来栖暁に育てられたあけちごろうくんの話そう言われて暁さんと一緒に向かったのは、何の変哲もない賃貸マンションだった。
先導する暁さんがポケットから取り出した鍵を差し、扉を開けて中に入る。
ベッドや机、冷蔵庫、調理器具、洗濯機など。人間が生活するために必要最低限の家具は全て揃っている1LDKの間取りの部屋。
しかし、そこに誰かが生活している気配はなかった。
「ここ、誰かの部屋?」
「ああ。今日から吾郎が住む部屋だ」
「…え?」
あまりにも当たり前のように言うから、聞き流しそうになった。
「どういうこと?引っ越すの?それにしては…」
狭すぎる。
初めて会った日、彼は僕が自分と同じくらいの高さまで背が伸びると言っていた。実際に今の身長は暁さんと大差ない。そんな180cm間近の男二人が暮らす部屋にしてはこの間取はあまりにも無理がある。
まあ引越しにはなるかな。住むのは吾郎一人だけど
は…?
銀行口座は作っておいた。お金だけは残してもらえるようにしてもらったから、余程金遣いが荒くなければ生活に困ることはないと思う。まあ吾郎はそんな子じゃないから大丈夫か
ちょっと…何言って…
着替えと、それから部屋にあった本とか小物はここに入れてある。安心しろ、お母さんの写真もここにあるから
ドスンとずっと持っていたボストンバッグを床に置く。
チャックを開けば、確かに私服や部屋着などが詰め込まれている。
ねえ…待ってよ…!
暮らすのに必要なものは一通り揃えたつもりだけど、足りないもは暮らしていく上で出てくると思う。その時は悪いけど自分で買いに行ってくれ
ねぇってば!何言ってるんだよさっきから!!
暁さんの肩を掴んで揺さぶった。
さっきからこの人が何を言い出しているのか分からない。
この戸惑いは表情にも出ていたと思う。それを見据えてなお、暁さんは苦笑して
俺、もうお前と一緒に暮らせないんだ
な───
そう言った。
その表情は寂しそうで、でももうどうしようもないという諦めがあった。
なんで……
なんでって言うか……元からそういう話だったってだけだよ。だから、俺は今日をもってお前の保護者じゃなくなる。俺の代わりになる保護者の人がこの部屋の契約をしてくれてる。大丈夫。信頼できる人だから、安心してほしい
『名前と連絡先はここな』と言われながら渡された紙に書いてある名前は、全く知らない人だった。
久しく忘れていたやり取り。親戚間をたらい回されていた頃、『明日からはこの家に行け』と言われた時に、同じように住所と名前と電話番号が書かれた紙を渡された。
………………………………
最近外出する事が多かったなとは思っていた。
帰って来るのが遅い日もあったし、外で食べてくると言って来る日もあった。仕事関係の何かなんだろうとずっと思っていた。
あの時の時間が全てこの部屋を用意するためのものなのだとしたら、それは──────
…暁さんも、僕を捨てるの?
っ!
出ていけって言わないって、見捨てないって言ったのに。結局、今までの親戚みたいに、僕を追い出すの?
貰った紙を握り潰す。
子供みたいに駄々をこねている自覚はあった。
目の前にいる恩人を、父同然だった人を困らせている自覚もあった。
あの時言ってくれた言葉は…全部嘘だったの?
でも、止められなかった。
今までの思い出が全て今日のこの日のための嘘で。
ずっと裏切られ続けていたとは思いたくなかったから。
違う…そうじゃない
じゃあなんで────、っ!
