さて、今夜自分がいただくのは「お酒飲んでからエッチしよ」
そう言ってチリはにこやかに乾杯の余韻と酒を一気に飲み干した。突如突き付けられた言葉にアオキはグラスを口に運ぶ直前で硬直する。
今日は週末、明日はチリとアオキ二人そろっての休日。またとない晩酌日和に二人はリーグをさくっと定時退社し、デリバードポーチや缶の大将を駆け巡って缶ビールとつまみをかき集めた。ずっしりと重いビニール袋をどっちが持つかでじゃんけん攻防しながらの帰路は、大変楽しいものであった。
その集大成を前にして、チリとアオキはいざ乾杯――したところで、冒頭の爆弾発言を彼女は投下したのである。
「なんでまた急に」
「酔っとる時にシたことないなーって」
「危ないですよ」
「そうかなぁ。ならアオキさんはシラフでおればええんやない」
「数々のつまみたちが自分を呼んでいるのですが」
「なははは」
アオキは目の前のテーブルに所狭しと並べられたおつまみに目をやる。味卵、タコワサに土手煮、生ハムとクリームチーズにきゅうりのキムチ和え、冷やしトマト、他にもいろいろ。チリと共におおはしゃぎした戦利品を、お酒と共にたらふく食べることを楽しみにしていたのに。
「チリさん一人だけ飲まないでくださいよ」
「ほな飲んじゃえば?酔ってふにゃふにゃになってお布団入ろ?」
「酔った状態で抱くとなると、どうなるか分かりません」
「今夜、分かっちゃいます?」
「……ダメです」
アオキは飲むべきか長考に入ってしまう。飲酒後に激しい運動など危険極まりない。ましてや体格差も筋力さもある二人、うっかりコトの最中に怪我でもしたら一事が万事、シンプルに危険である。チリがこの瞬間にもどんどん酒を入れている今、アオキは飲まないのが無難だろうと考えた。
しかしである。週末に最愛の恋人と晩酌、魅惑のつまみを肴に杯を重ねるというこのシチュエーションをみすみす逃すのも口惜しい。自分だけ飲まずにもくもくと料理を片付けるなど、イチゴの乗っていないショートケーキを食べ、アルコールの入っていない酒を飲むようなもの。物足りないったらありゃしない。
さりとてここで酒を飲んで酔ったとしても、有言実行不言実行、行動力の権化であり化身であるチリは晩酌の後に確実に夜のじゃれつきへと誘ってくるだろう。酔った状態で最愛の恋人と肌を合わせるなど甘美のひと時。いつもより火照った彼女の柔肌に手を滑らせる感触、理性の蕩けたチリの口から発せられる声の色、くったりと力が抜けた細い身体を抱く、征服によく似た欲望。
酔った頭でそれらをきっぱり断れる自信がアオキにはなかった。悲しいかな、成人男性の性である。
「アオキさーん」
「……」
「あかん、ロード中になってまった」
「……」
「いぶりがっこのポテサラ、さらえていいー?」
「……」
「いただきますね~」
恐らく、否、確実に理性と誘惑の間で揺れているアオキを肴にチリは酒をひとくち舐める。ああ楽しい、アオキさん優しい。これだからいつまで経ってもこの非凡な男に惚れ直すし、同じくらいからかいたくなってしまうのだ。
チリは分かって言ったのだ。酔った状態でエッチしましょ、その言葉にほいほい乗ってくるような大人でないことを。しかしあっさり情欲を切り捨てられるほど淡泊でもないことを。食事を愛する彼が、純粋に晩酌を楽しみたいのにと歯噛みするような性格であることを。アオキが欲に負けてチリと一緒に晩酌とつまみを楽しんだとしても、彼は酔いに任せて彼女に無体を強いることなどないことを。ずっと沈思黙考するアオキは、イチゴの乗っていないショートケーキのようにただひたすら甘く甘く、アルコールの入っていない酒のように安心でいられるのだ。くすぐったいったらありゃしない。
あらかた清酒を楽しんだチリは缶ビールを手に取る。しゅわしゅわと心地いい炭酸と軽やかな苦みが楽しい。
ぷは、とチリが満足気な声を漏らしたタイミングでアオキが再起動した。
さてどうするのだろうか。チリは缶ビールに口をつけたままアオキを盗み見る。どう転んでもチリは嬉しいし
楽しい。今宵アオキは飲むのだろうか、飲まないのだろうか。チリの誘いには乗るのだろうか、乗らないのだろうか。
「チリさん」
「はい」
「名残惜しいですが今夜は飲みません」
「…おお」
お酒は逃げませんので、と仄暗い水の底の色の目でアオキがこちらを見つめてくる。
「チリちゃんのお誘いには」
「…………乗りません」
「間ぁあったな」
「酔った貴方を抱くことはしません」
「んふふ、それは惜しいなぁ」
ほんのちょっぴりのからかいだったのだがアオキの目は真剣だった。その視線に射抜かれチリはようやく申し訳なさが涌き出てきた。
「まさかそんないっぱい考えてくれるなんてな、アオキさんすんませ――」
「なので明日にします」
「ん?」
「明日、あなたをいただきます」
「ええ?」
アオキは何か吹っ切れたかのように、グラスの中の酒を無視して次々とつまみだけを平らげていく。唐揚げ、きゅうりをバリバリと咀嚼し、生ハムとトマトが消えたところでパチパチと目を瞬かせていたチリが声を上げる。
「どういうことです?」
「チリさんは酔っています。今夜は自分の温かい抱き枕とさせてもらいます」
「抱き枕にはするんか」
「最高の抱き心地です。そしてチリさん、あなたは自分を誘いましたね」
「誘いました」
「なので。酔いの覚めた、明日のチリさんを」
「……」
「抱くことにします」
アオキは待てを解かれたイワンコの如く次々とつまみに齧りつき腹を満たしていく。それなのに、チリを見るくろいまなざしはどこまでも飢えていた。チリの頬が酔いではない朱でポッと染まる。体温がじんわり上がるのに、背筋にはえもいえぬ悪寒が走った。
「据え膳食わぬは男の恥、でしたよね」
「……うん」
「なので、いただきます」
あなたは逃げないでくださいね、と仄暗い光を宿したアオキがこちらを見つめてくる。
チリはただただ、こくりと頷くしかなかった。