み漁っていた。目下、読み進めているのが竜に関する論文である。
(竜は縄張り意識が強く、迷い込んだ獲物が縄張りを出るまで追いかけ回す。知能も高く、人間の顔を見分けるとも…)
長年生きてはいるが間近で竜を見たことは一度もない。竜は古き森と呼ばれるミルヴィエに生息している。遠巻きに森の上空を散歩しているのは見たことがあるが、遠目に見ても分かる巨体にわざわざ会いに行こうとは思わない。竜の出る伝説を楽しむだけで十分だ。
「それは…ユリヤさんの論文ですか?」
聞き覚えのある声に、フィオラはゆっくりと顔を上げる。どうも、とプルデオは笑顔で会釈する。
「そんな怖い顔しないでくださいよ」
「図書館で喋りかけないでよ」
「外に出ましょう」
あくまで会話をやめる気はないらしい。勝手に中庭に向かう彼の背中をそのまま見送ることもできたが、状況が状況だけに無視できなかった。外に出ると、手入れされた庭園の真上にご時世など全く気にも留めてくれない青空が広がっている。
「任務の話なんですが、エミリオくんはどう受け止めているんですかね」
「さあね」
フィオラは目を細める。この伯爵が他人のことを気にかけているのが意外だった。常であれば何か裏があると疑ってしまうが、背中がそうでないと物語っている。
「もしも本当に任務が現実のものになったら、あなたからもメンタルケアしてあげてくださいよ?私、そういうの苦手なんで」
「あたしも苦手なんですけど。そういうのはミシガン公爵の若い衆が得意でしょ」
「それはそうなんですけど、彼らも自分の持ち場についていらっしゃいますし、それに同じチームの我々が一番気にかけるべきだと思いますよ。頼れる大人としてもね」
「…あんた、自分のこと頼れる大人だと思ってんの?」
冷めた目で見る。冗談もほどほどにしてほしい。
「相変わらずひどい人ですね!」
と、プリプリ怒るプルデオに彼女は小さく笑った。
そしていよいよ進軍が開始する。ルールの陸軍本陣にて、カタリナは兵士達を前に剣を掲げる。王の瞳が兵士一人一人の顔を見る。士気に満ちた表情にカタリナの口角も上がる。
「敵はウィンダムポートを抜けた。いかなる敵であろうとも我々の力でこの大陸を守り通す。立ち上がれ!進め!いざ行かん、我らが同志よ!」
「「イエス、ユア マジェスティ!我が願いはルミナスのために!女神の加護とともに!」」
十万の拳が天を突き大地を震わした。進軍開始後、途中でエーレクトラオスの軍勢とも合流し、数十万の隊列はさらに北上を続ける。
クローリスとの国境に位置する草原には既にアイレスター騎士団が配備されていた。真っ青な空を背景に黒と赤の軍旗がはためく。昔から彼らは一番槍として戦場を駆け抜けてきた。竜のように苛烈に勇敢に。本陣では兵士たちが、獲物が飛び込んでくるのを今か今かと待ち構えている。一方、マルシア率いる数百の騎兵隊はクローリスの国境を越えた場所で待機していた。本来ならばそんなことをすればクローリスとの戦いになるが、今回はクローリスとの共同戦線である。クローリス軍と合流し、数千の軍勢で敵を迎え撃つ。敵の動きが分からない今、海路で攻められた場合を想定した上での配置だ。沿岸部は既にクローリスの海軍が護りを固めている。そこをくぐり抜けられた瞬間、彼らの戦いの火蓋が切って落とされるのである。
そして某日早朝。ついに開戦を知らせるラッパの音が響き渡る。初めに動きがあったのは国境のアレイスター騎士団である。ルール内部に身を潜めていたアエルの魔術師たちがゴーレムとともに押し寄せる。高度な魔法と魔術によって最初は騎士団が優勢であったが、それをも上回る魔術で押されつつあった。そして極めつけは遠方より飛来せし一閃の光である。光は突如アレイスター側に届いたかと思うと一瞬にして数百の兵士が消え去った。それがさらにアレイスターを劣勢に追い込む。