大きな身体に抱きつかれる。
これまで何度も、こうして優しく抱き寄せられた。
大きかったはずの身体の中には、もう育ちすぎてしまった自分の身体は収まらない。
吾郎を見捨てるわけじゃないし、あの日言ったことは嘘じゃない。……でも、もうこれは決まったことなんだ。『俺』は本来この世界に居ちゃいけない存在で、この世界には元々生きてる俺が居る。これ以上、同じ世界に同じ人間が共存してはいけないんだ
……何、言って……
お前を救いたかった。本当はお母さんまで救ってあげたかったけど流石にそこまではできなかったから。ならいっそクソッタレな親戚なんかより俺が親代わりになってとことん愛してやれば、お前の心は歪まずに済んで、復讐の道を選ばない未来に導けるかもしれないと思って。そうできるように無理言って連れて来てもらって、色々手伝ってもらった。でも、流石にそんな大規模なことタダでやらせてもらえるわけもなくてさ、片道切符なんだ。だから、『俺』はここで消える。それが、こんな無茶を許された代償だから
日本語で話しているのかを疑いたくなるくらい、何一つ言っていることが分からない。
遡るという話も、連れて来てもらったという話も、片道切符なんて話も、消えるという話も。単語としては理解できるのに。
そっと、身体が離れて顔を合わせる。こちらを真っ直ぐ見つめる顔は、とても満足気に微笑んでいる。
悔いはない。やり切った、という様子で。
…消えるって、言葉通りの意味なの?
ああ。あの扉をくぐったら消える。そうしたら、俺が居ない世界で、けど心はそのままのお前だけが残る
そう言って視線で示した先には、青白く光る扉があった。
玄関の扉と同じ位置にあるけれど、それは外に通じる先ほど開けた扉ではない。
…っ…
非現実的すぎて、理解が追いつかない。しかし目の前で消えようとしている暁さんは間違いなく現実だ。
この人は消えることを承知で僕のもとに来た。
赤の他人である僕に、自身の命をかけて。『救いたい』という、それだけのために。
そんなの馬鹿げてる…!なんで……僕なんかのために、そこまで…!
お前は、『なんか』じゃない。俺の大切な、ライバルで、友人だから
え…
お前に、生まれることを望まれなかった子供じゃないってことを知ってほしかったんだ。少なくとも、俺にとっては大切で、特別な奴だったから。だからここまで来れた
……?
それは僕のことを指しているはずなのに自分のことではないように聞こえた。でも、完全に別人の話をされているとは思えなかった。
伸びて来た両手が、頬に触れる。温かくて、大きな手。
……前も言ったけど、俺は信じてる。今のお前なら、きっと別の道を選べる。…『アイツ』の誘いにも打ち勝てるって
アイツ……?
ああ。きっとその意味は近いうちに分かる。もし打ち勝つことができたなら、その時は俺のことを救ってやってほしい。仲間との絆と思い出を全て捨ててきた『俺』みたいにならないように。そうすれば、『俺』も俺も、本当の意味でお前を救えたことになるからさ
暁さんの顔が近付いて、少しだけ上に逸れた。
同時に額に柔らかい感触がして、何をされたのか理解するより前に離れる。
この数年間がお前にとって良いものになれたのか。『俺』がお前にとってどういう存在になれたかは分からないけど……少しでも幸せだったと思えてくれてたなら、嬉しいな
頬に触れた手が離れて。そのまま青い扉の方へと歩いていく。
待って…ねえ…!
行かせたらダメだ。止めないと。
じゃないと、きっと、永遠に会えなくなる。
暁さ――、っ!
足を踏み出して、追いつこうと前に傾こうとする身体を何かが止めた。見下ろせば、見知らぬ銀髪の少女が小さい身体でしがみ付いている。今にも泣きそうな顔で、金色の大きな目を揺らしながら黙って首を横に振った。
暁さんの手は既に扉のドアノブを捻って、扉を開けていた。開いた扉の間から覗く向こうの景色は光っているだけで何もない。
再び振り向いた暁さんは、僕を止める少女を見て小さく微笑んだ。
ありがとう。…後のこと、頼んだ
…っ
少女が息が息を飲む声が聞こえる。
そして少女に向けていた視線をこちらに向けて、暁さんはニコリと笑う。
今まで、楽しかったよ。ばいばい──『明智』
待っ───!
