クラカイ小話⑪春の里には、薄桃の霞が地表すれすれに漂い、光は若葉の縁を撫でてから、いろは茶屋の庇へ滑り込んでいた。
湧き水にとけた土の匂いと、お茶や団子の甘い香りが混じる。
カイは串団子をがぶりとかじった。焼いた米粉の香ばしさに、甘醤油が舌に残る。隣で湯呑みを両手で包むカグヤが、カイの言葉を反芻する。
「クラマさんの様子がおかしい、ですか?」
カグヤが囁くように言った。湯の表面で、春の空が小さく揺れた。
「おう」
カイは短くうなずき、また団子を頬張った。
言葉少なな肯定の奥で、カイの胸はざわついていた。ざわつきの正体を、彼自身はまだ言葉にできていない。
ただ、あの悪友とも呼べる秋の神が、最近よく目をそらすこと、ゲームに誘っても家に上げてくれないこと、そして何かを言いかけては唇を閉ざすこと――それらの断片が、胸の内側で細かい棘となって刺さっていた。詰め寄る気にはなれなかったのは、クラマの中で何かが変わり、その変化を扱いあぐねているようにも見えたからだ。
「いつからでしょう?心当たりは?」
「小せぇことならあるっちゃあるけど、今さらだしな。時期は……お前らが祝言を挙げたあたりからだな」
『お前ら』という言葉にカグヤは頬を染めた。軽く持ち上げた視線の先で、うららかが笑っている姿が見える。
神は役目のためにも独りでいるものだ――クラマがそう言っていたことを、カグヤは思い出す。だが、うららかとカグヤの婚姻という前例が、秋の神の胸中に風穴を開けたのだろう。そこへ流れ込んだものは、誰の目にも、少なくとも春の神の目には、甘露のように見えたに違いない。
「秋の里も変なんだよな」
カグヤは眉を寄せる。
「悪い兆しでしょうか」
「いや、その逆だ」
カイいわく、米は重たく穂を垂れ、牛馬は毛並みを艶やかにして鼻息荒く、ほんのり気温が高い。春に咲くはずの小花が、紅葉の根元でひっそり開いているらしい。
「里が、落ち着きがねぇ感じがするっていうか……つーか、里が浮ついてるんだったら、やっぱりあいつがおかしいのか?」
誰が、とは言わなかったが、誰のことかは茶屋の猫でも知っている。
「まあ」と柔らかな声とともに、うららかが湯差しを片手に近づいてきた。
「芽吹く前って、土の下が一番そわそわするんですよ。胸の奥でちいさな芽がきしむ音、聞こえたりいたしませんか?」
言外の色を含んだ柔らかな声音に、カグヤは思わず視線を泳がせた。カイはといえば団子の串を噛み直すだけで、返事はない。
考えても仕方ない、とカイは立ちあがる。椅子がぎし、と鳴った。
「クソ天狗に直接聞いてくるわ!」
カグヤは驚いた顔で見上げ、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。
「気をつけて。秋の風はまだ冷たいですから」
うららかは袖口を合わせて、春の花びらのように軽く手を振り、大きな背中を見送った。
青空をゆく小鳥がさえずり、茶屋の暖簾が静かに揺れを止める。
「うららかさん、ひとつ確認したいのですが」
カイが去った方向へ視線を向けたまま、カグヤが口を開いた。
「はい、なんでしょう」
「クラマさんは、カイさんのことが」
「好きですよ。もう、何十年も前から」
即答に、カグヤは目を瞬いた。とはいえ、与えられた返事は予想通りのものだった。
「──ですよね。それで、カイさんも、」
野暮な気がして言葉を切る。うららかは小さく笑った。
「言わなくても、春風の音が教えてくれますわ。カイさんの足音、弾んでいましたもの」
カグヤは湯呑みを掌で温めながら、あたたかな息をひとつ吐く。
「秋の里に春が訪れるのも遠くなさそうですね」
「はい。──では、わたくしたちは温かいお茶をもう一杯。あのお二人に負けないぐらいの」
湯を注ぐ音が、静かに広がった。甘い香りが満ち、ふたりは目を合わせて微笑んだ。春の花びらが、風の行方をそっと探っていた。
***
その日の黄昏、春の里のいろは茶屋。
「結婚することになった!」
戸口をがらりと開けるなり、カイが声を張り上げた。
「お前はなんでそう短絡的なんだ……」
突風のように飛び込んできたカイの背後で、長身の紅葉の影が頭を抱えている。
カグヤが湯呑みを取り落としかけ、うららかが手を伸ばしてそっと支える。春の神は目を細め、ふわりと笑った。
「まあ。おめでとうございます」
「クラマさん、カイさん、おめでとうございます」
朗らかに祝うカグヤから離れ、うららかは湯差しを持ったまま一歩進み、湯気の流れを遮るようにクラマの側へ寄った。
「ついに願い叶いぬるのですね」
カイにも聞こえる声量なのに、意味を拾えるのはクラマだけだとわかる調子で、柔らかく告げる。
クラマは目を見開き、気まずそうに咳払いをした。春の神はそれ以上は言わず、静かに湯を注ぐ。
暖簾の向こうで、桜の花びらが一枚、季節を越えて舞い込んだ。秋の風がそれを拾い上げ、ふたりの肩口でそっと遊ばせる。
カイは胸を張り、クラマはやれやれとため息をつく――しかしその手は離さない。
里の空気が、さらに甘くなる。米はまた、予想以上に実るだろう。小さな花は、季節を忘れて咲くだろう。
神がふたりで笑ったのだから、季節たちも騒ぎたくなるのは当然のことだった。