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    勝デ/夏休み期間だけ田舎で静養することになった身体の弱い出久くんが、静養先でかっちゃんと出会うパラレル話です

    ※年齢操作あり。ヒーローしてません
    ※なんでも読みたい方向け

    きみは夏の味がした 夏休み期間中、友人の住む田舎でゆっくり過ごそうと母に連れられ緑谷出久は電車に揺られていた。ぶらさがっている車内広告は水色や白色のものが多く涼しげなのに、大きな窓から入る日差しだけが熱を持っている。足元から吹き付ける冷風が、寒いくらいに冷たい。人工的につくられたものは、はじめは心地よいが段々身体がついていけなくなる。気を紛らわすように出久は窓の外を眺めた。

     どこにも行けないから、どこにも行きたくないと思った。去年と同じように、不安の種をすべて排除した幸福な部屋の中で、たった一人で夏を見送れたらどんなに良かっただろう。家を出る前も出た後も、そのことだけを考えていた。しかし、悲しげに微笑んだ母の言葉に頷くことしかできずにいた。

    『自然がいっぱいの所でね、きっと出久の身体にもいいと思うの』

     人でごった返す賑やかな駅で乗り換え、車窓からビルが消えかかった寂れた駅で降りる。駅前は随分と静かだった。道路を挟んだ先には、カプチーノのような色をした外壁の郵便局、小さな喫茶店、色とりどりの花が咲く花屋がある。日傘をさした年配の女性が数名、吸い込まれるように喫茶店へ入って行った。何か冷たいものでも飲む?と母はフェイスタオルで首元に浮いた汗を拭う。夏用の薄手のパーカーをTシャツの上に羽織っていても汗ひとつかいていない出久にとって、母の何気ない仕草がなぜか羨ましく思えた。小さなバスロータリーの中心にそびえる時計をちらりと見て首を軽く横に振る。バスの発車時刻までそれほどの余裕はなかった。母の友人が住む場所まで出ているバスの本数は極めて少ない。都会のように一時間のうちに何本も出てはおらず、四時間に一本しかないのだと母は苦笑した。

     バスが来るまでベンチに座っていれば、空気の上澄みに溶けだした花の微かな香りが届く。心地よい香りに出久は安心したように息を吐いた。ベンチ脇にあった自動販売機でペットボトルのお茶を二本買い終えると、のっぺりとしたベージュ色のバスがのろのろと停車する。長時間の移動は久しぶりで体調を崩すかもしれないと不安ではあったが、外出前に飲んだ薬のおかげかその兆しはまだ表れていない。今日は調子がいいかもしれないと、安堵の気持ちと共にバスに乗り込んだ。

     三十分ほど走り街路を抜けると、山の裾まで来た。母からは山を越えてしまえばすぐに着くわよと簡単な説明があったが、どんな特徴のある山なのかという説明は一切なかった。母は一番大切なことを時たますっぽかしてしまう、少し抜けたところがある人だということを出久は忘れていた。

    「うっ……」

     山頂に行くまで想像を絶する急カーブの折り返しが連続している山道に、すがるように目蓋を閉じた。バス酔いを恐れ前方の席に座ったが、どこに座っても結局同じだったかもしれない。出久は内心、恨みつらみを並び立てる。少ない唾液を飲み込んで吐き気を紛らわせても、右に左に傾く身体に泣きそうだ。このつづら折りに恐れをなしたのか、効いていると信じていた酔い止めは今や全く出久を助けてはくれなかった。悪夢にも似た急カーブの登りが終わると、ゆるやかな降り道になる。山を越えたバスが、田んぼが辺り一面に広がる国道に差し掛かった所でもう手遅れだった。頭の中は、ここから逃げたい、気持ち悪い、辛い、そんな言葉で埋め尽くされていた。こんなところで降りたら迷惑を掛けてしまう。痛いくらいに分かってはいたが、もう限界だと指し示すように停車ボタンに手を伸ばしてしまう。

    「お母さん、ごめん。もうムリ、吐くかも」

     胃のなかに入れていたものが全部ひっくりかえりながら喉元までせり上がる気持ち悪さに耐えきれなかった。紫色のボタンのランプが滲んで見える。こうなることを見通していたのだろう。母は何の迷いもない足取りで運転手に声を掛けにいく。申し訳なさと虚しさを抱えて席を立てば、数名いた乗客は寝ぼけていたのか、もう着いたのかと言わんばかりにバス内を見渡している。どうすることもできず、母が運転手に事情を話すとバス停もない道端だったがドアを開けてくれた。

     冷房の効いたバスから一歩降りただけで、蒸し返すような熱気が足元から這い上がってくる。思わず喉から気疎い声が漏れた。吐き気の心配よりも先に、とんでもないところに来てしまったのだと改めて思い知った。出久は汚れたスニーカーから視線を外し、諦めたような顔で空を見上げる。今の自分を取り巻くすべてを忘れてしまうほどに、映画のワンシーンのような、作り物のような夏だった。光はどこまでも明るく、空はどこまでも高く青い。海外旅行へ行くのかと思うほどの大きさのスーツケースを乗降口のステップから下ろすのに手間取っていた母は、もう少し小さいので来れば良かったと唇を尖らせたが途中下車してしまった事については文句ひとつ言わなかった。

    「恐ろしいくらいに暑いわねぇ。でも、空気がきれいでいいわね、景色もいいし」

     絡まり合う木々のようなビルで埋め尽くされた都会のべたつく暑さとは違う。母も肌で感じたのだろう。日差しはとても熱いのに、不純物が取り除かれたようにさっぱりとしている。日差しに漂白されたのか、少しだけ気持ち悪さの波が引いていく。回るようにあたりを見渡し、ひとつ深呼吸をした。

     この地域は盆地で、遠くにある背の高い山々に取り囲まれている。実家からは林立するビル群しか見えず、四方すべてに山があるのは初めての光景だった。先ほどまでバスが走っていた道路は、まるで線引きをするかのように田んぼの真ん中を通っている。あまりにも真っ直ぐな一本道で、永遠に続いているのかと錯覚してしまいそうになる。田んぼの青々しい稲の葉が風に揺れると、広い草原の中に佇んでいるようだった。細い畦道には、古い小屋や膝下くらいの大きさの苔むした石がいくつか並んでいる。石には何か梵字のような文字が彫られていて、昔の人のお墓かもしれないと出久はほのかに思いを巡らせた。