その光景を見ていたのはエリオット・モントレーだ。そして隣にはエンフォーサーの少年がいた。脱獄したエリオットは潜伏していた魔術師たちを密かに人気の少ない平原へと連れてきていた。エリュシオンへ向かおうとしていた彼らだったが、国境の防御を前にして通れずにいた。そうこうしている内に国内に潜んでいた他の隊が集まり国境を突破するというので、エリオットたちはそれを援護することになったのである。
エンフォーサーが描く魔法陣から放たれた一筋の光はまっすぐに空を切り裂き、戦場は灰燼と化す。一瞬の出来事は現実のものとは思えなく、エリオットはすぐに受け入れることができなかった。もしこれが現実なら…いや、現実なのだと受け入れるほど思考が停止していく。今更、エンフォーサーにやめろとも言えない。自分のしでかしたことに、その場に立っているのがやっとだった。今になっても覚悟を決められない自分が嫌になる。彼はチラリと背後に控える複数台の馬車に目をやる。エンフォーサー曰く、その馬車の中には『燃料』が積まれているのだという。その馬車からうめき声が聞こえてきた時、詮索するのをやめた。その『燃料』とやらが参戦しないのがせめてもの救いだった。とは言ってもこちらにはエンフォーサー以外にも十人に満たない魔術師がいる。彼らを止めることも、加勢することもできないエリオットはただ傍観することしかできなかった。
「ん?」
魔術師の一人が背後に迫る異変に気がつく。
「おい、あれ」
それに他の魔術師とエリオットも彼の視線の先を追う。何かが平原の中をものすごい勢いで来ている。明らかにこちら目掛けてやってきている。この場所を魔術で目隠ししているとはいえ、先ほど放っていた光の発生源から場所を突き止めたのだろう。
「あれは…」
馬に乗って先頭を切る人物に見覚えがあった。まさか、そんなと自分の目を疑うが何度見ても同じ人である。
「逃げろ!」
魔術師たちは一目散に乗ってきていた馬車に乗り込む。しかしそれでも向こうは執念で追ってくる。気を取られていたエリオットは馬車に乗り遅れ一人取り残されてしまった。こうなったら一か八か、どうにでもなれ。
「父上!」
「そこか!この馬鹿息子が!」
先頭を走る馬上の騎士アイザック・モントレーは抜き身の剣を思い切り振り下ろす。
死ぬ。それだけのことをしたのだから当然の最期だろう。むしろ最後まで自分を息子と呼んでくれた父に感謝すべきだ。
鈍い激痛が全身に響き渡る…しかし、感覚はいつまでも残ったままだった。苦痛に呻きながら瞼を開くと、目の前には激昂した父がいた。どうやら剣の樋の面で殴ったらしい。
「馬鹿者!貴様、自分が何をしたのか分かっているのか」
「は、い…」
「説教は後だ。それよりも今は敵を殲滅する。お前も来い」
「え、えぇ!?実戦したことない…」
「そんなもの今の時代、誰だって同じだ。剣の扱いの心得はあるだろう。私が直々に教えていたのだからな」
アイザックは問答無用で剣を渡す。
「なんて話している間に、我らが優秀な兵士達が屠ってくれたようだわい!さすがだ!」
先ほど逃げ出した魔術師達はすでに他の騎士たちによって殺されたようである。思いもよらぬ襲撃に対処できなかった魔術師達の落ち度と、圧倒的な機動力の結果である。
「ほれ、まだ生きている馬に乗れ。アイレスターに加勢するぞ。見ておれアイレスター!一つ貸しだ!」
オスカーはガハハと普段の優雅さのかけらもなく、しかし今までみた中で一番生き生きとした表情で笑い、再び戦場へと繰り出した。
◆
開戦寸前の頃。ルールを脱出したバスカドルたちは、海路でクローリスを目指している最中だった。あと半日あれば到着する予定である。しかし船上に到着直前の緊張感はなく、バスカドルはというと目の前の食事を見る。彼の前には、小ぶりなイノシシからちょうだいした肉がハーブとともに焼かれ、豪勢な晩餐のごとく並べられていた。彼を除く三人は黙々と肉にありついている。この状況にも疑問があるが、それ以上に一個言っておきたいことがある。
「なんで海上で肉?普通、海鮮だろ!」
