窓に吹きすさぶ強い風の声に利吉は目を覚ました。少しだけ開いていたカーテンの向こう側の無機質な景色には普段と何一つ変わらない色が映る。朝六時半。パジャマのままリビングに向かうと、背広に腕を通す父と目があった。
「利吉、今日も遅くなる。じゃあ行ってくる」
「行ってらっしゃい」
通っている学校の近くにあるマンションに、利吉は父と二人で住んでいる。利吉は身支度を整え朝食を腹に納めると、プラスチックゴミで膨らんだゴミ袋と鞄を持って靴を履いた。
「行ってきます」
母は利吉が十歳の頃に交通事故で亡くなった。玄関に飾っている家族写真の中で楽しそうに笑う母をちらりと見て、ドアを閉める。今日もいつもと何も変わらない一日がはじまる。学校に行って、友人と喋って勉強して……嬉しくも楽しくも悲しくもない毎日の繰り返しだ。これでいいんだ。この生活に不満を持たず何も望まず、毎日が繰り返されるなら。いや、それは少し悲しいかもしれない。ささやかな娯楽、友人、父、誰といても何をしていても決して誰にも埋めることの出来ない一人分の隙間が未だに塞がらない。本当は塞がる筈なんてあるわけないのに、その隙間を手の届く範囲内の何かで必死に埋め合わせをしようとしている。それは、寂しくて悲しくもあり、自己嫌悪の塊に未だに真正面から向き合えない自分に残された逃げ道だった。そんなの、どんなに浅はかだなんてわかっている。だが、どうしようも出来なかった。
「あっ、あのっ!」
鍵を閉め、学校の方向に爪先を向けたときだった。明るい声が背中を叩き、利吉の意識を引き上げた。確かに少年の声なのだけれど、舌足らずな子供みたいにやわらかな声だ。耳にとろけるはちみつのような優しい響きに利吉は睫毛を伏せた。
「はい?」
振り返れば、今から葬式にでも行くような真っ黒な服を纏う少年が視線を泳がせながら立っている。背は利吉よりも拳一つ分小さく、微かにえくぼをくぼませて微笑んでいる顔は、一瞬少女と見間違えるほどだった。ごみ袋を片手に持ちながら利吉は、まじまじと少年を見た。十月の掠れた風に揺れている栗色の髪や、真ん丸の瞳がどこか懐かしい。どうしてだろう、この人を知っているわけではないのに。
「おはようございます。僕とつきあってください!」
薄い唇が器用に動くのを利吉はぼんやりと見つめていた。起きてからまだ一時間ほどしか経っていない頭はきちんと働かない。霧の中を手探りで進んでいる錯覚に陥りそうになる。ちらちらと覗いた薄ピンク色の舌が完全に見えなくなったときに、ようやく少年の放った言葉を理解した。
「……っ!」
おい、ちょっと待て。誰ときみが付き合うんだ? 咄嗟に持っていたゴミ袋を相手に投げつけ、利吉は全速力で逃げ出した。よくわからない叫び声が後ろから聞こえた気がしたが、コンクリートを押し出す足は一向に止まらない。はぁはぁと肩で息をしながら利吉は学校の校門をくぐった。体全体に纏わり付く風はものすごく冷たいのに、制服の中は蒸し器のように暑い。額や首筋にはじわじわと汗が浮び、まるで夏のようだ。廊下はましてや、階段さえも走り抜けて教室についた時には、おそろしいほど自分が混乱していることに気が付いた。鞄を乱暴に机に置き、制服のボタンを外していく。たまらなく暑くて、熱かった。
「おはよう。慌ててたけど寝坊したのか?」
「おはよう。してないよ」
席につけば怪訝そうな顔の友人が何か言いたげに口を動かした。
「なんかあったのか?」
「いや……なにもない」
なにもない、というのは真っ赤な嘘だ。しかし、朝から少女みたいな少年に交際を申し込まれたなんて素直に言えるほど自分も今の状況を飲み込めていなかった。なんだったんだろう、あれは。考えたくもないが、もしかしたらストーカーや新手の嫌がらせかもしれない。男の自分が、そういう対象になっているかもしれないと思うと本当に気持ちが悪かった。朝食を無駄にしないように、腹を擦りながら窓の外を見る。清々しい夏を思い出すような透明な青い空を見ていると段々と汗が引いていくのがわかった。
アイツは、一体なんだ? わからない、わかりたくない。だが気になる。朝に起こった不可思議な交際の申し込みが気になって仕方ない。授業が始まり、昼休みが過ぎ、帰りのホームルームになっても利吉の頭はそのことでいっぱいだった。
学校が終わると、そのまま塾に行き今日の不調を取り返す如く勉強した。公式を詰め込みすぎた頭に、秋の夜風は心地好い。塾の帰りにコンビニで一本の清涼飲料水を買い、利吉は帰路についた。
「なんでここに……!?」
マンションの部屋の前で膝を抱えて座り込む少年の姿を目敏く認め利吉は絶句した。気付かれないうちに、逃げるか? あたふたしている利吉に気付いた少年がゴミ袋を両手で持って近付いてきた。もう逃げられない。利吉は覚悟を決めた。
「おかえりなさいっ! あの、これ……どうしたらいいのかわからなくて」
ごめんなさい、と少年は本当に申し訳なさそうな顔をした。渡されたゴミ袋を見て、そういえば驚いて投げつけていたのを思い出した。顔面に直撃したらしく、頬が少しばかり赤くなっている。いくら初対面でおかしなことを言われたとしても相手に危害を加えるのは許されない。軽い怪我だが保冷剤で冷やせばなんとかなるだろう。
