6-2 ルール南部の港町ウィンダムポートの近くの森の近くに馬車が二台停まっていた。時折、近くを通る者もいるが誰もその存在に気がつくことはない。それでもバレるのではないかと、バスカドルはヒヤヒヤしていた。ふう、とため息を一つつく彼にヒイロは呆れた視線を送る。
「魔術で隠してるから大丈夫って言ってるよね」
「怖いもんは怖いんだよ」
「自分の魔術の腕を信じてないのね」
「そういうわけじゃない!それよりこれからどうするんだ。カオスが単独行動し始めたおかけで当初の計画はパーだ」
当初、ヒイロ一行は王墓で初代ルールの魂の残滓を回収した後、仲間のいるブルカンを経由し、東のシェンネー側からエリュシオンを目指す予定だった。しかしカオスが単独行動を始め急速に北上しているという一報で、彼らはブルカンを経由するのを断念。今はルール辺境の森に身を潜めている。彼らも例に漏れずアルケミスト、ネクロマンサー、エンフォーサー、エクソシスト、星詠の五人で構成されている。そこに先日合流したアルケミストのバスカドルを加え、今は計六人だ。
ヒイロは馬車の荷台に地図を広げる。
「カオスが単独行動を始めたのがルールのこの辺り。位置からして遺跡があるところ。で、アレクストにも来ていた。となるとエーレクトラオスの遺跡は既に攻略済みと考えるのが無難。そこから西回り。そうなるとクローリス、アイオロス、ブルカン、ミルヴィエの順で進むはず」
「あれは僕たちの匂いを本能で嗅ぎ分けてる。知覚範囲に入れば戦闘にならないとも限らない」
そう言うのはエンフォーサーの少年だ。
「カオスに会わずにエリュシオンに向かう方法は二つだ。一つはルールとクローリスの国境を越える。それにはルールの軍隊との戦闘は避けられない。もう一つは海路でクローリスに密航して横断。密航する分、正規の安全な海路は使えない。それに国一つ横断するとなると時間がかかる」
「後者がいい。ルールはブルカンとの軋轢があるからエリュシオンには迂闊に手を出せない。ルールが私たちの行動が読めない今、向こうは戦況を傍観することしかできないはず」
彼女の意見には他の面々も同意した。
「じゃあ、早速…」
「待って」とヒイロは言葉を遮る。
「その前に会いたい人がいる」
時を同じくして、囚われの身であるユーチェンはもう一台の馬車で放心していた。拘束を解かれ、食事も出してくれるとはいえ、行動を制限されているのは精神的にダメージが大きい。ヒイロは解放してくれるような口ぶりだったが、それがいつかも、そもそも本当かも分からない。娘の安否も分からない今、心の拠り所がなかった。しかしユーチェンは心の片隅でヒイロに信頼を寄せていた。信頼というよりも同情に近いかもしれないが。
初めて出会った時、彼女はとある条件を持ちかけてきた。
「これから言うのは取引。あんたに私達のすることを教える。だから教えてほしい」
暗い馬車の中、彼女の瞳がユーチェンをまっすぐと見据える。
「娘との思い出を話して欲しい」
それだけだった。相手方になんのメリットもない取引に、初めは聞き間違いかと耳を疑った。
「えっと…もう一度言ってもらってもいいかい?」
「あなたの子供との思い出が聞きたい。それ以外は何も望まない」
こちらの機密を漏らすわけでもない。それくらいなら問題ない、とユーチェンは了承した。それからヒイロが食事を運んでくる度に、ファイェンとの思い出話を語った。初めは、拭えぬ不信感故に表面的な部分しか話さなかった。遊びで大人気なく勝ってファイエンに泣いて怒られたこと、いつも勉強しなさいと言いつけること。そんな面白くもなんともない話に彼女は真摯に耳を傾けて「いいね、楽しそう」と呟くのだった。真っ黒な瞳がどんな感情を抱いているのか掴めない。けれど話している時、彼女の華奢な身体が余計小さく見えて、おそらく何か心に抱えていることだけは分かった。だからある日、意を決して聞いてみたのである。
「君の話も聞かせてよ」
しかし彼女はすぐには、うんとは言わなかった。少し考えて口を開いた。
「面白い話なんてない」
「別に面白さを期待してるわけじゃないよ。ただ君の思い出も聞きたいんだ」
「…」