    「無理しないで、座って。ほら、飲みなさい」
    「ありがとう」

     母は手提げからお茶を取り出し、出久に手渡した。駅で買ったばかりのペットボトルはまだ完全にぬくもってはいない。水滴の浮いたペットボトルを頬に寄せて出久は小さく息を吐く。ほんの少しの冷たさが、有難かった。

     あたりに日陰になるような建物は近くにひとつもなく、出久は点々と置かれた電信柱の細く長い影に身体を隠すようにしゃがみ込んだ。学校から配られた課題や薬やらを詰めたリュックを地面に降ろす。リュックを降ろしたというのに、身体は鉛をくくったみたいに重たい。ぐっと近くなった地面のむこうで蜃気楼がゆらめいた。バーナーで炙られたようなコンクリートに座ることも出来ないまま、両膝を抱くように乗せた腕に頭を預ける。駅のベンチに腰を掛けていた時と温度がまるで違う。常に空調の行き届いた快適な植物園のような部屋で過ごしがちの出久には過酷とも言っていいほどの経験したことのない暑さだった。張りつめていた糸が切れたのか、再び込み上げてくるバス酔いの気持ちの悪さと目眩に肩で息をする。肺に吸い込んだ空気すら熱を持っていて、身体の内側から火傷をしそうだと口に出してしまいそうになる。言わなくていけないことが、ふやけてどこかに消えないうちに出久は青ざめた唇を動かした。

    「ごめん、お母さん。こんなことになって。迷惑かけちゃってごめん」

     息継ぎもままならないまま言い終えれば、苦い思いが胸に蔓延った。両親には、迷惑ばかりかけている。いくら気持ちが悪かったとは言え、後先考えずにバスから降りてしまった自分を呪いたくなる。天気予報では今日、歴代最高気温を更新するかもしれないと報じていたのに。自分一人だけならまだしも、母のことを思うと辛かった。同じくらい暑いはずなのに母は電信柱の影に入ろうとはせず、今も出久の背を慈しむようにさすってくれている。

    「何も気にすることないわよ。なんとかなるわ」

     出久がしゃがみ込んでから、もう十五分は経っている。バスに乗ってから山道に入るまでは数え切れないほどの車が走っていたが、山を越えてからはたった数台とすれ違っただけで今や行きかう車も人もない。誰かに頼み込んで乗せてもらうことも出来ず、母はこんな自分と一緒に熱砂漠のようなこの場所にいることになる。産まれたときから入退院を繰り返し、体が弱く学校すらろくに通えていない自分は一体どれだけ迷惑をかけて生きていくのだろう。何も出来ないくせに、迷惑しかかけられない。そんな自分が、嫌いだった。

    「……ごめんなさい」
    「もう。謝ることなんて何もないじゃない」

     ぽんぽんと少し強めに背中を叩かれる。母は、どんなことがあっても出久を責めたりはしなかった。怒ってくれればいいのに、責めてくれればいいのに。何度願ったことだろうか。しかし、裏腹で母のやさしい言葉に傷付いたふりをしながら、いつでも許してくれる母に甘えている自分が心のどこかで息をしている。このままじゃ、いつかきっと愛想を尽かされる。出久はきつく唇を噛んだ。

    「お母さん、ぼく、もう平気だから……行こう」

     母のやさしさに甘えたくなくて、嘘をついた。とても平気じゃなかったが、両膝に手を置いて立ち上がる。鉛のような重さを無視して勢いよく立ち上がれば、急に目の前が暗転に落とされたように暗くなった。針金で頭蓋骨をきつく縛り上げるような痛みと、夏の眩しすぎる日差しに焼かれた眼がくるりと回る。このままじゃ歩けないと瞬時に体内の危険信号が点滅する。でも、進みたかった。誰かに迷惑をかけて生きていくのは嫌だと心が叫ぶ。もたつく足を前へ前へと踏み出した。べとついた泥沼に足を引っ張られているように、うまく動かない。母の手が、右手を掴む。母の触れた右手に電流が走る。

    「行こうって、なに言ってるの!? 平気な訳ないじゃない!」
    「平気だって!」

     拒絶にも似た、なけなしの力で母の手を振り落した反動で身体が反転する。

    「出久ッ!!」

     母が焦燥しきった顔で叫び上げた。出久はバランス感覚を失い、強力な磁場に引き寄せられるように背中から地面に崩れ落ちる。とっさに両腕で頭を抱えこんだ。瞬時に叩き付けられるような痛みが背中に広がったが頭は打ってない。軋むような痛みに悶えながら首を左に向けた瞬間、母が焦燥した意味を知った。すべてがスローモーションのように見えた。タイミングが悪すぎる。白い車が出久の倒れた車線上、すぐそこにいる。何十メートルではない、何メートル先にだ。起き上がって、逃げなきゃいけない。そう思うのに身体は神経すべてを断ち切られたように動かない。どうして、僕は、いつも上手くいかないんだろう。もう終わりだと、涙でぬれた瞳をきつく閉じた。

    「……ッ!」

     鼓膜を破るほどの甲高いブレーキ音がすぐ側で聞こえる。責め立てるような蝉の羽音と大袈裟に思えるほど荒い呼吸音が耳朶に雪崩のように入り込んだ。普段はあまり意識することのない心臓の鼓動がやけに大きく体内で轟き出す。温度の高い涙が目尻から流れ、頬に滑り落ちる。

    「オイ! あぶねェだろーが! クソがッ! フラフラ歩いてンじゃねぇ! 死にてぇのか!!?」

     地を揺らす低い怒鳴り声が頭上に降り注ぎ、出久はおずおずと眼を開く。濡れた瞳が乾き切るほど見開いた眼には、どこまでも広がる美しい夏の空と窓から身を乗り出し、歯茎が見えるほど口元を引き上げて出久を睨みつける同い年くらいの少年の姿があった。助かったという安堵よりも先に、怒りの炎を瞳に宿した獣に肉だけではなく臓器や骨までも喰い荒らされてしまうような恐怖に駆り出される。

