禁断に触れる 赤壁の戦いの後、褒賞である官職を退けた紫鸞は日陰の道を歩むことを進んで選択した。
記憶を失くす以前よりこのような生活を営んでいた為、何の蟠りもなく、そして気楽だった。
「紫鸞殿、無茶をして帰ってきましたね」
出迎えの言葉が、早速の皮肉だった。
窓から挿し込む光があどけない元化の肩にかかっている。少し前までは鋭さを感じるほど寒かった気がするのに、気が付けば暦上は三月で、鼻腔を擽るそよ風の中に新緑の気配がした。
木々や草花が活気付くのと同じように、賊徒や辺境の民族などが度々乱を起こす。
通常の進軍なら紫鸞には訳も無いのだが、敵軍――蓋を開ければそれは寄せ集めの集団に過ぎない――が予想を遥かに超える援軍を要請していた。お陰でかなり手こずった。
「すまない。手当を頼む」
「俺に治し甲斐ばかり作らないで下さいよ」
元化に小言を言われながら紫鸞は彼のされるがままになった。患部を曝され、処置の後は清潔な衣服に着替えさせられる。
元化の言う通り、確かに今回は少々強引に戦った自覚がある。
「無官の身なんですから、しばらくは無闇に出陣しないで安静に寝ていて下さい。紫鸞殿の回復力なら二日ほどじっとしていれば問題ないとは思いますが……」
薬草を採ってきます、と言い残して元化は部屋から立ち去った。言いつけ通り横になって瞼を閉じて、そのままウトウトしていると、周囲が次第に白んできて、その中から白鸞が煙に紛れて現れるのだった。
――これは夢か。
――それとも幻覚だろうか。
はたまた、白鸞による術の一つか。
重い瞼がこれ以上開けられない。
『紫鸞』
大切な人の声が聞こえた。温かくて柔らかで、どんなときでも優しかった、大好きだった人の声が。
このまま眠っていてしまいたい。
身体の痛みが薄れゆき、重力が消えて煙と共に浮かび上がりそうだ。
紫鸞のこの予想は的中し、背中がふわりと持ち上がった後はただただ空を浮遊して、やがて天井をすり抜けていって青空や白い雲と同列になった。
有り得ない。何故こうなる。いくら何でも自分が宙を浮くはずがない。そして白鸞は何処へ消えたのか。先程の甘やかす声色は、もう聞けるはずのない朱和の声だった。
『かつて――』
甘い声とは一転、理と嘆きが滲んだ少年の声が紫鸞の耳に届く。
『三皇の治世を継ぎ、中国を統治した最初の帝が存在した。後に黄帝と呼ばれ、彼は別の世界にて天啓を得る』
紫鸞が振り向くと、そこには同じく空に浮く白鸞の姿があった。
『黄帝は空を飛び焔や水簾の中を自在に行き来したという。……紫鸞よ、貴様は霊鳥の眼では飽き足らず、かのような力までも欲さんとするか』
ギッと睨み付ける白鸞に紫鸞は降参して言った。
『早く地上に戻りたい』
『……そもそも、何故お前が空を飛んでいるのだ』
『白鸞こそ』
『……』
白鸞は紫鸞の言葉を無視し、代わりに腕を引っ張って下へ下へと向かっていくのだった。
我に返った折に、見慣れた宿屋の一室と、心配して顔を覗き込む元化の顔面が目と鼻の先にあった。
夜更けの頃、辺りが静かになったことを確認した紫鸞は森の中で香を焚く。
紫鸞殿にあの薬草を使ったから幻覚も引き起こしてしまったんでしょうか、とは元化の言だ。その薬草を幾つか貰って、人の気配がしない暗い木々の下で火を起こす。
木を背にして凭れ掛かり、静寂の中で異質のように揺らめく火を見ている内に、目が眩むような香りが辺りを支配した。
「紫鸞……」白鸞が言った。「お前から私を誘うとは。珍しいな」
どうやらこの白鸞は実体のようだ。
一息ついて紫鸞は安堵する。
「白鸞の幻覚を見た」
「何……? 私の幻を? 霊鳥の眼を持つ、お前が」
紫鸞は眉を下げた。
「先程も同じことを同じ人から言われた」
「……お前がわざわざ呼ぶということは、事なのだろう」
言い切る前に白鸞は声を荒げた。
「まさか! 新たな脅威が現れたと言うのか!」
「いや違う」
「それを察知できなかったとは……私も地に堕ちたものよ!」
「落ち着いて欲しい」
紫鸞は白鸞の肩を両手で掴み、前後に揺さぶって無理矢理彼を止めた。
真正面にある紫鸞の大きな瞳がゆらゆらと輝いていて、白鸞は一瞬思考を止める。
何の憂いもなく、澱みもない清らかな表情で微笑む奴の顔は、視界に入れるなと言う方が難しいほどに麗しい。
そんな紫鸞の顔を、この私が曇らせている。
「……何故私を呼んだ」
視線を火へ向けて白鸞は訊ねた。
「本物の白鸞に会いたくなった」紫鸞が続ける。「それでは駄目だろうか」
「うっ」白鸞が答える。「駄目……ではない」
弱気な言葉だが、紫鸞はそれを聞き逃さなかった。
「よかった」
目を細めて笑う彼を見て、白鸞の心も晴れるのだった。