黙ってしまった。困っているようだった。
「無理に聞こうとしてごめんね」
彼女は首を横に振り、一呼吸置いて口を開く。
「お父さんとの思い出はない。だから何も話せない。あ、別に死んでるとかそういうのじゃないから。だからそんな顔しないで」
「ごめん」
「敵に同情するなんて変な人。謝らないで。私は謝っても許されないことをしてるから」
彼女の言う通りだ。こちらは不条理にも家族を殺されている。気まずくなった雰囲気に彼女は馬車を出ていった。それでもその日以降も彼女は毎日馬車を訪れた。そのたびにユーチェンは思い出を話した。初めは彼女の取引に応じるため。しかし日に日に彼は心を開き始めていた。
「毎年アリエスの月に感謝祭が開かれるんだけどね、いつも家族揃って近くの街のお祭りに参加してるんだ」
「なんの感謝祭なの?」
「春の訪れを祝うお祭りだよ。そこら中、花で飾り付けられてね。お祭りの時はファイエンもいつもと違うワンピースを着るんだ」
「ふーん」
素っ気ない返事だが今となっては彼女がちゃんと話を聞いてくれているのだと理解している。
彼女とだけ会話をする日が続く中、ある日、ご飯時を過ぎた夜に突然、幌布が開かれた。入ってきたのは少年だった。この子は苦手だ。無邪気な顔をして危害を加えてくる。時間帯からしてヒイロの目を盗んで来たのだろう。
「随分と仲がいいみたいじゃん。ヒイロは本当に君を逃がそうと思ってるみたいだけどさ、ボクとしては確実な方法を取りたいんだよね」
ゆっくりと近づいてくる。暗くて顔がよく見えない。狭い荷台だが出来る限り距離を取ろうと、自然と体が荷台の隅に寄る。逃げ場なんてないのに。
「エリュシオンの開門にはカオスの呪いを受け継ぐ君の血が必要なんだ。本当は生き血がいいんだけど、多少鮮度が落ちても逃げらるよりはマシだよね…」
彼の話から推測するに、少年はエリュシオンを確実に開門するためにユーチェンを犠牲にする。一方で、ヒイロはユーチェンは殺さず他の方法を取るつもりで、双方の意見がぶつかり合っていると見た。少年はスルリと手に持っていた短剣を鞘から抜き、素早い動きでユーチェンに襲いかかる。筋力が落ち、ろくに身動きのとれない体勢からわずかに横にずれる。ギリギリのところでかわしたが、首があった位置に短剣が刺さっていた。本気だ。横にずれた勢いでほとんど横たわる姿勢になってしまった。次は確実に仕留められる。
「あの女、誰も殺したくないって言ってるけど、これは戦いだ。侵略の方が正しいのかな。あはは、まあいいや。戦いってお互いの主張のぶつけ合いでしょ。誰かが傷つくのは必然だよね」
少年は短剣を引き抜く。
「君、夢はある?ボクはあるよ。ボクの夢は僕の夢を叶えてやること。そのためにボクたちは作られたんだもん。それがボクたちの存在意義」
彼はもう一度、短剣を振り上げる。転がればせめて急所は外れるか。振り下ろされる腕に反射的に目を瞑ってしまった。が、いつまでも痛みはやってこない。恐る恐る目を開けると、誰かが少年の腕を掴んでいた。その正体は一人しかいない。
「何やってんの」
ヒイロらしからぬ低い声だ。少年の影で彼女の表情も見えない。
「ボクはお前のやり方には反対なんだよ。なまっちょろい。誰も殺さない?そんなの無理だ。たとえお前が誰も殺さなかったとしても、お前は死んだら魔界行き。なんでそんなにこだわる」
「あんたには関係ない」
「言えよ」
「そんなこと言ってる時点であんたには一生わからないことよ」
「あ、もしかして死んだ母親?ネクロマンサーが死者に執着するもんじゃない。それにお前が一番執着しちゃいけないだろ。この母親殺しが」
その瞬間、ヒイロは少年を壁に押し付け、少年の細い首を片手で締める。そしてもう一方の手で短剣を取り上げ、少年の肩口に刺し立てた。少年は痛みに呻くが、ヒイロは容赦なく肩を揺らす。彼女を中心にして寒気が広がる。彼女に初めて出会った時と同じ感覚にユーチェンは身を震わせる。
「どこで知った。覚えてろ。お前ごと魔界に引きずり落としてやる」
先ほどの数倍も低い声音で吐き捨てると、少年から手を離した。解放された彼は数回咳き込むと、恨めしげにヒイロを睨み立ち去っていった。無言のままヒイロはユーチェンを起こす。