「文句言うならいらないね」
「いらないとは一言も言ってない!」
メンバーの残りの一人である星詠のオズに目を向ける。彼はヒイロとエンフォーサーの少年と共に行動していた青年で、今までほとんど御者として二人をここまで連れてきた。彼は何も疑問を抱いていないらしく、肉を味わっている。むしろこの状況を受け入れていないこちらの方がおかしいのか?バスカドルも渋々、肉を頬張った。上手く調理されているおかげで獣臭さはない。なんで急に肉パーティー?という疑問は船を降りるまで拭えなかった。
一行は二日かけて海を渡り、クローリス海軍の目を掻い潜り、その地に降り立った。年中、花が咲き乱れる国として知られるクローリスは、ルールほどの軍事力はないが兵はいる。それにルールはあらかじめ各国に共同戦線の要請を出している。その脅威はエリュシオンまであと一日という距離で現れた。
「あれ!」
エンフォーサーが指差す方を見ると、数千人規模の軍勢が五キロ先に迫っていた。このまま行くと三十分もしないうちに接敵する。彼らの間についにこの時が来たか、という緊張感が走る。
「国境超えてるのに!もっとスピードでない?」
「魔術を使えば!ただ、馬が死ぬがな。まずはゴーレムでなんとかしろ!土塊でもいい!」
オズが叫ぶ。
「くそ!無に宿りし仮初の有 我が命に従え。とりあえず単騎かつ短期の命でいい。盾になれ!」
バスカドルが急いで術式を編むと、馬車と並走するように地面が盛り上がり、そこから一体の巨大な土の人形が生まれた。建物三階分の大きさのそれが軍勢の前に立ち塞がり行手を阻むが、動きが緩慢なせいで侵攻の勢いが弱まることはなく、一瞬で足元を回って再び迫り来る。終いには魔法で粉々に砕かれてしまった。
「ばか!大きいからすぐやられたじゃん!」
文句を垂れるのはエンフォーサーだ。
「うるせえ!だったらお前もやれ!」
「無に宿りし仮初の有 我が命に従え」
エンフォーサーが唱えると先ほどよりは小ぶりだが、新たにゴーレムが一体生まれた。バスカドルのゴーレムよりも俊敏に敵陣へと突っ込む。煽り返したつもりが本当に作ってしまった。
「は?見よう見まねでできるもんじゃねえぞ!」
「あはは!ボクってば天才かも。人形、やっちゃえ!蹴散らせ!」
そう叫ぶとゴーレムは大股で軍勢に近づき、巨木の腕を一振り。それだけで兵の半分が吹き飛ぶ。息を呑む小さな音にバスカドルはヒイロを見た。黒目が僅かだが見開かれ揺れる。目の前で起きている光景にショックを受けているようだ。しかし彼女は視線を外さない。バスカドルは静かに奥歯を噛み締める。
「おい、一騎がこっち目掛けて来てる!」
他の追随を許さない速度で、ランスを手に迫る騎士が一人。その他大勢の簡素な銀の鎧とは異なり、美しい模様が形どられ手入れされた様子から、その人が中隊の長であることがわかる。肩の武具に刻まれた竜の紋様が一行を捕食せんと睨みつける。
「あれは…」
ヒイロの全身に緊張が走る。騎士との距離がついに数十メートルまで迫ったその時。
「全員捕まれ。速度を上げる!」
そう言ってオズが魔術を編むと先ほどよりも格段とスピードが上がり、抜き去ると徐々に距離が開く。
「よし」
と思ったのも束の間、騎士は馬を旋回させ、最大速で迫る。
「嘘だろ!距離縮まってないか!」
「…まるで本物の竜ね」
「そんな呑気なこと言ってる場合か!」
「大海より広く 霊峰より高く
彼方より遠く
黄泉の門より来たれり 不帰の客
共に謳おう 祖の威厳 威光を
再びこの地に 我は歓迎する」
ヒイロが詠唱を終えると同時に騎士が手に持っていたランスを馬車の車輪めがけて投げつける。
「わあっ!」
そのまま外に投げ出され全身を強かに打ち付ける。
「っ…… 」
平原に横たわるバスカドルは一命は取り留めたものの、そのまま意識を手放し…
「!」
しかしそれは許されず、内側から強制的に起こされる。落ちそうになる意識が覚醒する。苦しいが声が出せない。
(エリーゼの仕業だ!)