「顔、腫れてるから冷やした方がいいですよ。保冷剤持ってくるから玄関入って」
「いいんですかぁ?」
謝るタイミングを見失いまるで他人事のように接してしまったのに、少年は幸せそうに目を細めて微笑んだ。やっぱりコイツはおかしい。そんな事を思いながらドアを開けたのは、顔に怪我をさせたという罪悪感からだと自分自身に言い聞かせた。
「ここで待っててください」
冷凍庫の奥底で眠っていた保冷剤を手にとり、利吉は足早に玄関に向かった。
「これで少しはマシになるかと」
「わっ。冷たいっ」
玄関で待たせている少年の頬に保冷剤を押し当てる。氷の静かな冷たさに驚いたのか少年の肩が大きく揺れた。なんだか悪い事をしているような気持ちになって利吉は眉を寄せた。
「あのぉ……お名前、教えてくれませんか?」
「え……?」
利吉の意識を引き上げたのは他でもない、この優しく甘い声だった。保冷剤を頬に押し付けている少年の目が不安そうに揺れている。本来ならば名前さえも告げずに帰ってもらおうと思っていたのに唇が素直に動く。
「あぁ、名前ね。山田利吉。きみは?」
「……利吉さん。僕は小松田秀作っていいます!」
小松田秀作、と舌の上でその名を転がしてみる。響きのよい名前だと素直に思った。
「小松田くんか。そういえば、朝のあれ、どういう意味?」
「朝のあれ?」
小松田はなんのことか覚えていないのか、ちょこんと首を傾げた。人の調子を崩したくせに、忘れたとは言わせない。利吉はむずむずと痒みを訴える心を宥めながら、小松田を軽く睨みつけた。
「つ、付き合ってください! とか言ってたじゃないか!」
「あれは引っ越しの挨拶ですよぉ。利吉さんのお隣の部屋に住むことになったので」
「はぁ!? どうして引っ越しの挨拶があれになるんだ!?」
「ご、ごめんなさい。僕がダメな奴だから」
少し大声を出しただけで弱腰になったり、引っ越しの挨拶が付き合ってくださいになる所からして、コイツはどうかしている。ちゃんと本を読んだことあるのか? 少しばかりボキャブラリーに乏しすぎないか? 利吉は呆れた顔を隠さず深く息を吐いた。
「……今から晩飯作らなきゃいけないんです。もう用がないなら帰ってくれよ」
「利吉さんが作るんですか?」
「母親いないので。家事は当番制」
「そうなんですね。なら僕がご飯作りますっ! 手当てのお礼に」
先ほどまでの弱腰はどこにいったのかと問い正してみたいほど、小松田は瞳を輝かせる。小松田と出会ってからまだ一日も経っていないのに、歯車の動きがちょっとずつズレてしまったような気がしてどっと疲れが出てきた。
「作れるんです?」
「僕ダメ天使だけど、料理は結構出来るんですよ」
ちょっとばかり腑に落ちない単語が脳みそに引っ掛かったような気がしたが、大量に出された塾の課題で手一杯で猫の手も借りたいほどの利吉は小松田にエプロンを手渡していた。
*
家にあるものは適当に使っていいと言うと、小松田は頷いて台所に籠った。小松田が料理が出来るというのが真実かどうか不安なところだし、何か変なことをしていないか見張るついでで、リビングで塾の課題を終わらせることにした。リビングで勉強なんて何年ぶりだろうか。母が亡くなる前は、晩飯を作る姿をちらちら見ながら勉強していたものだ。やっぱり小松田を家に入れるべきじゃなかった。チッと小さく舌打ちしたが、自分が料理する時間を課題に回せたと思えば損はない。
鬼のように出された課題が終わったとき、シチューのあたたかい匂いが鼻腔に届いた。そういえば、よくコメディ等に登場する爆発音や皿の割れる音がひとつもなかった事に利吉は安堵した。
「出来ましたぁ〜!」
ふわふわと嬉しそうな声で利吉を呼びにきた小松田はエプロン姿のままだった。手渡したいつも使うエプロンは黒色で、小松田の纏う黒い服と同化しているように見える。最初に出会ったときから思っていたが小松田に黒は似合わない。小松田にはもっと明るい色が似合う気がした。
「じゃあ、僕は帰りますね。手当てしてくれて、嬉しかったです。利吉さんはやっぱりお優しいんですねぇ」
きれいに畳んだエプロンを利吉に手渡した小松田はスキップするようになぜかリビングの奥に向かう。利吉はその腕を掴み、半ば引き摺りながら小松田を台所へと押し込んだ。まだ温かいシチューを適当な大きさのタッパーに入れると、すっと小松田の前に差し出した。
「……持ってけよ。きみが作ったんだろ」
「ありがとうございます。利吉さん」
何に感動したのかは知らないが小松田の目には薄い涙のベールが掛かっている。
「お邪魔しましたぁ!」
小松田は勢いよく頭を下げると、ベランダに続く窓を開けた。
「そこはベランダですよ!? ここ何階だと思って……」
「鍵を落としちゃったから外からしか入れないんです。でも心配いりませんよぉ」
タッパーを嬉しそうに持ち、小松田がベランダの柵の上に凛と立っていた。月の光を背中に浴びた小松田の輪郭が白くぼやける。無機質なコンクリートジャングルの背景にやわらかな羽が紛れ込んでいたのを、利吉は確かに見た。
「だって僕、天使だもん」