クラカイ小話⑧夜の帳がしとりと降りて、秋の風が鈴のような音を運んできた。やわらかな明かりが、格子窓の奥でぼんやりと揺れている。
クラマの棲家――秋の神社の一室。
その隅に、カイが寝そべるように居座っていた。片手には酒の瓶。まるで我が家のようにくつろいでいる。
神の住まう空間に鬼が入り込み、酒を飲んでいるのだから、本来ならば罰当たりもいいところだ。
けれど、クラマはそれを咎めることなく、ただゲームの画面を見つめていた。
「なぁ、それってなんで口をくっつけるんだ? 何か楽しいのか?」
カイの声が空気を裂くように弾け、手にした酒の瓶が傾けられる。隙間風がその香りを運び、クラマの鼻先をかすめた。
「……愚問だな。言語を交わすように、触れることでしか伝わらない感情もある。だが……お前にそれを語っても無駄か」
クラマはため息をつきながらも、それ、と指されたゲームのシーンへと意識を戻した。静かな画面の中では、キャラクターがゆっくりと顔を寄せ、息を合わせるように唇を重ねていた。
柔らかな音楽が流れ、月光の下で交わされる儚い口付けは、たしかに誰かの心を動かす仕掛けだった。
愛情を表現する手段としてのキス。それは誰にでも開かれているものではない。ましてや、クラマが想いを向ける相手とは縁遠いものである。
「へぇ。だったら、俺もやってみりゃわかるか?」
「……ああ、そうだな。試してみればいいさ」
その言葉に棘を忍ばせてしまったのは、心に刺さる嫉妬心があったからだ。誰かと口付けをするカイ。想像するだけで、心がざわめく。そのざわめきを、心のうちに押しとどめられなかった。
「じゃあ――お前で、いいよな」
「は?」
軽薄にも響きかねないその声の直後、カイとの距離が縮まりすぎていたことにクラマは気づいた。
気づいたときには、眼鏡の縁が仮面の端にぶつかり、乾いた音が頬を打った。ほんのわずか、かすめた唇。羽のように軽く、あまりに短く、そして衝撃的だった。
「お、お前、酔っているのか!?」
「んなわけあるか。これっぽっちの酒で酔わねぇよ」
「……ならどうして、俺に口付けを?」
「だってお前が『やってみろ』って言ったじゃねぇか」
クラマは息を呑んだ。カイの言葉はいつも、まっすぐで、悪気がなく、だからこそ、たちが悪い。こちらの感情を簡単に振り乱す。
「それで……何か、わかったのか」
「おう! 口付けするときは面が邪魔ってことがな!」
そう言って、カイは無造作に仮面を外した。ついでに、と言わんばかりにクラマの眼鏡も取り去られる。その仕草はあまりにも自然で、止める間もなかった。明かりに照らされたその素顔は美しく、神々しささえ感じさせた。クラマの理性にひびが入る。
「……っ」
距離が、再び、近づく。クラマはそれを拒まなかった。いや、拒めなかった。目を閉じたわけでもないが、気づけば唇が重なっていた。
今度は、はっきりと。触れ合うだけの、だが確かな口付け。
そしてカイはすぐに離れようとした。「こんなもんか?」とでも言いたげに。けれど、クラマの中で何かが、弾けた。
去ろうとした肩を、クラマの手が強く引き戻す。
「――待て。まだ終わっていない」
低く、囁くように言ったクラマの声は、自分でも驚くほど色を帯びていた。
艶やかな唇を引き寄せ、もう一度みずからの唇を重ねた。
カイは、最初は驚いたように瞠目した。けれど次第にそのまぶたは降り、肩の力が抜けてゆくのが、唇ごしに伝わった。唇と唇の間に、濡れた熱が滲む。
クラマは自分の呼吸が乱れていることに気づいたが、止めることはできなかった。
ぴたりと重なった唇は、生きているものの温度だった。柔らかく、潤みを帯びていて、わずかに酒の香りが混じる。
カイの唇をなぞりながら、クラマはゆっくりと角度を変える。表層を繰り返し啄むことで、受け入れる意識を深めていく。
浅く、深く。押し当てるたびに、カイの身体の芯がじわりと溶けていくのがわかる。
――気持ちいい。
そんな風にカイが感じているのを、クラマは全身で感じ取っていた。
そして、探るように舌を差し入れた瞬間――硬い感触が、先端に触れた。
牙。鬼の証。
獰猛さの名残を宿したその八重歯に、クラマは丁寧に舌先を這わせる。ぴくりと揺れた肩を撫で、歯の先端をも舌で撫でる。
「……っん」
カイが小さく息を呑む。普段なら絶対に見せない、無防備な音だった。
その反応がたまらなく愛おしく、同時にクラマの情欲を煽った。
舌先を巧みに牙へと沿わせ、わずかに引き寄せ、またぬるりと舌を滑らせる。
鋭さに触れる感触は、まるで遊戯の刃のようだった。切っ先でくすぐられるたび、クラマの理性もひりつくようにざわめいた。
もっと触れたい。
もっと、カイの中を知りたい。
受け入れるように、カイの身体がクラマへと重みを預けてくる。
焦らすように繰り返し唇を重ね、ゆっくりと、けれど確実にキスの意味を教えてゆく。
伝えられない想いの代わりに、何度も何度も。
しばらくの後、唇と体を離したとき、秋の空気がふたたび肌を撫でた。
カイの合わさっていた豊かな睫毛が分かれて、竜胆の光が覗く。
それは、不自然なまでに澄んでいた。
「……口付けって、案外、気持ちいいんだな。またしようぜ、クラマ」
クラマは数秒、言葉をなくした。
残る唇の感触はまだ強い熱を持っているのに、目の前のカイはいつもの調子で、飄々と、何の下心もなく笑っていた。
まるで、駄菓子でも食ったあとの感想のように。
「……は。勝手に言ってろ」
呆れるより先に、萎えてしまった。
その無垢な笑顔に触れた途端、胸の奥に渦巻いていた熱が、まるで霧が晴れるように溶けていく。
「だが……せめて次は、少しは学べ。無知は罪だ」
踏み越えれば戻れない一線があることを、クラマは知っていた。
そして、カイはまだ、それを知らない。
触れてしまった唇の記憶は、熱の名残を残したまま、理性の裏側でじくじくと疼いていた。