    「も、申し訳ありません! 出久、大丈夫、怪我は、」

     母は頭を下げると、背中に腕を回して上体を起こしてくれた。灼熱のコンクリートに手を付かなければ身体を支え切れないのに、どうしても手が震える。母の問いかけに返事もできなかった。顔を上げなくともわかる。今も少年の鋭い視線が痛いくらいに突き刺さっている。怖くて怖くてたまらない。うまく息が吸えず、言葉が喉の奥にこびりついたまま出てこない。見えない手で首を締め上げられているようだった。出久の言葉を待つかのように、蝉は一瞬羽をこすり合わせるのを止めた。

    「ご、ごめ、なさッ……」

     呼吸の合間にねじ込むように細い声を絞り出せば、車のドアが閉まる音が耳に届いて肩が震えた。未だに白い車は反対車線にはみ出して停まっている。なんてことをしてくれたんだ、ふざけるなよと罵倒され殴られるかもしれない。たとえ実害がなかったとしても、相手の怒りの引き金を引いたことは確かだった。むしろ少年が怒鳴ったのは当たり前のことだ。悪いのはすべて自分なのだから。

    「……っ」

     白いぴったりとしたTシャツを着た偉丈夫が出久の手前で止まった。かろうじて上体を支えていた腕が、がくりと崩れる。肘の関節が一気に抜け落ちたみたいだった。倒れる。そう確信した瞬間、ふいに角ばった逞しい腕が伸ばされる。

    「大きな声を出してしまい申し訳なかった。怪我はないか?」
    「え?」

     少年の声とはまた違う、凛とした力強い声の主が肩を力強く支えていた。思わず間の抜けた声が出る。どんな罵声を浴びせられるのかと身がすくむ思いだった出久に、男の言葉はあまりにも優しかった。驚きながらもようやく顔を上げ、声の主と視線を合わせた。出久と同じ目線になるように膝はおられている。三十代前半の外人めいた顔立ちの男だった。髪は金色に染髪され、真夏の光でやわらかく輝いている。いつもなら髪が金色というだけで怖気づいてしまうが、真摯に真っ直ぐに見つめてくる瞳に恐れを抱くことはなかった。男は一度、すまないと断りを入れて出久の額に手を当てた。予想よりもひんやりとした大きな手の平に、目を細める。気持ちがよい、と素直に思った。

    「ここにはいつから?」

     男は額から手を離し、母に問いかける。

    「十五分くらい前かしら。バスで町に行く途中に降りたんです。息子が酔ってしまいまして」
    「そうでしたか。これから町まで帰るのですが、詳しい場所を教えていただければそちらまで送ります……構わないだろう、少年」
    「ハ? なんでだよ!? つか少年って呼ぶんじゃねぇ!」

     男の申し出に、少年は焦ったように再び窓から身を乗り出す。困惑と腹立たしさの混ざった呼びかけに応じることをせず、男は表情ひとつ変えずに言葉をつなぐ。

    「息子さんに外傷はないようですが、発熱しています。これ以上、外にいるのは危険だ。見過ごせません。乗ってください」
    「でも」

     でも、と答えたのは自分だったのか母だったのかわからなかった。母にまでではなく、見ず知らずの人にまで迷惑を掛けている。自分勝手な行動の末に訪れた結末に、うなじの下の血管が急に狭まったように血の気が引いてゆく。胸にあったしこりが肥大して身体を内側から苦しめるように、膨らんでゆく自己嫌悪に押しつぶされそうだった。

    「大丈夫だ。なぜって? 私が来た」

     俯いた出久の意識を引き上げるような強い響きだった。おもむろに顔を上げれば、凛然をたたえた瞳が出久を静かに見詰めている。たった一言、この人に大丈夫だと言ってもらっただけで、抱え込んだ自分への嫌悪と他人への罪悪の気持ちがそっと掬い上げられる。こんなこと、はじめてだった。大人たちにどんな言葉を掛けてもらっても胸が軽くなったことはない。いつも何も出来ない自分自身に諦め、迷惑をかけてばかりの自分を嫌っていた出久にとって、言葉以上に嘘のひとつもない澄んだ瞳があまりにまばゆかった。

    「ありがとう、ございま、す」

     声を飲み込み、しゃくり上げる。涙が止まらない。なだめるように、大きな手の平がゆっくりと髪をかき混ぜっていった。視界に映るすべてが、薄くて白い布に覆われたようにぼやけ始める。目蓋の裏が焦げるように痛い。指摘されてようやく、身体がひどく熱を帯び始めていたことに気付いた。

    「ご親切にありがとうございます。本当にありがとうございます」

     礼を述べて深く頭を下げる母に、男は短く「いえ」と答える。

    「少年! 後ろのシートを倒してくれ。あと、トランクにスーツケースを」
    「……クソ」

     出久の黄色いリュックを拾い上げ、スーツケースを片手でトランクに収めた少年に母はごめんなさいねと述べる。少年が何と答えたのかは聞こえなかった。少年は素早く後部座席のシートを倒し終えると、男に「さっさと乗れ!」と怒りに塗れた返事をする。男は返事の代わりとでも言うように出久の背中と両膝の裏に腕を回す。急に目線が高くなり、抱き上げられた事を知る。熱に侵されてもまだ動く脳が恥ずかしさを訴え、手足をばたつかせようとしたが指の一本も動かなかった。

    「狭いが我慢してほしい」

     白いワンボックスカーは小型のものであったが、シートが倒されているため車内はそれよりも広く見える。こんもりと食材の入った段ボールが二箱、トランクに入りきらなかったのかシートの中央に無造作に置かれている。男はそっと出久を横たえたが、段ボールの位置が気に入らなかったらしい。男は出久の腰を跨ぐように両膝を付くと、今度は出久の顔の横に左手を付いて片腕だけで段ボールを端の方に追いやった。なめらかな動作をぼやける視界から見つめていると、男がほんの小さくほほ笑んだ気がした。

