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    私見まみれダイジェストフランス第二帝政期元帥紹介

    SNSで投稿した第二帝政元帥ズの紹介画像の追加説明的な記事です(ぷらいべったー投稿記事から転載)こんにちは。コワレ宇スキヰです。

    以前フランス第二帝政期に元帥位を授与された元帥全員を描いたイラストを投稿し、さらに昨日(2024.06.28)にそれぞれの元帥の紹介を乗せたもの(※)を投稿しましたが、いかんせんスペースの限界だったりいろいろヤケクソだったり(文章書くの苦手)だったりな状態ではあるのでもう少しだけ詳しく書いた紹介を投稿したいと思います。といってもこれもかなりダイジェスト気味で私見まみれですが……
    気になる方は調べてみてね!(結局ぶん投げ)

    ※各SNSに投稿した画像でマク=マオン、ニエル、ドルナノ各元帥生没年にミスがありました。こりらに投稿した画像では修正を加えています。大変失礼いたしました…

    なお時期によっては第二帝政以前に元帥位を授与された元帥が存命だったりもしますが(サン=タルノーとか)、この紹介では第二帝政期に元帥位を授与された人物のみ取り上げています。



    ・アシル・バラゲ・ディリエ Achille Baraguey d'Hilliers (1795-1878) 授与年:1854年
    ナポレオン戦争経験者で、マルモン元帥の副官を勤めていた際ライプツィヒの戦い(1813年)で左手先を失っている。
    帝政崩壊後も軍に仕官を続け、七月王政期にはサン=シール士官学校の校長も勤めている。
    1851年のローマ侵攻の際にはルイ=ナポレオン大統領から占領軍の総司令官並びに特命大使として派遣されている。クリミア戦争、イタリア統一戦争にも参加し、1870年にパリ軍事総監となるもいろいろあってすぐにトロシュ将軍に交代となった。
    サン=シール校長時代生徒たちにめちゃくちゃ厳格な律し方をしていたようで、生徒の間で後年もネタにされていた模様(現在も続いているのかは不明)
    確認した限り写真が現存していない?

    ・エマーブル・ペリシエ Aimable Pélissier (1794-1864) 授与年:1855年
    とてもちっちゃいけども怒ると死ぬほど怖い人。どれだけ恐れられていたかというと寝ているペリシエの機嫌を損ねたくないがために重要命令の通達を副官が嫌がったほど(いいのか)
    長らくアルジェリアで勤務を行い、悪名高いいわゆる”燻蒸作戦”にも積極的に参加しており、ダーラ洞窟での燻蒸虐殺を指揮していた。臨時でアルジェリア総督職に就いた経験があり、本人は正式任命を望んでいたが、長らくその職には就けない事になる(後述)。
    クリミア戦争ではカンロベールの後を継ぎ、3番目のフランス軍総司令官としてセヴァストポリ攻略を指揮するが、自分の指揮に絶対服従的な態度を求めるあまり後に同じく元帥に任命されるニエルやボスケといった将軍と相当喧嘩した模様。クリミア戦争後は同年代の元帥や将官が引き続き戦場に出ているにも関わらず戦闘には参加しなかった。1860年にようやく念願のアルジェリア総監に任命された。
    クリミア戦争での功績でマラコフ公の公爵位を授与されている。

    ・ジャック・ルイ・セザール Jacques Louis César (1795-1871) 授与年:1856年
    自身が持つ伯爵位ランドンの通称で呼ばれている事が多い(気がする)。
    叔父に自身が副官として勤務することとなる第一帝政期の将官マルシャン将軍とフイヤン派を結成した大革命期の政治家のバルナーヴがいる。
    第一帝政期にはロシア戦役に参加し、1815年には国王軍にいた叔父と一緒にラフリーでナポレオンを迎え撃つも無駄に終わりその後ちゃっかり帝国側に寝返っている。
    七月王政期にアルジェリアへ派遣され、管理能力の高さから昇進を重ねるが、クーデタへの協力は拒否したため、当時就いていた陸軍大臣の任を解かれサン=タルノーに交代になる。その代わりにアルジェリア総督に任命される事になる(この人事にペリシエが滅茶苦茶不満を持つ事になった)。この人がアルジェリア総監を勤めていた時期にアルジェリア領土が現在の国土と同じ領域まで占領された。1859年に再び陸軍大臣となるも軍の方針を巡ってナポレオン3世と対立し、ニエルと交代となる。

