星も眠りにつく暗い夜、喜八郎はパンツのポケットに乱暴に突っ込んだ紙幣の束を上から優しくなぞった。今回の依頼人は美貌と豊満な肉体をもった女だった。真紅の口紅で隠した微笑に、執着とも言えるような相手に膠着する思いが見え隠れしている。求められた情報はとある高級官僚のプライベートなスケジュールだった。情報屋という薄汚れた職を生業とする喜八郎にはあまりにも朝飯前レベルの情報だが、女はかなりの色を付けて支払ってくれた。浮き立つような気分で喜八郎はふらりと街外れのバーに寄り、人工的な赤色を纏うカクテルに唇を寄せた。
「あちらの方からです」
バーテンダーが、ふいに青いカクテルを喜八郎に差し出した。喜八郎にカクテルを差し出したのは、奥の席に腰掛けた男だった。血が通っていないような白い肌、ひとつに結われた闇夜を束ねたような美しい長髪、彫刻のように整った横顔が微笑む。舌に残っていた甘みが急に濃くなった気がして喜八郎は眉をひそめた。
「おやまあ……」
バーテンダーが他の客にカクテルを作り出すと男はゆっくりと近寄ってきた。涼しげな目元が蠱惑的に細められる。上質な黒のスーツに、数百万円はくだらないであろう腕時計。いい金蔓にはなりそうだが、生憎そういう趣味はない。差し出された青いカクテルのグラスの縁を指先でなぞり、喜八郎はおどけるように肩をすくめてみせた。
「僕は簡単には落ちませんよ」
あくまで、冗談のように軽く言えば男もそれに乗り喜八郎の肩にそっと手を乗せる。冗談の通じるやつは嫌いじゃないが、男にべたべたと触られるのは勘弁だ。
「落ちてくれないと困るな。情報屋の綾部喜八郎」
「それはあなた次第です。名刺、くれません?」
「これでいいか?」
男はスーツの内ポケットから名刺ケースを取りだし、そっと喜八郎に手渡す。引ったくるように受け取り、チップ内臓型の名刺の横にある薄いボタンを押せば空中に縮小された男の3Dモデルと経歴が浮かび上がる。
「若いのにしっかりしてるんだな」
「当たり前ですよ。僕にお仕事くれる人がちゃんと信用出来るかどうか確認しなきゃいけないんで」
「信用、か」
どうやら名刺は本物で、この男のもので間違いない。立花仙蔵、都市出身の有名大学卒エリート官僚。随分といい御身分なのに、渋ることなく名刺を渡す訳アリな男。喜八郎は仙蔵の後ろで微かに匂う危ない香りを嗅ぎ付けた。そして、金の匂いも。
「僕は危ない橋は渡りたくない主義なので」
「とんだ矛盾だな」
たしかに、と頷きそうになる。いや、別に頷いたっておかしくはないのだ。情報屋なんて、失敗したら命の保証はない。金の入りはいいが、それだけだった。喜八郎は情報を得るために偵察、窃盗……様々な罪を重ね続けて不安定な日々を跨いでいる。
「それで、どんなお仕事くれるんです?」
「ここでは話せない」
「……高くつきますけど」
構わないと仙蔵は言う。女を口説くような優しい言い方をされ、腹が立ったが金の為なら多少は目を瞑ろう。ここでは金が全てだ。生きるも死ぬも全て金が支配する。だからこんな薄汚れた仕事から抜け出さない。いや、抜け出せない。勘定が終わると、喜八郎はため息まじりに黒く美しい高級車に男と共に乗り込んだ。車は街を出ると、どこへ行くつもりなのか郊外への道を進んでいた。街の明るいネオンは遠ざかり、辺りは暗幕を垂らしたような闇に包まれている。
「着いたぞ」
「ここって教会じゃ?」
車が止まったのは、古びた教会の前だった。今にも朽ち果てそうな教会に神がいるのかも不明に思える。そんな教会の鍵も掛かっていない扉を開け、仙蔵は持っていたライターで短くなっている蝋燭に炎を灯してゆく。オレンジのか細い光に照らされ、仙蔵の輪郭がぼんやりと浮かび上がる。
「大事な商談にピッタリだろう? いい雰囲気だ」
「結構ロマンチストなんですね。それとも」
ここで僕をどう調理しようとしている?
