クラカイ小話①今朝は、空気が澄んでいた。
秋の里を渡る風が、金の稲穂をなでてゆく。遠くで子どもたちの笑い声がして、柿の実をついばむ鳥の羽ばたきが、屋根瓦に軽く響く。風はどこか懐かしい香りを運んで、日々が静かに移ろっていくのを知らせていた。そういったものを、クラマは胸いっぱいに吸い込んで、静かに目を閉じる。
そして、自身の髪に掌を滑らせ、最も手触りのよい一房をそっと抜き取った。
黒と赤が混ざったなめらかな髪――鳥の尾羽のように形をなし、見る角度によって、紅葉のような朱が浮かびあがる。
「……どうせ、気づきはしないがな」
小さくつぶやいて、それを袖の中にしまいこみ、つま先を部屋の外へと向けた。
歩き出す足は、自然とあの庭へ向かっていた。この時刻なら、カイは南の庭園にいることが多い。必ずいるわけではないが、行けば、もしかしたら、というくらいの確率で。会えたら嬉しい。でも、それを期待だとは、あまり認めたくなかった。
「おう、クラマ!」
果たしてそこには、予想通りの姿があった。カイは、南の庭園の東屋で寝ころんであくびをしていて、クラマの姿を認めると、いつものように、陽気に腕を振って声を響かせた。
乱れ気味の髪を風になびかせ、仮面の下からまっすぐな声を飛ばしてくる。声も身振りも手振りも大きい。まるで山が動くような存在感だった。
「……いちいち騒がんでも聞こえている」
「いいじゃねえか、あいさつだ。それよりも、今日こそ借りを返してやるよ」
「ゲームに10連敗している借りを、か?」
「……俺だって毎回勝つつもりなんだよ、いちおう」
そんな軽口を交わしながら、クラマはそっと東屋の片隅に、落とすように羽を置いた。
気づかれぬように、ただ「そこにあった」かのように。
天狗にとって、自身の羽を贈ることと心を明け渡すことは同義だ。言葉にするには、邪魔になるものが多すぎた。
カイは、気づく。
ゲームの勝敗がついた帰り際、クラマが居た場所の少し向こう。ふとそれを拾い上げる。
あの羽根――いや、髪か。けれど、どう見てもただの髪ではない。鳥のような質感と、炎のような色合い。やわらかいのに凛々しい空気をまとっている。明らかに、クラマのものだった。
「……また、落ちてたぜ」
誰に言うでもなく、ぽつりと呟く。
そして、それを光にかざす。
ふと、口元がゆるんだ。
「こういうのって、売ったら金になるのか?」
笑い混じりにそう言いながらも、カイはそれを、躊躇なく口元へ運ぶ。
ぱくり、とひとのみ。
一呼吸おいて、じわりと腹が熱くなった気がした。
誰もいないのをいいことに、堂々と言う。
「誰かに売るなんてもったいねぇ。俺が喰って、俺の血に、俺のもんにしてやるよ……そっちのほうが、ずっと、いい」
音もなく風が通る。道の端の小さな花が、揺れていた。
ほんとうに伝えたいことは、きっとどちらも言わない。
けれど、それでも羽は届けられ、そして密かに、誰にも見られない場所で、喰われていく。
ふたりの時間は、誰にも気づかれぬまま、静かに、甘く色づいていった。