    ・ピエール・ボスケ Pierre Bosquet (1810-1861) 授与年:1856年
    エコール・ポリテクニーク在学中の1830年に当時の国王シャルル10世打倒の反乱に参加していたりする。
    アルジェリア派遣後多数の部隊を指揮していき将軍まで出世し、アフリカ植民地軍でも最も優秀な将官の1人とされた。
    第二帝政下ではクリミア戦争へアルマの戦いから(ペリシエとバトりながら)セヴァストポリ包囲まで参加した。バラクラヴァの戦いでの英軽騎兵旅団の突撃を援助しつつ目撃しており、「見事だが、これは戦争ではない(=狂気の沙汰だ)」とコメントを残している。インケルマン、マラコフの戦いにも参加し、連合軍勝利への重要な役割を果たすがマラコフの戦いで重症を負ってしまう。その傷もあってか戦後しばらくして健康状態を悪くし、そのまま若くして亡くなってしまう。

    ・フランソワ・ド・カンロベール François de Canrobert (1809-1895) 授与年:1856年
    サン=シール士官学校卒業後アルジェリアで頭角を現したが、原住民への苛烈な仕打ちには批判的だったらしい。
    クーデタにも協力しているものの、12月4日に発砲元不明の銃声から起きた民衆蹂躙の際に軍の部隊を率いていたのはこの人。
    クリミア戦争ではサン=タルノーの後を継いでフランス軍総司令官となるも、本国と英国の要請に板挟みとなって耐えられず任をペリシエに譲っている。
    イタリア統一戦争ではマジェンタ、ソルフェリーノの戦いにおいて功績をあげた。
    普仏戦争ではライン方面軍の指揮を執ることを拒絶しバゼーヌにまかせた。サン・プリヴァの戦いではプロイセンの近衛歩兵第1連隊を壊滅させるなどしたが、弾薬も援軍も不足する中メスで包囲を受け、捕虜となる。
    雄弁家で兵士の士気を鼓舞するのは得意で人気も高かったが、プレッシャーには弱めで実際の指揮能力については疑問が残るところ。
    なお、第三共和政フランスではWW1後まで元帥位の授与を行なっていなかったため、マク=マオン元帥が亡くなった後はしばらくフランス最後の元帥だったりした。

    ・パトリス・ド・マク=マオン Patrice de Mac-Mahon (1808-1893) 授与年:1859年
    先祖はアイルランド出身で、ルイ15世時代からの貴族の家の出。筋金入りの正当王党派。
    サン=シール士官学校を卒業後アルジェリアに派遣され、長期間参謀として数々の将官に仕えた(ちなみにその中にシャンガルニエもいる)1852年に前年のクーデタの承認を求める組織票をアルジェリアの方で工作していた模様。
    クリミア戦争勃発の際はまだアルジェリアで勤務していたが、同じアルジェリアで軍務に就いていたサン=タルノーフランス軍総司令官が書簡でマク=マオンを師団の指揮官として迎えたいと要請、その翌年にセヴァストポリに向けて出発した。マラコフの戦いにおけるマラコフ堡塁の占領で大きな役割を果たし、「我はここに在り、我はここに留まれり(原文:J’y suis j'y reste)」という有名な言葉を残した。
    戦後一度再びアルジェリアに戻った後、1859年にはイタリア統一戦争に参加してマジェンタ、そしてソルフェリーノの戦いでの勝利に貢献した。
    1864年にペリシエの後任でアルジェリア総督に就任。普仏戦争では指揮の精彩を欠き、アルザス方面で敗北を重ねセダンの戦いで負傷し、捕虜となった。その後1871年にフランス国防政府によりヴェルサイユ軍の司令官に任命され、パリ・コミューンの弾圧を行なった。
    1873年にはティエールの後任で成立したばかりのフランス第三共和政大統領に就任したが、王党派だったマク=マオンは共和派のジュール・シモン首相を解任(5月16日の危機)、その後の議会選挙では共和派が躍進し、議会内の王党派と共和派の軋轢がより深くなってしまったため、任期を待たずに1879年に大統領職を辞任することになった。
    イタリア統一戦争での功績により、マジェンタ公爵位を授与されている。