自らに課された使命故に視線がヒイロに釘付けになる。一人で騎士に立ち向かう少女の背中が瞳に焼き付く。いや、その在り方はすでに少女ではない。ネクロマンサーの十八番である降霊術を駆使して、彼女の中には一人の武人がこの地に復活していた。
(この中で一番体力ないやつが出しゃばるんじゃねえよ…)
「そなた、手練れと見た。我は既に名を捨てたモノではあるが、奮い立つ魂の熱こそ我が名である。剣を交える者として名を問う」
「私はマルシア・アイレスター。力こそ絶対であると、貴公に竜騎士の名を刻もう!」
どちらからとも無く剣を手に取り、白刃の軌跡が交差する。ヒイロに至っては本物の剣ではなく、魔術で編み出したものだ。身体強化の魔術も同時で展開しているのか、普段の彼女からは考えられない素早さと力強さがある。集中力も試されるこの状況。できることなら早く決着をつけたい。
「ははは!」
ヒイロに憑依した魂は戦いが好きだったのだろうか。この状況を楽しんでいるようだ。騎士の振るう剣を軽々とかわす。その身のこなしの速さに気圧されてか、騎士は一度距離を取った。馬上からの攻撃は小回りが利きにくく不利と見たのだろう。
「馬を降りるか。うむ、それでこそ我の望む戦いである」
青空の下、青々とした平原に剣と剣のぶつかり合う音が響く。その不釣り合いな光景をバスカドルは固唾を飲んで見ていることしかできない。
お互いの切先が顔面スレスレを掠める。この状況、全身を甲冑でかためている騎士の方が防御面で有利だ。加えて向こうはその重さを感じさせないスピードで剣術を繰り出す。一方でヒイロはすでに少なくとも二つの魔術を発動している。これ以上、魔術による強化は負荷が大きすぎてできない。
「良い、良いぞ。この緊張感こそ心が震え上がる。もっと、もっとだ」
ヒイロ、いや最早名も無き兵と化した少女は先ほどよりも素早い攻めで騎士を追い詰めていく。しかしそれが仇となった。器となる体が追いつかない。突如ガクンとその場に膝をつく。小刻みに全身が震えている。
(無茶しすぎだ…!)
もちろんその隙を相手が逃すはずもない。首を落とそうと剣が上がる。バスカドルも反射的に目を逸らす。ダメだ。目を逸らしてはいけない。見届けなければ。
「…」
緑の大地が赤く染まる。
「…ここで……」
銀の甲冑に赤い筋が流れる。
「終われない…」
少女が握る刃が甲冑を貫いていた。
騎士の手からこぼれ落ちた剣が、鈍い音を立てて落ちる。
終わった。終わった…バスカドルの安堵が、ヒイロにも伝播したのか、極度の疲労も加わってか、彼女も肩の力を抜いた。
「ん…」
ヒイロが小さく呻く。
「ヒイロ」
彼女の胸を黒い何かが貫く。それはちょうど心臓の辺り。黒いそれはすぐに靄と化して霧散した。消えたというよりは、ヒイロの中に吸い込まれたという表現が正しい。刺された箇所からは血が一滴も垂れていなかった。
ふ、と漏れ出る笑い声はどちらのものだったのだろうか。騎士は自身を貫いていた刃を引き抜くと、それを天高く掲げた。それは死を早める行為であることを彼女も分かっているはずだ。先ほどより早い速度で赤が大地を染めていく。それでもそこに立つのは確かに勝者であるとバスカドルは思い知る。
視線の先、ヒイロは苦悶の色をにじませながらバスカドルに一歩ずつゆっくりと歩み寄る。騎士もそれを追うことはない。おそらくそこまでの体力は残っていないのだろう。
気絶しきれなかったバスカドルに気がついたヒイロは、ふんと鼻で笑う。なんてことないように。
「なん、だ。あんた…起きてんじゃん」
「ヒイロ!大丈夫なのか」
「くち、動かせるんだったら急ぐわよ。はや、く」
「…あ、ああ……クソ…なんなんだよ」
前線を切り抜けた一行は再びエリュシオンへ向かうのであった。
◆