「えっと…」
「明日、会わせたい人がいる」
「…ありがとう」
「その前に私たちがしようとしていることを教えないとね」
彼女はユーチェンの前に座ると、これから起きることを話し始めた。
パンゲア大陸、もっと正しく言えば精霊の樹シンフォドリアを外敵から守るための防衛機構が、初代ルールと悪魔ルミナスの契約によって今も維持されていること。悪魔を殺すことを本能としている五冠席が一人サラマンダーが、ルミナスを排除しようとしていること、同時に五冠席の最後の一席アイテールを探していることを説明した。
「その防衛機構がなくなるとアエル以外の国もパンゲアに侵攻しようとする。精霊はパンゲア大陸にしかいないからね。その希少さゆえに新たな戦いが始まる。アエルも戦禍に巻き込まれる」
「それが分かっていながらどうして」
「サラマンダーの本能だから。私たちが止めたとしても、彼女たちは決行する。彼らは人間じゃないから、私たち人間の思考では推し量れない部分がある。それにアエルの権力者にとって戦いは小さなこと。精霊を手に入れることのほうが大事なの。私たちはルールの魂の在処である聖剣を擬似的に生成、サラマンダーがそれを使って契約を解除。同時にルミナスを葬るつもり」
「あまりにも勝手すぎる」
「戦いはいつだって勝手。戦いを始めた側の主張を押し通すがための、もっとも野蛮な手法。エンフォーサーの言うこともわかる。でも私は少しでも人であるために誰も殺したくない…」
そう言い残して彼女は外に出ていってしまった。足音が去ってもしばらくはぼーっとしていた。やがてユーチェンは幌布の隙間から外を見る。目の前には森が広がっていた。どこの森だろうか。夜の冴えた新鮮な空気を肺に吸い込む。夜空には月と星が輝いていた。逃げるには絶好のチャンスだ。だが、彼女の言う通りそこまでの体力はなかったし、もし逃げるだけの余力があったとしても今の状況ではおそらく逃げなかっただろう。それはヒイロの誠意を裏切ることになる。彼女がユーチェンを解放するというのは本心だろうから。
翌日。朝ごはんを済ませた後、ヒイロは外を指差す。
「出ていいよ」
初めて見る優しい顔で言う。ゆっくりと外に出ると、ヒイロの他に男性が一人。確かバスカドルといっただろうか。途中で合流したのだが、ユーチェン自身は全く絡みがない。ちらりと見ると向こうも視線に気がついたようで、気まずそうに会釈した。周囲を見回すと、今降りた馬車の他にもう一台。二台の馬車は隠れるように森の片隅に停まっていた。捕まってからどれくらい経ったのか。食事を摂っていたとはいえ、ほとんど動くこともなくジッとしていたせいで筋肉はすっかり落ちてしまった。ふらつく身体にムチ打って彼はヒイロのそばに座り込む。
「あと十分くらい待って」
言われたとおりに待っている間、空を見あげていた。眩しいくらいの青空の中、白い雲が流れる。そんな日常的な光景を目の前にして、自分の置かれている状況が夢のようだ。早く覚めて欲しい悪夢だが。
「来た」
指された前方に目をやる。一台の馬車が近づいていた。御者は知っている顔だ。何よりも彼女の隣に座る少女は言うまでもなく。幻覚でも見ているのかと、目をこらす。少女が手を振る。
「お父さん!」
忘れることのない声。ずっと会いたかった大事な人。
馬車が停まると同時に少女は飛び降り、全速力で駆け出す。
「ファイェン!」
ユーチェンも同時に走り出した。足が日向へと踏み出す。敵前であることも忘れ、飛び込む小さな身体をしっかりと抱きしめる。
「お父さん!お父さん!」
精一杯の力で抱きしめられる。苦しいくらいの力が夢じゃないのだと教えてくれる。本当に会えたんだと、その存在を確かめるように抱きしめあう。安心からかファイェンはユーチェンの腕の中で声を上げて泣いていた。
「よかった…よかった」
ユーチェンも押し殺して涙を流した。再会を喜び合い、ユーチェンはヒイロを振り返る。木陰の中で彼女は無言で見つめ返す。
「ヒイロさん、約束を守ってくれてありがとう。それとお節介かもしれないけど…一度お父さんに本音をぶつけてみたらどうかな」