こんな場所に連れて来てまともな商談をするようには到底思えない。いくら金の為とは言えども、今回は着いて来てしまった自分が悪い。調子に乗って油断していた。もっと注意深くこの男を見抜くべきだった筈だ。喜八郎は、黒い上着の右ポケットに手を突っ込むふりをして、いつも忍ばせている小型の銃に触れた。冷たく硬い感触が指先に伝わる。じわじわと背中に汗が滲みだす。もし、仙蔵が一瞬でも怪しい素振りを見せたのならば、迷わずに撃つしかない。
仙蔵は一歩ずつ確かな足取りで喜八郎との距離を縮めていく。喜八郎が半歩後ろに下がったのを見て仙蔵は微かに笑った。
「想いを告げる場所は、教会でと決めてるんでな……ずっと前からお前のことを探していたんだ。好きだ、喜八郎」
「はぁ……? ふざけたことを言わないでください」
突拍子に犬でも食わないようなことを言われ声が上擦る。ふざけるのも大概にしろと喜八郎は完全に小型の銃の引き金に指をかけた。
「私は本気だ。ほら」
一瞬の隙の中、仙蔵に左腕を掴まれ指を捕らえられる。暗い教会を照らす、か細い蝋燭の炎に舐められた左手の薬指が光を帯びた。薬指に嵌められたのは銀の美しい指輪だった。
「……どういうつもりですか?」
ほのかに暗い教会で、男に指輪を嵌められる。しかも、その男は何十分か前に初めて会った男だ。ずっと前から自分を探していたとは言ったが、信じられるわけがなかった。こんなことを言う為に、わざわざこんな所まで移動するだろうか?今にも崩れそうな古びた教会で告白され喜ぶ者なんているわけがない。これは、罠だ。易々と罠を仕掛けられた己に喜八郎は舌を鳴らした。
「何を企んでるのかは知りませんけど、僕には拒否権ってもんがあるんです」
「笑わせるな。お前に拒否権なんてない」
指輪を嵌められた左手から小さな警告音が鳴る。ただのシルバーリングだと思っていたそれをよく見れば、五ミリ程度の間隔を置いて赤い光がもれている。喜八郎は急いで銃の引き金から手を離し、指輪を抜こうとした。
「さっきの胡散臭い芝居はこのためだったんですねぇ」
「胡散臭い? 名演技の間違いだろう?」
仙蔵はわざとらしく肩をすくめてみせる。
「爆発でもするんですか、これ?」
「安心しろ。これは私がロック解除しないと外れないだけの指輪だ」
仙蔵は腕時計を喜八郎に軽く掲げて見せた。ぼんやりと腕時計から、地図が浮かび上がる。地図上に一つの赤い点が光り、喜八郎はこの指輪の真の役割を理解した。喜八郎は気怠げに煙草に火をつけた仙蔵の横顔をあからさまに睨み、両手を上着のポケットに突っ込んだ。仙蔵からあまるほどの余裕が感じられて、腹の中で熱い嫌悪が煮えたぎるようだった。
「何のために僕の浮気調査を?」
「必要だからさ、お前が」
紫煙を細く吐きながら、仙蔵は腕時計から映し出された地図を消した。必要だから、そんなことを言いながらも仙蔵の瞳には何も映ってはいない。仙蔵の考えていることがまるで読めない。まるで一寸先も見えない白い霧の中を手探りで歩き回っているようだった。
「困りましたね。僕は危ない橋は渡りたくないんですよ。こう見えて平和主義者なので。自慢じゃないけど虫も殺せません」
「奇遇だな。私も虫は殺さない。虫は、な」
虫は、な。という単語が脳みそに引っかかる。虫は殺せないということは、それ以外の生き物ならそれが出来るということなんだろうか。例えば……。
「あなた、官僚じゃなかったんですか?」
「お前は情報を鵜呑みにしすぎだ。それを嘘か真実か、裏か表か見極めることもしないで、よくここまで暢気に生きてこれたな。褒めてやろう。だが言っておく。お前は何ヶ月も前から危ない橋を渡ってるんだ。気が付かなかっただろう?」
「は……?」
言っていることがさっぱりわからなかった。何ヶ月も前から危ない橋を渡っている?そんなヘマはしていない筈だ。女たちには高級までとはいかなくとも官僚のプライベートスケジュールを売り、とある長身の男にはある施設について情報を数件売った。そういえば、最近こういう類の仕事が多かった気がする。
「ここ三ヶ月、依頼されるのは官僚絡みの情報ばかりだったんじゃないか? まあ、他の仕事もあったかもしれないが」
喜八郎は肝が冷えてゆくのを生々しく感じた。繋がることはないと考えもしなかった情報が目の前の男を通して、糸の間に浮かぶ真珠のように綺麗に繋がってゆく。おそろしかった。つまり以前から、仙蔵の掌の上で踊らされていたというわけだ。今までの序章は駒たちの仕事で、やっと舞台の上に親玉が姿を現した。随分といい筋書きだ。もう、売ってしまった情報は戻ってこない。どうやら自分はこの男に手を貸さなければならないらしい。喜八郎は震える唇を強く噛み締めた。指輪も付けられてしまった以上、どこに逃げても仙蔵から逃げられない。
「チッ……とっくの前から共犯ってことかぁ」
「遅い、気付くのが。それでも情報屋か? お前はもうとっくの昔に私のものになったんだ」
勝手に物扱いするなと喜八郎が叫ぶ前に、暗闇の中で影がゆらめいた。何も見えないのに、肌を刺すような険しい気配だけが感じ取れる。明確に訪れた死の足音に喜八郎は弾かれるように銃を構えた。次第に呼吸が浅くなり、引き金に引っ掛けた指先がガタガタと震え出す。
「その玩具みたいな銃をしまえ、喜八郎」
「勝手に名前で呼ばないでください。撃ちますよ?」
くすりと溢れ落ちた仙蔵の乾いた笑みに、冷静を装おうとしても喉が狭まってしまう。
「お前は私のものだと言ったはずだが。まぁいい。紹介しよう、小平太と滝夜叉丸だ」
空気が淀んでいたはずの教会で、風がふいに頬を通り過ぎた。どうして風が?と認識した瞬間、豪快な笑い声と共に銃を素早く奪われる。驚いた刹那、脳を揺らすような強さで後ろから肩に腕を回され首が締まりそうになる。
「……ッ!?」
「ようやく仙蔵も飼い犬を迎えたか。見た目より随分と威勢が良いな! 私も威勢の良い者は好きだぞ」
「七松先輩!? この者より私、滝夜叉丸の方が威勢が良いですから!」
楽しげに言葉を繋いだ男は喜八郎の銃を放り投げる。仙蔵は受け取った銃をそのまま足元に捨て、どこかに蹴り捨てた。床と銃の擦れる音だけが教会に虚しく響く。女のように華やかな顔立ちの男は喜八郎をきつく睨み付けると、喜八郎から引き剥がすように小平太の腕にぎゅっと抱きついた。