ひとときの休暇を与えられる直前、エミリオはカタリナの執務室に呼び出された。エミリオだけではない。フィオラとプルデオも一緒だ。三人は密かに目線を合わせる。その空気を察知したカタリナは、力を抜くよう言った。
「何事かと思っているかもしれないが、君たちに特別にお願いしたいことがあるんだ。今、アイレスター騎士団が国境に配備されていることを知っているだろう。彼らが相手の動きを止める。しかしもしそれが失敗に終わったら…その予備案に君たちの力が必要だと言っていたんだ」
「…」
「誰がって?シエラ公爵だよ。あまりこういうお願いはしたくないんだけれど」
彼女は作戦を話すのを少し躊躇っているようだ。三人は無言で彼女が話し出すのを待つ。観念した彼女は一つ小さく息を吐く。
「…この計画で彼女は敵方に絶対に解けない魔術をかけると言っていた。ただし、解けない代償として彼女は死ぬ。しかし敵の動向を追えるようになる。エミリオ・エーデルワイス、君にその行方を追って欲しいと彼女直々のご指名だ。他二人はそのサポートをしろ」
エミリオはぐっと唇を噛む。
「すぐに受け入れられない話なのは分かっている。しかし必ずしも起こる未来とも限らない。起こらないのが一番だとも」
「一番確実な方法のためなら捨て身も受け入れるとは、まさにアレイスターの思考ですね」
プルデオの言葉にエミリオは、ああ…と納得がいく。カタリナも言いたくてこんなことを自分たちに伝えているわけがないのだ。でも、それでも…やはり頭の片隅で、もっと良い方法があるんじゃないかとわだかまりが残っているのも事実だった。
特命を受けた後、エミリオはエーデルワイスの屋敷へと戻る。オスカーとともに馬車に揺られる間、沈黙が続いた。沈黙を破ったのはオスカーだった。馬車から降りる時、彼はエミリオを見て言った。
「エミリオ、今から時間はあるかい?」
「?はい」
彼の後をついて廊下を歩く。それは自室へと繋がる歩きなれた廊下。何事だろう。特命の件で今日はすでに精神的に疲れている。できればすぐに休みたい。オスカーに着いて行った先はエミリオの部屋だった。オスカーは扉を開け、部屋に入るように促す。言われた通り、室内に入ると床に本が積まれていた。
「これは…?」と聞くと、読んでみるよう促される。近くにあった一冊を手に取りパラパラ捲ると文字が書き込まれている。それは見覚えのある字で。何度も何度も報告書に書き込まれた赤い字と同じ書体は、今となっては安心感がある。贈り主が分かった彼は、贈られた本が全て魔法や魔術に関するものだと気がつく。
「彼女はいずれそれらを君にあげるつもりだったらしい。このタイミングが一番良いと思ってね…」
「どうして…ううん、理由は分かります」
彼女はいつだって自分を大切にしてくれていたのだ。だからこそお礼を言わせて欲しかった。でもそれをオスカーに言ってももうどうしようもできない。本当にずるい人だと思う。自分の伝えたいことだけ伝えて、こちらの言葉は聞かずにどこかへ行ってしまう。かつてクレロが言っていた事を思い出す。
『君が思うほど彼女も強くないさ。あの人も人間だもの』
どうしてもっと早く気がつけなかったんだろう。溢れ出るのは後悔の想いばかり。
でも…それでも…
陸軍の進行に合わせて、エミリオも本陣からそう遠くないミシガン家の屯所で待機していた。だから戦況も逐一入ってくる。接敵したことも、押されていることも。それでもすでに心の準備はできている。
「エミリオ!任務行くよ!」
連絡を受け取ったフィオラの声が部屋に響く。煉瓦造りの質素で小さな部屋に。その言葉が意味していることはもう分かっている。大丈夫。
「エミリオくん」
プルデオの言葉に頷く。
辛くないとは言わない。それでも今は我慢する。あの人ほど強くはなれないけど、少しでも前に進むために。
その一歩を踏み出す。
進めるんだ。だって愛してくれてたって、信じてくれてるっていうことに気がつけたから。
「行きましょう。エリュシオンへ!」