    「大丈夫だ。何も心配いらない」

     出久が礼を言う前に車から出た男は、母に乗るように促す。ありがとうございますと何度も言いながら母が乗り込むと、男もエンジンをふかした。

    「場所はどちらですか?」
    「町の沈下橋を越えた所です」
    「わかりました」

     続いている母と男の会話を耳に流しながら、目蓋を閉じる。指先から脳までが徐々に壊死していくように、何も考えられなくなる。次第に耳も栓をされたように聞こえなくなっていく。出久は自分の浅く荒い呼吸をどこか遠くに感じていた。





     目蓋の奥を赤く染めるような日差しが、じりじりと肌に刺さっている。深い眠りの狭間でたゆたっていたが、この小さな痛みで目が覚めてしまった。日差しはちくちくと痛いのに、気温はそれほど高くない。少しだけだが、涼しさを感じるほどだ。たぶん朝なのだろう。寝ぼけまなこを開けると実家とは違う色をした天井が映る。ここがどこだか、見当がつかない。ゆっくりと起き上がり、ピントを合わせるかのようにクリアになった視界で部屋を見渡すと、部屋の右手にある縁側から庭が見えた。庭は広く、初々しい緑をたたえた低めの垣根で囲われている。また、垣根の向こうには沢山の田園が広がっている。

     縁側に続く雨戸はすべて開け放たれ、部屋にたっぷりと夏の光をこさえている。電気を付けなくても充分に明るい部屋は畳敷きの六畳間で、家具らしい家具は卓袱台と大き目の箪笥があるだけだ。持参した荷物は、押し入れの手前に遠慮がちに置かれている。黄色いリュックに付けていたヒーローのストラップと目が合い、出久は青白い顔を更に青くした。見ず知らずの出久と母を助けてくれた二人に、きちんとした礼もせず、名前も聞いていないことに気づいてしまった。

    「ど、どうしよう」
    「出久、起きた? 具合はどう?」

     開いたままの襖から、ぱたぱたと母が走り寄る。

    「お母さん、どうしよう。昨日の人たちに名前も聞けなかったし、ちゃんとお礼言えなかった」

     母の問いがまるで頭に入らない。掛けられていたタオルケットをしわくちゃになるほど握りしめ唇を噛む。車に乗せてもらってから今まで意識がなかったのが悔しくてならない。強く握っていた手に、母の手が重なる。顔を上げると、母はやさしい笑みを浮かべた。

    「点滴も打ってもらったし、この調子だと大丈夫そうね……車を運転してくれたのがオールマイトさんで、荷物を積んでくれたのが爆豪勝己くんよ」

    「……オールマイトさんと爆豪くん」
    「二人とも本当にいい人でね。オールマイトさんは町のお医者さんを呼んでくれて、勝己くんが出久のことをこの部屋まで運んでくれたのよ。本当に感謝しても感謝しても足りないくらいだわ」

     少し涙声になった母に抱きしめられ、鼻の奥がツンと痛んだ。もしもあの時、二人があの道を通らなかったら。これまでずっと自分を守ってきてくれた母を、今以上に心配させる事になっていたかもしれない。そんな風に考えると、冷え冷えとした恐ろしさが胸にわだかまる。氷のように冷たい怖さを溶かすように、出久は二人の姿を目蓋の裏に映した。

    「そうだったんだ……お母さん、心配かけてごめんなさい」
    「いいのよ。それでね、お母さんこれからこの家を貸してくれたお友達と一緒にスーパーに行こうと思うんだけど、留守番頼んでも平気かしら。菓子折り買ってくるからそれを後で二人に渡して欲しいの。だいじょうぶ、住所は聞いてるから! お昼前には帰ってくるけど、何かあったらすぐに連絡してね。ああ、そうだ! その前に家の中を案内しないといけないわね」

     母は一回鼻をすすると、いつも通りの明るい表情を浮かべた。

     寝巻から着替え薄手のパーカーを羽織り、母に背を軽く押されながら家の中を見てまわる。母の友人が貸してくれたという家は木造の平屋で、庭付きのこぢんまりとした家だ。建ててから結構な年月が経っていると思われるのに、家の中に痛みはほぼなく、とても綺麗だった。丁寧に暮らしてきたのだというのが手に取るように伝わってくる。出久にあてがわれたのは縁側のある南向きの部屋で、母は玄関近くにある部屋を使うと言った。出久の部屋を出て目の前には茶の間、その隣に台所がある。台所の奥には風呂場とトイレがあった。

     台所のテーブルには、おにぎりが数個皿に乗っている。そういえば昨日の昼から何も口に入れていない。久しぶりに感じた空腹感からか、ごくりと唾をのんだ。あとで食べてねと母が言い終えるのと同時に玄関のチャイムが鳴る。来客は夏の間、出久たちに家を貸してくれた母の友人だった。

    「それじゃあ、行ってくるわね」
    「いってらっしゃい」

     楽しそうな二人を玄関で見送り、台所からおにぎりを茶の間へ持っていく。つけっぱなしの扇風機の電源を切り、代わりに電気を付ける。卓袱台には綺麗な字で、診療所の名前とその電話番号が控えてあるメモが置いてあった。母の字ではない。きっと医者を呼んでくれたというオールマイトに貰ったメモだろう。医者を呼んでくれたおかげで、熱も引いて、身体の不調がどこにも見当たらないまでに回復した。ほんとうに親切で優しい人だったと、凛然をたたえた瞳を持ったオールマイトのことを思い出す。大人になるなら、彼のような人になりたい、そう思った。

    「いただきます」

     真ん中に置かれた卓袱台の前に正座し、おにぎりを頬張る。梅干しをつやつやとした米でふんわりと包んだおにぎりはシンプルだがとても美味しかった。こうして普通に食事を摂れることに、自分を助けてくれたすべての人への感謝があふれ目頭が熱くなる。