    ・アドルフ・ニエル Adolphe Niel (1802-1869) 授与年:1859年
    工兵科出身の元帥。1821年にエコールポリテクニークに入学、1825年から工兵将校として各地で勤務に回った。
    1837年にはアルジェリアにれコンスタンティーヌ包囲戦に、1849年にはローマ包囲に参加した。
    クリミア戦争ではナポレオン3世から現地軍の作戦遂行の状況を報告するよう任務を受けていたが、それがペリシエの気に障ったらしい。セヴァストポリ包囲では東部軍の工兵を指揮した。なおさらにナポレオン3世の命でイタリア王国とは同盟締結(ナポレオン公のイタリア王女との婚姻も)を行えるようヴィットーリオ・エマヌエーレ2世とカヴールへの交渉も行っている。
    イタリア統一戦争ではマジェンタ、特にソルフェリーノの戦いにおける冷静な指揮が評価された。
    1867年にランドンの後任で陸軍大臣の職に就き、近代化等軍事改革を行おうとするも、立法府の硬直具合に悩まされ大した成果をあげることができず、誘導警備隊(garde mobile 徴兵されていない全ての健常男性に軍事訓練を行わせて編成された予備部隊)の創設も不完全な形に終わってしまった。
    包囲戦の指揮に長じていた事から”ポリオルケーテ (原文:Poliorcète アンティゴノス朝マケドニアの王で攻城戦が得意であったデメトリオス1世に由来)”というあだ名を持っていた。本人は地位や権威を笠に着ない性格だった模様。
    ”マレシャルニール”というこの元帥の名前に献じられた黄色いバラの品種が存在している。

    ・オーギュスト・ルニョー・ド・サン=ジャン・ダンジェリ Auguste Regnaud de Saint-Jean d'Angély
    (1794-1870) 授与年:1859年
    第一帝政期にはロシア戦役以後の戦闘に(なお所属していた驃騎兵第8連隊は1813年のライプツィヒの戦いでほぼ全滅した)、百日天下の際もワーテルローの戦いに参加している。
    復古王政下では軍を追放され、一時隠棲するもギリシャ独立戦争を受けて1828年のモレア遠征に志願兵として参加した。
    七月王政下では騎兵将校として勤務し、第二共和政になった1849年にローマ侵攻の際の遠征軍の部隊を指揮した。タイミングが違えばもしかするとクーデタの際の陸軍大臣はこの人だったかもしれない…?。第二帝政に入ると1854年に創設された皇帝親衛隊(Garde Impériale)の司令官に任命された。クリミア戦争では予備軍団の指揮官として短期間現地に滞在したのみ。その後イタリア統一戦争に参加しマジェンタの戦いでの勝利へ大きな貢献を行った。普仏戦争は開戦前に亡くなっている。
    個人的に軍服、平服問わず服の着こなしセンスが元帥中一番カッコ良いと思う(ただの感想)