そうして暁さんは再び背を向けて、扉の向こうへと消えていった。
開いていた扉はゆっくりと閉まって、そこには青くない、普通の玄関の扉だけが残った。少女の姿も扉が消えると同時に消えた。
────────────
元からその場に自分一人しか居なかったかのように静まり返った部屋の中で立ち尽くす。
最後の最後まで何一つ理解できなかった。夢でも見ていたのかもしれないと思うくらいには。
……でも、夢ではないのだろう。目の前で消えた暁さんは、きっと本当に消えたのだ。
──そんなの、受け入れてたまるか。
……っ!
すぐに、飛び出るように部屋を出る。
目指したのは、今朝まで寝泊まりしていた二人で暮らしていた住み慣れたマンションだった。
本当なら、暁さんと一緒に帰るべき家。その部屋の前まで辿り着いて、すぐに違和感が走った。
「え…」
毎日見ていた『来栖』と書かれたネームプレートが無くなっていた。それに、キーケースに取り付けていたこの家の鍵も無くなっている。
インターホンを押してみても、誰かが、暁さんが扉を開けることはない。
一階のフロントに行って、管理人のもとを訪ねる。
顔を合わせれば挨拶する程度の関わりしかなかったけれど、顔はお互いに覚えているはずなのに。
「何か?」
その態度は、まるで初めて会う人間と接する態度のそれだった。
「…っ。すいません、〇〇号室の鍵を紛失してしまって…」
〇〇号室…?その部屋なら、ずっと空き部屋ですけど…
は…?
愕然とする。
あの部屋がずっと空き部屋だったなら、僕は今までどこで暮らしていたというのか。
空き部屋って……どれくらい……?
さあ…。結構長いこと居ませんでしたよ?……ああ、でも今度やっと入居者が入るんです。若い男性だったかな?
…………それって来栖って名前だったり、しませんか?
いや、違います。……ごめんなさい、別のマンションと間違えてませんか…?
……………………
言いながら怪訝そうに見上げる管理人。嘘をついているようには見えないし、やはり僕のことなど知らないような様子だった。
恐らく食い下がっても話は平行線で終わることはすぐに分かった。適当に誤魔化してマンションを後にする。
途方に暮れているとスマートフォンが鳴った。
跳ねるように手に取って画面を見る。もしかしたら暁さんが───そう思ったけれど、表示されているのは『鈴木』の文字だった。
通話のボタンをタップして、耳に当てると卒業式以来の懐かしい声が元気そうにはしゃいでいた。
……丁度いい。彼も暁さんのことは知っているから、聞いてみよう。
ねえ。僕って今まで、誰と暮らしてた?
はぁ?中学三年間学年一位独占男が何今更ボケてんだよ
いいから!答えて!!
…誰とってそりゃ…
鈴木の口から出てきた人間の名前は、聞き覚えのない人の名前だった。
聞き覚えはないけど知っている。先ほど握り潰した紙に書いてあった名前と同じ名前だ。
母さん亡くしてからずっとひでー親戚の家を転々としてたけど、小二の時に優しい叔母さんの家に移って、そこからは一緒に暮らしてたって言ってたじゃんか
……………………
それから鈴木と交わした通話の内容は覚えていない。
恐る恐るしわくちゃになった紙に書かれた番号に電話をかけてみれば、嬉しそうな声で女性が電話に出た。
鈴木曰く、小二の頃から──暁さんと出会ったあの日と同じ日から一緒に暮らしていたらしい顔も知らない親戚は、確かに優しい人だった。
引き取ったその日から大切にしてくれて、高校への入学を機に一人暮らしをする僕を送り出して、支援もしてくれたということになっているらしい。そこに来栖暁の名前は一度も出なかった。
『いつでも帰っておいで』という言葉に『そのうち』と適当に返して、電話を切る。
…………………………
でも、今まで暁さんと過ごしたことが尽く無かったことになっている。形跡も記憶も、何もない。
何もかもが分からなくて混乱する。
けれど、『来栖暁』という人間が、この世──この世界にもう存在しない、ということだけは、なんとなく理解できた。