    「ごちそうさまでした」

     手の甲でごしごしと目元をこすり、手を合わせる。お腹が減っていたが、一つ食べ終えただけで胃がきりきりと痛かった。食べきれなかったおにぎりにラップをかけ、冷蔵庫にそっと仕舞った。薬を飲むため、勝手に使って良いか迷いながらも戸棚からガラスコップを取り出し水を注ぐ。リュックの中に、病院で貰った夏休み期間分の処方箋がそのまま入っている。何種類も出ている処方箋を卓袱台に出し、慣れた手つきで飲み込んでいく。すべて飲み終えると、ひかえめに玄関の引戸の開く音が聞こえた。母が忘れ物をして戻ってきたのだろうか。茶の間にかけられた紺の暖簾をくぐると「入るぞ」と気後れ気味だが聞き覚えのある声がした。突然の来客に、少し急いで玄関に向かう。

    「……オイ」
    「えっ!?」

     玄関には、眉根を寄せて不機嫌そうに目元を翳らせた少年、爆豪がかったるそうに立っている。鋭い視線に射抜かれたのを引き金に、まぶしい夏空が瞳に流れ込んだ。この人は自分を助けてくれた人だ。そうわかっているのに、あの瞬間に感じた血肉すべてを喰い荒らされてしまうような恐怖が鮮々しく蘇る。皮膚は粟立ち、身体ががたがたと震える。思いもよらぬ人物の訪問に、出久は化石になったようにその場から一歩も動けなかった。なにか言わなければと口を開いても、息が詰って声にならない。

    「これ、アイツから」

     出久の言葉を待たずに乱暴に突き出された手には、ビニール袋が提げられている。重さで薄く伸びたビニール袋の中には、小ぶりのスイカが一玉入っていた。どういうことだろう。首を微かに傾げると、ぴくっと相手の額の血管が脈打った。

    「オールマイトからの差し入れだって言ってんだよ! クソ、上がるぞ」
    「えっ、あの、ちょっと!」

     痺れを切らしたのか、爆豪がひとつ舌を打った。爆豪は放るように健康サンダルを脱ぐと恐怖で固まっている出久をよそに、ずんずんと廊下を進んでいく。玄関から廊下を真っ直ぐに進むと茶の間に突き当たる。卓袱台に沢山の薬が散らばっている所を見られたくなくて、急いで後を追った。いつもそうだ。大抵の人は出久のことを知ると大変だね、可哀想だねと言う。誰かに可哀想と憐れみの表情を浮かべられるのが、一番やりきれなくて悲しかった。短すぎる距離なのに走ってしまった為か、呼吸が乱れて苦しさが顔を覗かせる。出久よりも背の高い爆豪は、足の長さも相まって歩くのが早かった。すぐ茶の間についた爆豪は、暖簾を開けて出久を振り返る。

    「コレ、」
    「……ッ」

     緑谷出久様と流れるような字で書かれている処方箋を急いでかき集め、まるでゴミを突っ込むかのように袋に入れた。卓袱台を綺麗に片付ければ、爆豪がそっとスイカを置く。見られてしまった。心臓が冷えていくのを感じながら、パーカーの裾をすがるように握った。

    「小せぇし、中身黄色いけど、普通に食える」
    「黄色いスイカ……?」
    「ああ。アイツの家の裏庭で作ってるやつ」

     棘が数本抜けたような言い方に、視線だけを上げて爆豪を見やる。きっと爆豪も他人と同じような色を宿しているのだろうと思っていた。でも、違った。鋭い目元は相変わらずだったが、出久を映す瞳には憐れみの色がひとつもない。なぜか少し誇らしげに話すその瞳をじっと見つめているうちに身体の震えが嘘のように消えていく。ありがとうと伝えなくちゃ、その思いが堰を切って零れ、出久は深く頭を下げた。

    「そうなんだ……あっ、あの、僕は緑谷出久っていいます。昨日は、本当にありがとうござ、」
    「ハ? なんでオレに礼言ってんだテメェ」

     出久の言葉を遮るように、頭上に腹立ちを隠し切れない声が降り注ぐ。出久の知る数少ない人たちの中には、乱暴な声で話す人は一人もいない。反射的に、ひっ、と怖気づいた声が漏れる。出久の怯えに気付いたのか、爆豪はほんの少しだけ口調を弱めた。

    「もしかしてアイツとオレを間違えてんじゃねーだろうな!?」

     言っている意味が解らないと爆豪は怪訝そうに口元を引き上げる。爆豪がなぜ、自分が二人を間違えていると思ったのかが出久にはわからなかった。昨日助けてもらった二人のことを間違えるはずがない。出久はぶんぶんと首を横に振る。

    「そんなわけないです。見ず知らずの僕たちに親切にしてくださったオールマイトさんにもとても感謝しています。それに、爆豪くんが最初に注意してくれなかったら……って思うと怖くなって」
    「ハッ。それだけでかよ。おめでてぇ頭してんな」

     遠くまで届くようなため息を吐きながら、爆豪はガシガシと頭を掻く。きっと、呆れられてしまった。きちんとありがとうと伝えることすら出来ないなんて。爆豪が今すぐに帰ってしまいそうな気がして、とっさに爆豪のタンクトップの裾をつかんだ。無意識のうちの行動に驚いたのは出久だけではない。爆豪が驚きの声を飲み込んだ音が聞こえてくる。顔中に血液が一気になだれ込んだのがわかる。頬が真っ赤になっているのが自分でもわかって、顔があげられない。

    「だ、だって爆豪くんはぼくを助けてくれた! それに部屋まで運んでくれたり、今もこうやってスイカを届けてくれたり……爆豪くんはぼくにとって恩人なんだ!」

     掴んだ裾を離せない手が小さく震える。いま、絶対に変なこと喋ってた。ものすごく、支離滅裂だ。言いたいこともろくに伝えられない自分が情けなくてたまらない。目蓋の裏が焼けるようで、瞳の淵に涙の幕が降りる。でも、俯いたままじゃいけない。

    「爆豪くん、本当にありがとう」
    「……ッ!!」

     顔を上げて、深い夜の底のような瞳を仰ぎ見る。爆豪はなにか言いたげに唇を震わせたが、くるりと出久に背を向けて玄関へと歩き出した。

    「……爆豪勝己。つーか、爆豪くんって呼ぶのやめろ。次から名前で呼べ」
    「えっ、それって、どういう」
    「ぐだぐだうるせえ!! 次会った時爆豪くんって呼んだらブッ殺す!!」
    「は、ハイぃいッ!!」