    ・フィリップ・アントワーヌ・ドルナノ Philippe Antoine d'Ornano (1784-1861) 授与年:1861年
    15世紀から続く貴族の家出身で、ナポレオン1世の従兄弟。
    サン=ドマング(ハイチ)遠征でルクレール将軍の副官に、その後ベルティエ将軍の副官を務めた。ナポレオン戦争中はウルム、アウステルリッツ、イエナといった戦いで活躍し、1808年からの半島戦争にも参加し、弱冠27歳で少将に任命された。その後のロシア戦役では負傷からの早すぎる埋葬(雪の中)をされたり、決闘で胸に銃撃を受けたりしたけどもなんとか生き残った。
    ナポレオン1世がセントヘレナに流された後、彼の愛人だったマリア・ワレフスカと結婚した(それ以前からアタックはかけていた)。なおこれにより1世とワレフスカの息子で、第二帝政期に外務大臣となったアレクサンドル・ワレフスキから見てドルナノは従叔父かつ義父というややこしい関係となっている。
    1815年にネイ元帥を擁護したとして告発され、一ヶ月の禁固の後釈放され、亡命生活を送る。その間ワレフスカが病気で衰弱し、パリでの最期を望みフランスに戻る。その後1828年に軍に戻り、29年にサン=シール士官学校の入学試験の委員長となる。1832年にヴァンデ反乱の鎮圧に参加した。
    1848年に退役したが第二共和政下では大統領を支持し、クーデタも承認した。最終的にアンヴァリット総督に任命される。ナポレオン戦争を経験した人物としては最後に元帥杖を手にした人物となっている(※フランスの元帥位は階級ではなく称号)

    ・エリ・フレデリック・フォレ Élie-Frédéric Forey
    (1804-1872) 授与年:1863年
    1822年にサン=シール士官学校に入学。後にアルジェリアに派遣され、1836年のメディア侵攻やコンスタンティーヌ包囲戦に参加し頭角を現し、現地の士官からの評価は高かった。その後クーデタに参加している。
    クリミア戦争に参加するもカンロベール等の司令部の将軍や配下の将校までもフォレとそりが合わず、しかもフォレがパリにいる愛人へ宛てた手紙で軍事機密に当たるような情報まで隠さず書き送っていたため最終的に指揮官を解任された。
    しかしイタリア統一戦争ではモンテベロの戦いで自ら徒歩でエペを手に先頭に立って突撃を指揮し、自分たちより兵力の勝るオーストリア軍に勝利を収めた事によりナポレオン3世からも激賞を受ける。
    しかしその後の1862年にはメキシコ出兵の司令官に任じられたものの大した成果を上げられず、フランスに呼び戻され副官であったバゼーヌへ司令官の交代を命じられるもそれを不服とし、1863年まで指揮権を渡さなかった。
    その後脳溢血に見舞われてしまい軍事指揮を取れなくなったため、普仏戦争には参加していない。

    ・アシル・バゼーヌ Achille Bazaine
    (1811-1888) 授与年:1864年
    技師の父親の下に生まれ、1830年にエコールポリテクニークの試験を受けるも落ちてしまい、翌年一兵卒として軍の門を叩く(余談ながら弟は受かった)。順調に下士官まで昇進後1832年に外人部隊に入隊し翌年アルジェリアに向かう。その際士官に昇進している。
    バゼーヌの所属する外人部隊はカルリスタ戦争のためスペインへ女王イザベル2世側として派遣され、スペイン人軍人の扱いで諸戦闘を戦った。
    1838年にフランスに戻りフランス軍人として復帰し、すぐにアフリカ方面で様々な部隊を指揮し、レジオンドヌール勲章を拝受されるまでの活躍を見せる。1851年にはついに大佐に昇進する。クリミア戦争では2個連隊を率い、1855年のセヴァストポリ要塞の最終攻勢で連合軍最高司令官に推任されたことにより少将となる。
    1859年のイタリア統一戦争では頭部を負傷するもそのままソルフェリーノの戦いに参加し、捕虜とはなるものの勇猛な戦いぶりで軍報に掲載される。
    メキシコ出兵の際はフォレの後任として1863年に総司令官となり、メキシコシティへの入城を達成、ついに元帥杖を授かる。その後フアレス側の激しい抵抗によりこれ以上の干渉は困難とみてメキシコ皇帝マクシミリアーノ1世を残したまま1867年にはメキシコから撤退する事になる。
    そして1870年普仏戦争、第三軍団からライン軍の司令官に任命されたが自身の持つおよそ18万の軍をメス要塞に籠らせ友軍からの援軍要請を拒み、セダンが陥落した後にはそのまま戦闘もせず降伏した。この普仏戦争での動きが当時のフランス国民には裏切りとみられ、共和国樹立を宣言したガンベッタは反逆罪を宣言する声明を出し、フランス軍敗北の責任を帰されて一時は死刑を宣告されたが、新大統領マクマオンにより禁固刑に減刑され、さらに収監された要塞から外部の助けを借りて脱獄、最終的にスペインに落ち着く。
    その後もフランス人による暗殺未遂事件が起きたり、1880年に亡くなった際もフランス側から中傷が飛んだ。ただフランス外人部隊からは今でも敬意を持って扱われているそうな。