その言葉に彼女は静かに、ゆっくりと瞬きをする。そして無言のままゆっくりと踵を返し去っていた。彼女たちの馬車が出発し、見えなくなったのを確認するとフラリとユーチェンの体が傾いた。
「お父さん!どうしたの!」
「あはは、安心したら力が抜けちゃった」
座り込んだまま見上げる。視界には心配そうに覗き込むファイエンと、後ろにはどこまでも続く青空が広がっている。
「ああ…本当に良かった」
自然と言葉が溢れると共に、彼は眩しそうに目を細めた。
◆
ユーチェンと合流したファイエン一行は、今夜はその場から動かずこれまでの状況を共有した。アエルの魔術師の目的、カオスの現状を一気に説明する。
「カオスさんがそんなことになっていたなんて」
クイーンの薬膳茶と栄養価満点の(味は微妙な)携行食を食べて、少し元気を取り戻したユーチェンが眉をしかめる。
「つまり今の脅威はアエルの魔術師とカオスになったってわけ」
「でね、お父さん。わたし、カオスを助けに行きたいの」
「そうは言っても危険だよ」
娘の言いたいことは分かるが、親としてそれを良しとするかはまた別の話だ。しかしファイエンもただでは引き下がらない。
「だって約束したの!カオスが昔の意識を取り戻したらわたしがそばにいてあげるって。だから行かないと。今、カオスは一人なんだよ」
そう言われても、おつかいに行くようなのとは訳が違う。自分がついていくと言うのなら少しは考えたかもしれないが、今の体力を考慮するとついていくのは難しい。いや、自分も行くとなってもファイエンは安全な場所にいさせるだろう。
「やっぱり…」
「ユーチェン。ファイエンは成長したのよ」
クイーンが言葉を遮る。
「あなたが捕まってる間、この子は色々な世界を見た。辛い光景も見た。カオスと一緒に。ファイエンにとってカオスは一緒に旅をした大事な仲間なの。先の見えない暗闇に放り込まれる怖さはあなたも身をもって体験したでしょ。カオスも同じ状況に陥ってる。自分で仲間を助けたいと思うのは自然なことでしょ」
「…」
「それに私たちもいるから!大陸一の魔法使いと最強の星詠。保護者としては文句なしだと思うわよ」
「…一晩考えさせて欲しい」
その言葉にクイーンとファイエンは顔を見合わせ頷いた。
翌朝。夜明けと共に目覚め、朝食を済ませた一行は、ユーチェンの回答を固唾を飲んで待つ。彼は腕を組み難しい表情をしていたが、しばらくして「よし」と膝を打った。
「ファイエン。行ってきなさい」
「いいの!?」
「ただし」と彼は言葉を区切る。
「危ないと感じたら引き返すように。自分の身は自分で守る。分かったね」
「うん!ありがとう、お父さん!」
喜ぶ彼女に微笑んだ彼だったが、すぐにエリーゼに向く。昨日、御者をしていたから彼女も一緒に旅をしていることは知っていた。ミシャラで襲撃される直前、敵が迫っていることをユーチェンたちに知らせたのも彼女だ。つまり彼女がアエルの魔術師であることはユーチェンも元々知っている。
「私のことを信じられないという目ですね」
「それはそうだろう。昨日、君たちと合流できたのは、君がヒイロさんと連絡を取り合ったからじゃないか?」
「ご推察の通りです。ですが、それも昨日まで。今まで使っていたパスはお互い廃棄しました。だからもう連絡は取り合えません。疑いたければお好きにどうぞ」
「…君も人が変わったな。それが本来の性格なのか?今の君のほうが話しやすいね」
エリーゼはなぜかびっくりした顔をした。
「そういうわけでクイーンさん、エリーゼ。娘をよろしくお願いします」
「まっかせなさい!ここにルール兵を寄越すから、あなたはそれで安全圏に戻りなさい」
近くの駐屯地から兵士が到着したのは一時間後。ユーチェンと別れる間際、ファイエンが駆け寄る。
「お父さん、帰ったら一緒にお母さんのところに行こう。それから一緒にお参りもしようね」
「…うん」
二人はぎゅっと抱きしめ合う。そして三人は彼の背が見えなくなるまで見送っていた。
「さて」
クイーンがひとつ気合いを入れる。
「うん、じゃあ行こう!」
先陣を切るのはもちろんファイエンだ。
「カオスが待ってる!」