     乱暴な大声に首がもげそうになる程頷き、出久はへろへろとその場にへたり込んだ。見送ることなんて出来なかった。物騒な言葉と次から名前で呼べという小さな命令に脳みそは混乱を極めている。次会った時、ってどういうことだろう。こんな自分とまた会ってくれるということなんだろうか。そんな訳がない。きっとただの気まぐれで言っただけだ。でも、また会ってもらえたら、うれしい。きみのこと、ほんとうはまだ、すごく、怖い。怖いけれど、早く名前で呼んでみたい。心臓が急に早く動き出す。そっと胸に手をあてれば、自分でも驚くくらいにどきどきしていた。誰かの言葉で胸が高鳴るのはあまりにも久しぶりだった。





    「クソッ……!」

     爆豪は乱暴に自転車のスタンドを蹴ると、サドルに跨り出久のいる家を後にした。なだらかな坂のおかげで、ペダルを漕がなくても自転車は風に押され進んでいく。アスファルトに跳ね返された光がまぶしい。真上から降り注ぐ日差しのせいで、まだ朝だというのにじんわりと汗が浮かんだ。黒のタンクトップと中学のジャージという涼しい格好をしてきたつもりだったが、無駄骨だったらしい。この茹だるような暑さのせいで、頭が相当イカレちまった。アイツに名前で呼べだなんて、クソ気色悪いことをぬかしたのは昨日から続く猛暑のせいだ。そうだ、ぜんぶ暑さのせいだ。爆豪は頭上できらめく太陽を睨みつけた。

     おかしいほど、昨日はとんでもなく暑かった。アスファルトの上でわだかまる空気が揺れ、蜃気楼となっていた。

    『今日は各地で歴代最高気温を更新するでしょう。皆さん、熱中症には注意してください』

     車で一時間ほどかかる大型スーパーに行った帰りのラジオから流れてきた声に爆豪はげんなりした。ただでさえ盆地で風がなくて蒸し暑いというのに、気温まで上昇されたらたまったものじゃない。歴代最高気温。聞いただけで熱中症になりそうだ。くだらない理由をつけて、爆豪は車内の設定気温を思いっきり下げた。家族ぐるみの付き合いのある担任教師で、隣の家に住むオールマイトは、少し眉を上げたが特に何も言わなかった。分厚い筋肉でおおわれている大きな身体を持っているからか、涼しい顔をしていても暑くてたまらないのだろう。車外は焼けるような日差しで景色が揺らいでいる。少しくらい涼んだって罰は当たらない。エアコンの風向きを自分に当たるように調整し、まだ冷たさの残る炭酸飲料を飲む。舌先で弾けて喉に流れる甘い濁流に気を良くし、爆豪はいつもなら見ない景色を眺めた。田んぼのど真ん中を走る一本道の両側で、青く茂る稲の葉が風になびいている。田舎暮らしに憧れを抱くような人が見れば癒されるとかふざけた事を言いそうな光景だが正直見慣れすぎて何も感じなかった。ほとんど誰も通らず、田んぼと電信柱しかない景色を誰が喜ぶって言うのか。馬鹿馬鹿しい。舌を打ちそうになった爆豪は、ハッと眼を凝らした。

    「ア……? おい、あそこ」

     爆豪の指差した先で、電信柱の影に誰かしゃがみ込んでいる。距離は二百メートル先くらいだ。こんな真昼間に、この暑さの中何やってんだ。死にてぇのか?爆豪は眉をひそめた。

    「もしかして、何かあったのかも知れないね」
    「ヒッチハイクかなんかじゃねーの?」

     歴代最高気温を更新するような熱地獄でヒッチハイクする人間なんている訳ないが、冗談のつもりで言ったのがまずかった。正義感の強すぎるオールマイトにこの手の冗談が通じたことなど、ほぼないのだ。オールマイトは困ったように唸る。暇になった爆豪は、もう一度炭酸飲料を口に含んだ。

    「……こんなときにヒッチハイクをしていたら大変なことになる。一度、話を聞いてみるべきだ」
    「ハアッ!?」

     どうやら本気にしたらしい。オールマイトはブレーキを踏み、徐々にスピードを落としていった。口に含んだものを吹き出しそうになるのをなんとか堪えた爆豪は窓の外を見た。電信柱の影にしゃがみ込んだ同世代くらいのガキと寄り添う女性の姿がだんだんハッキリと見えてくる。あとそろそろで徐行し、オールマイトが彼女らにヒッチハイクをしているのか本当に尋ねるだろう。爆豪はそう思っていたし、オールマイトもそう思っていたはずだ。

     何かに憑りつかれたように、ふらりとガキが立ち上がる。白線を踏み出した足がもたついている。オールマイトが車を少しセンターラインに寄せ、女性が子どもの手を掴んだ瞬間だった。

    「危ねぇ!!」

     爆豪は叫んだ。ガキが手を振り払った反動で、背中から道路に倒れた。ヤバい。全身に一気に水を掛けられたように、血の気が引く。心臓をきつく握り潰されたようだった。思わず目を背ける。けたたましいブレーキ音があたりに響いた。何かにぶつかったような衝撃はない。おそるおそる眼を開ければ、ハアハアとオールマイトが肩を上下しながら呼吸をしている。咄嗟にハンドルを右に切ったため、車両は完全に反対車線内に入っていた。幸運なことに反対車線からは車は一台も来ていない。もしも、この道路が交通量の多い道路だったら。そう考えただけで、ひどくゾッとした。ハンドルを握ったままのオールマイトのこめかみには汗が伝っていた。

    「だ、大丈夫だ、なぜって、」

     オールマイトが言い終える前に、爆豪は窓を開けて身を乗り出した。この時、オールマイトの声すら聞こえていなかったように思う。もしもオールマイトの反応が一瞬でも遅れていたらテメェは死んでた!オールマイトが捕まっていたかもしれねぇんだぞ!ふざけんな!ふざけんな!ふざけんな!予測なしに抱かされた焦燥から解き放たれた安堵とおさまりのない怒りが目の前を黒く染める。倒れているガキの顔も黒く塗り潰されて良く見えない。とにかくこの腹立たしさをぶちまけることしか考えられなかった。