    ・エドモン・ルブーフ Edmond Le Bœuf (1809-1888) 授与年:1870年
    1828年にエコール・ポリテクニークに入学し、その後メス砲兵応用学校で学ぶ。
    1837年にアルジェリアに派遣され、コンスタンティーヌ包囲戦に参加した。
    クリミア戦争ではセヴァストポリ包囲戦で砲兵を指揮し、1859年のイタリア統一戦争ではマジェンタの戦いで活躍した。
    その後、病に侵されていたニエルの推薦も受け、1869年に陸軍大臣に任命された。しかしプロイセンとの戦争の機運が差し迫っている事態を感知できず、ニエルが進めようとしていた軍制改革の進行も滞り、「我が軍は軍備は万全であり、たとえ向こう2年間戦争が続いたとしても兵士たちはゲートルのボタン一つさえ欠ける事はないだろう」と宣言している等、大臣引き継ぎ後一年後の事という面はあるとはいえ状況把握に問題があった感が否めない(ちなみに当時フランスに留学していた日本人、渡 正元の著した『巴里籠城日誌』でもこの件をボロクソに非難されている)。普仏戦争開戦後、レゾンヴィル(マルス=ラ=トゥール)、サン・プリヴァの戦い、メス攻囲戦におけるノワズウィルで好戦するも最終的に捕虜になる。
    上記の発言等で評価を落としているが、同時代の近しい人々からは勇敢かつ優秀で尊敬される人物として認識されており、ナポレオン3世への忠義も厚かった模様。


    おまけ:読書案内?
    正直上記元帥達を個別に扱った日本語資料は皆無だと思うので(あったら教えてください…一応マク=マオンとバゼーヌは日本語wikiがあるよ)、代わりに日本語で読める第二帝政期に関わる戦争を扱った戦史や当時の記録を少しですが紹介しておきます。

    ・クリミア戦争
    『クリミア戦争 上・下』 オーランドー・ファイジズ(訳:染谷徹 ) 白水社 2015年
    連合軍、ロシアそれぞれの視点からクリミア戦争の要因〜経過までを詳細に追った書籍。とりあえずクリミア戦争についてはこの本を読んでおけば大枠はつかめるはず(雑)戦闘内容以外にも例えば連合軍内でののオスマン兵への差別的扱い等の問題にも踏み込まれている。

    ・イタリア統一戦争
    『ソルフェリーノの思い出』 アンリー・デュナン(訳:木内利三郎) 株式会社 日赤サービス 1969年(新装版初版 2011年)
    赤十字団体創設者のアンリ・デュナンが著した、そのきっかけとなったイタリア統一戦争のソルフェリーノの戦いでの惨状について書いた著名な書籍の完訳。戦争負傷者を分け隔てなく救護する組織の設立を世にアピールするための側面を持つため、そういった記録が両軍共生々しく書かれている。

    ・普仏戦争
    『普仏戦争 籠城のパリ132日』 松井道昭 春風社 2013年
    普仏戦争の要因からパリ・コミューンを経て敗戦処理、その後のヨーロッパ体制までを扱った書籍。情勢だけでなく緒戦の内容も比較的細かく追われている。

    『巴里籠城日誌 維新期日本人が見た欧州』 渡正元(現代語訳:横堀惠一) 同時代社 2016年
    1870年当時フランスにいた日本人留学生渡正元が普仏戦争、パリ・コミューン初期までを目にした記録を記した日誌。パリ籠城により徐々に食料の調達方法が見境なくなっていく様が恐ろしい。
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