「夜に森へ入ってはいけないよ、鴉に闇へと連れて行かれてしまうからね」
小さい頃、祖母から教えてくれた言い伝え。近所にある小さな森を一緒に通る度にその言い伝えを口にしていた。そして、その度に、祖母は険しい顔で森を見ているのを今でも覚えている。
だけど、年を経ていくうちに言い伝えは子供を躾る為にわざと怖い話をしていたのだろうと思う様になっていた。そうやって、頭の隅にそんな話があったなと忘れていく筈だった。筈だったのだ『あれ』に会うまでは。
藪に身を潜めて息を殺す。両手で口を覆い、出来る限り音が漏らさない様にする。
木々の間から朱金色の光が垣間見える黄昏時、しかし垣間見えるとしても僅かな光、それ以外は既に夜の様に暗い森だ。
少年はこの森を通学路として使っていた、この森を突っ切って行く方が時間を短縮出来るから。その便利さから三年間も使っていたのだ。
今日も同じ様に使っていたのだ、ただいつもよりも帰りが遅くなり既に日が傾いていた。そんな時間帯に森へ入った事はなかったが通い慣れている道はまだ明るく、帰るだけなら問題はなかった。
そう、問題はなかったのだ。だからこれは少年にとって間が悪かった事なのだ。
帰り道、少年は森の中に佇む黒い人を目にした。黒いコート、黒い帽子、暗い森に溶け込みそうな出で立ちの人に少年は首を傾げながら通り過ぎようとした時、足元の小枝を踏んだのだ。
ばきりと、静寂の森に響いた音に少年は思わず息を呑み、黒い人の方に目を向けた。それが悪かったのか少年には分からない。
出で立ちと同じ黒い仮面を着けた顔が自分を見つめていた。
土を踏み締める音が聞こえて少年は身を強張らせる、もう追い付かれてしまった。
少年はあの場から直ぐ様に逃げ出した、よくは分からないが直感であの人に捕まってはいけない。そう思って逃げ出したのだ。
だけど、逃げてもすぐ近くで土を踏み締める足音が聞こえてその度に走って、次第にいつも通学路に使っていた道を外れ、遊歩道として整備されていない場所に辿り着いてしまった。
遊歩道から外れるとこの森はこんなに暗かったのか、と現実逃避の様な感想が出てくる。
それでも足音は近付いて来て現実を突き付けられる、隠れているこの藪から飛び出して逃げてもきっと逃げ切れない。このまま隠れていても見付けられてしまう。
追い詰められた、少年は足音を聞きながら祈った。
──どうか、そのまま通り過ぎてくれ。
沈黙を破る様にカァと烏の鳴き声が響いた。思わず少年が悲鳴を上げそうになるのをぐっと堪える。烏の鳴き声に聞こえていた足音が止まった。
少年は藪を少し掻き分けて向こう側を覗く、黒い人の足元に普通の烏よりも一回りくらい小さな烏がいた。
小さな烏は懸命に黒い人に何かを伝える様に鳴き、黒い人はその小さな烏に鷹揚に頷きながら耳を傾けている。そして、ゆったりと黒い人が左腕を差し出せば、小さな烏はその腕に飛び乗った。
一瞬、黒い人が此方に目を向けたが、興味を失くしたのか少年の隠れている藪に背を向けてその場から立ち去って行った。
足音が遠ざかり、完全に聞こえなくなって少年は隠れていた藪から出て来た。
少年はあの小さな烏に、感謝の言葉を胸中で呟きながら森の出口へと向かって駆け出した。
小さな烏を腕に留め、ゆったりと歩いていた足が止まる。足を止めたその人に小さな烏が促す様に鳴く。
「もう結構ですよ、私に嘘を言わなくても」
黒い人──ティーフェドルフは唇を弧に描いて小さな烏を見下ろせば、烏はぎくんと身体を強張らせる。強張らせる烏にティーフェドルフは右手を伸ばし、愛おしむ様にその小さな身体を優しく撫でる。
「可哀想に、こんなに震えて……良いでしょう。あの子を闇の森へ案内出来なかったのは残念ですが、小さな同胞に免じて見逃して差し上げましょう」
ティーフェドルフはコートを翻し、夜よりもなお暗い森の奥へと消えて行った。