    「オイ! あぶねェだろーが! クソがッ! フラフラ歩いてンじゃねぇ! 死にてぇのか!!?」

     今すぐにでも降りてガキの胸ぐらを掴まないと気が済まない。すぐにシートベルトを外そうと右手を伸ばす。その手を急に強く引かれ、爆豪は嫌々ながらも振り返った。オールマイトは「やめるんだ、少年」とだけ言い放ち、悲しげな瞳のまま外に降りて行った。オールマイトに掴まれた手首が、軋むように痛み出す。目の前にあった靄が急に晴れるようだった。その時、母親であろう女性に上体を支えられてようやく起き上がったガキの顔を爆豪は初めて見た。

    「あ……」
    「ご、ごめ、なさッ……」

     俯いた顔は病的なほど赤く染まり、ぞばかすの浮いた頬に涙が伝っている。ガキは苦しそうに肩を上下に息をし、かわいそうなほど身体を震わせていた。その後ろで支える女性からは、焦燥と悲痛が声に出さずに伝わってくる。いくら腹立っていて周りが見えていなかったとしても、あんな風に怒鳴るべきじゃなかった。だからオールマイトは瞳に暗い色を宿し、怒る爆豪を止めたのだ。ガキにも多少なりとも落ち度はあった。だが、そんなことは免罪符にならない。開けたままの窓から燃えるような熱を宿す風が入ってくる。先ほどまで冷えた空気を送り出していたエアコンからは、今や何の涼しさも感じられない。どこか遠くから蝉の羽音が聞こえてくる。耳にべっとりと残る夏の叫びと、ガキのか細い声が頭の中で混ざり合う。爆豪はオールマイトに声をかけられるまで、オールマイトたちのやり取りを静かに見ていることしか出来なかった。

     緑谷出久とその母親の二人を車に乗せてからはあっと言う間だった。オールマイトはまるでカーチェイスでもしているのかと錯覚するほどのスピードを出し町まで戻った。事故を起こしたらどうするんだと内心ひやひやした。

     小さな町は中心から境界線を引くように川が流れている。母親が言った場所は、町の沈下橋を越えた田園地帯にあった。山に近づくにつれて緩やかな坂になっている地形を生かし作られた小規模な棚田をさらに越えた所に一軒家がある。爆豪もオールマイトも見覚えのある坂の上に建てられた家は、同級生の女が昔住んでいた家だった。場所を間違えたかと思ったが、バックミラー越しで緑谷の母が鞄から鍵を取り出しているのが見えた。なぜ、ここなのだろう。オールマイトもきっと同じ考えに至っただろうが、そのことについては何も聞かなかった。

     玄関前のスペースに車を停め、緑谷の母が家に入る間にオールマイトは町の診療所に電話を掛ける。淡々と住所と緑谷の容態を告げると、呼ばれて家の中へ入っていった。「少年、その子を頼む」という言葉を投げかけながら。車内に残された爆豪は少なからずもうろたえた。後ろを振り返り、横になって眼を閉じる弱った緑谷の姿にどうしたらいいかわからなかったというのが本音だ。頼むってどういうことだ。そんな面倒極まりないことを、どうして頼むんだ。ふざけんな。何度も後ろを振り返り、爆豪は小さく歯ぎしりした。情けないことに、未だにシートベルトさえ外せていなかった。

    「布団を敷いた。庭から来てくれ」

     オールマイトの呼び声に、爆豪はようやく覚悟を決めた。緑谷の両膝の間に左手を差し込み、右手で背中を支えて抱き上げる。ちゃんと飯を食っているのかと不安になるほど身体は軽かった。首も手足も細く、青ざめた唇から漏れる苦しげな吐息に爆豪は瞳を翳らせた。触れた皮膚は熱を持っているのに、次第に指先から心臓まで冷たくなるんじゃないか。一瞬でも緑谷を心配した自分に気づき、ひどく不愉快になった。

     庭の先でオールマイトが手招きした。雨戸の開けられた縁側のある部屋に布団が敷いてある。履いていた健康サンダルを投げるように脱ぎ、緑谷をそっと寝かせた。緑谷の母はよろめくように枕元に座り込み、ハンカチで息子の額に浮かんだ汗を拭う。

    「ごめんね、出久」

     医者が到着するまで爆豪はオールマイトと共に外で立ちすくんでいた。言葉は交わさなかった。鋭い日差しが地面に二人分の暗い影を落としていた。



     空っぽになった自転車のカゴを見て爆豪はひとつ舌を打った。数分前まではオールマイトに預けられたスイカが入っていた。オールマイトは他人の感情の変化によく気づく。爆豪が緑谷に怒鳴ったことを多少なりとも気にしていると感じ取ったらしい。家に帰ってすぐに「明日、あの子に届けてほしい。きっと体調も回復しているだろう」とスイカを渡されてしまった。オールマイトは悶々とする爆豪にさりげなく緑谷に謝る機会を与えたのだ。だが、結果はどうだ。礼を言われたが、爆豪は謝る言葉を紡ぎ出せずに帰ってきた。一言、昨日は悪かったと言えば済む話なのに。また今度会ったときに言えばいいか。だが、このままずるずる引き伸ばしにして、急に緑谷がいなくなったら。ぽつりと浮かんだおかしな考えに、爆豪は苦しげに眉を寄せた。

    「ア……?」

     ふと、聞き覚えのある声が唇を噛んだ爆豪の意識を引っ張り上げた。考え事をしている間に坂道は終わり、平坦な田んぼ道に行き着いていた。ひたすらに真っ直ぐな道は、小さな町の中心にある沈下橋に繋がっている。爆豪の家がある場所までは、この道の先にある沈下橋を渡らないとならなかった。面倒なことに、沈下橋を渡る他の道はほとんどない。実際、川の上流目指し歩いて山の近くまで行けば橋がもう一本あるがかなり遠回りになるため使用する者は極端に少ない。田んぼ道の先で、同級生の飯田と麗日が二人で歩いている。会いたくなかったが一本道のため、どうしても避けることができない。声もかけずにすれ違おうとしたがそれは無理だった。真っ先に気付いた飯田が片手を上げる。絶対に面倒なことになるなと、思わず舌打ちをした。

    「めずらしいじゃないか! こんなところで会うなんて」

     声を掛けてきた飯田の手にはなぜか三本の缶ジュースがビニール袋に入れられ、誰かに会いに行くのは明白だ。嫌な予感がする。適当にあしらい、帰るのが得策だろう。爆豪はペダルを踏む足に力をこめた。

    「なんだよ? 文句あんのか!?」
    「まあまあ。ここですれ違ったのも何かの縁だよね! 一緒に新入り君のところに挨拶に行こうよ!」
    「新入り?」

     ブレーキを掛けずに通り過ぎる予定だったが、麗日の言葉に無意識的にブレーキを掛けてしまう。タイヤと地面の擦れる高い音が響く。新入り君。この町ではめったに聞かない響きに、どきりと胸が鳴る。きっと緑谷のことだろう、爆豪はすぐに感づいた。田んぼ道をのぼって行った先にあるのはあの家くらいだ。他にも人の住んでいる家はあるが、新入りと呼ばれるような人の入りはない。

    「昨日、私のお母さんの友だちとその子どもがこっちに来たの。夏休みの間だけ私が前に住んでた家で過ごすんだって」
    「どうせ暇なんだろう?」

     さも当たり前だとでも言うように飯田は頷いた。一見、一緒に行こうとにこやかに誘っているようだが、自転車のカゴを片手で抑え爆豪が決して逃げないようにしているのは明確だ。もし、飯田一人だけなら強行突破で逃げられただろう。だが飯田の一歩後ろに立つ麗日の鋭い視線の杭が足に打ち込まれ迂闊に動けずにいた。麗日から一方的に向けられる敵意の匂いを感じ、爆豪は自嘲めいた笑みを浮かべる。麗日の母と緑谷の母が友人なら、昨日の出来事はすべて筒抜けのはずだ。だとすれば昔住んでいた麗日の家の方向から来た爆豪が先程まで緑谷と会っていたことくらい容易に考え付く。昨日の出来事を知らないのかと一瞬よぎったが、知らなければこれほどまであからさまな敵意を示すわけがない。それとも緑谷のことを知っているのに知らないふりをしているのが気に食わないのか。麗日の考えていることがわからず、無性に腹が立ってきた。爆豪は汚いものを振り払うように飯田の手をどけた。

    「ハ? 行く訳ねぇだろ」
    「新入り君は白いワンピースと麦わら帽子の似合うグラマーな美少女らしいが行かなくていいのか?」

     新入り君を知る爆豪にとってはインチキすぎる情報を飯田はスラスラと饒舌にしゃべった。どこもかしこも細くて折れそうな緑谷は当たり前だがグラマーからは程遠いし、もさもさの髪は野暮ったさを出しているし、性別も飯田の想像と永遠に重ならない。頬を真っ赤にしながら潤んだ瞳で見上げてきた緑谷を思い出し、爆豪はぶんぶんと首を振る。耐え切れずに爆豪は怒り混じりに口を開いた。

    「美少女!? な訳ねェだろ! あいつはひょろひょろな男だったッつーの!」
    「どうして、男の子だって知ってるの?」
    「クソッ……」

     爆豪自身が墓穴を掘ったのか、それとも飯田と麗日に嵌められたのか。今となってはもうどちらでもいい。麗日の目は完全に据わっているし、「ちゃんと謝ったの?」という幻聴すら聞こえてくる。守ってきた嘘があっさり露呈してしまい、キリキリと頭まで痛くなってきた。

    「まあ良いじゃないか。理由はあとで聞こうとしよう。爆豪が顔なじみなら新入り君も安心だろうし」
    「ハアッ!?」
    「……いいからついて来て。ね?」

     瞳に冷徹を宿した麗日に微笑まれ、爆豪はまた緑谷の元に行くことになってしまった。しぶしぶ方向転換をし、自転車を両手で押しながら歩き出す。二人並んでいたはずの麗日と飯田はいつの間にか爆豪を真ん中に挟むように歩いている。とてつもない怒りを腹に宿す麗日と、麗日の味方である飯田に挟まれかなり居心地が悪い。腹立たしいことに、飯田の手にあった缶ジュースも当たり前のように自転車のカゴの中に入れられてしまった。これでは逃げることもできない。いや、逃げる気なんてもうない。ただ、ふたたび緑谷に会うとき、どんな顔をして会えばいいのか爆豪にはわからなかった。
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    sui

    MOURNING利こま

    天使の小松田くんと学生利吉さんが出会う話
    ※ぴた〇ンパロ。利吉さんのお母さんが亡くなっている設定です
     窓に吹きすさぶ強い風の声に利吉は目を覚ました。少しだけ開いていたカーテンの向こう側の無機質な景色には普段と何一つ変わらない色が映る。朝六時半。パジャマのままリビングに向かうと、背広に腕を通す父と目があった。

    「利吉、今日も遅くなる。じゃあ行ってくる」 
    「行ってらっしゃい」

     通っている学校の近くにあるマンションに、利吉は父と二人で住んでいる。利吉は身支度を整え朝食を腹に納めると、プラスチックゴミで膨らんだゴミ袋と鞄を持って靴を履いた。

    「行ってきます」

     母は利吉が十歳の頃に交通事故で亡くなった。玄関に飾っている家族写真の中で楽しそうに笑う母をちらりと見て、ドアを閉める。今日もいつもと何も変わらない一日がはじまる。学校に行って、友人と喋って勉強して……嬉しくも楽しくも悲しくもない毎日の繰り返しだ。これでいいんだ。この生活に不満を持たず何も望まず、毎日が繰り返されるなら。いや、それは少し悲しいかもしれない。ささやかな娯楽、友人、父、誰といても何をしていても決して誰にも埋めることの出来ない一人分の隙間が未だに塞がらない。本当は塞がる筈なんてあるわけないのに、その隙間を手の届く範囲内の何かで必死に埋め合わせをしようとしている。それは、寂しくて悲しくもあり、自己嫌悪の塊に未だに真正面から向き合えない自分に残された逃げ道だった。そんなの、どんなに浅はかだなんてわかっている。だが、どうしようも出来なかった。
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