ここではないどこかへ夏の気配も羽化するように消えた宵の闇の中からちりり、ちりりと虫の声が聞こえ始めている
空を流れる雲は厚くどんよりとしているが涼しい風が吹く正面庭に向かい会議室前の廊下に腰を掛けて私と豊前君は他愛のない話をしていた
嗚呼顔がいい
最近の松井君は先日食堂で出たキムチをとても気に入っている。なので自分でよろず街まで出かけてマイキムチを買ってきた話や
ならばと桑名君がよろず街に張り合って自作のキムチを作ろうと研究中の話だとか
雲さんがおなかに厳しいから辛いのはヤダというのを桑名君が研究結果としてキムチの乳酸菌について語り聞かせて益々情熱が高まりトウガラシ栽培の土壌の研究に移行した話だとか
だがこのところの江のトピックなので先日修行に出かけた豊前でも知っている話だ
帰ってきた豊前君はちょっと落ち着いて大人びた雰囲気が増していた
いや落ち着いた、というよりは疲れ果てて帰ってきたランナーみたいだった
それも気だるげな色気になっていて嗚呼顔がいい
「主さま」
「ああ、ありがとう小夜。ここへ」
廊下の闇から現れた小夜左文字が捧げ持つように運んできたのは朱色に塗られた漆の盆に漆塗りの杯が二つと、陶器ではなくやかんの様に取っ手が付いた漆塗りの銚子
ちょっと格式ばった祝いの日に使う屠蘇器と呼ばれるものだ
それを私たちの手元に置くと小夜は言葉もなく場を去っていった
「あんがとな小夜坊」
その背中に豊前がいつもの人懐っこっさで声を掛け小夜は一瞬足を止め驚いた様に振り返りこくりとうなずいた
小夜も何かが変わったことに気が付いたのだろう
ひたすらに明るく元気な以前の彼の声よりは柔らかく陰りがあるというよりは振るった刀の切っ先が丁寧に弧を書くごとくの静かなものを私は感じた
多分、それは心と呼ばれるのではないだろうか
その心できっと彼は今何かを見ている
まっすぐと何かを
朱色に金箔の桜の花びらが舞う杯を豊前に渡し銚子で酒を注いでやる
「修行お疲れ様。まあぐっと一杯」
「随分と洒落たもてなしだな。三々九度でも挙げるのかと思った」
照れ隠しなのかそんな茶化すような言い草
以前の豊前ならこんなはすっぱな態度をしただろうか
三文芝居に乗るような調子でんもう、と恥じらうように顔をしかめつつ杯に酒を満たした
そして彼も私から銚子を受け取り返杯を促す
わざとらしくちょこんと指先に杯を乗せ、注がれた酒をつつましやかな花嫁の様にそっと口を付けた
その様子にふふっと笑いながら彼も杯を飲み干した
「修行から戻ったら、こうしてお酒を飲む事にしてるの」
「それは聞いてたよ鶴さんや皆から。楽しみにしとけって」
最初は寄こしてくれた手紙の事や、色々な話を聞きたくてこうした場を設けることにしたのだが大抵はこんな風に穏やかな時を過ごすだけになる
覚悟を持って帰ってきた者に今更根掘り葉掘り終わった話を聞き出すのはきっと野暮なのだ
「これね。はい」
二つに畳んだ一枚の小さな紙きれを彼に手渡す
「ん?俺に手紙くれるのか?」
雑に渡された紙きれをへえ、と笑いながら、片手で受け取り杯に口をつけつつ目を落とす
「・・・・これは・・・え?」
杯を口元に挙げたまま固まった豊前は掌の中の文字を信じられない様に何度も読み返している
「私の”真名”・・・修行を終えて帰ってきた刀みんなに教えてる。銘入れ」
「・・・はっ・・・・あっはっはっ!!!!そう来たかぁ!ははは!」
どこか困ったようにの文字から目を離さずに笑い続けた
仮にも「神」に名を知られるのは危険な事だとは聞いていたが、刀として帰ってきたならもう私のモノなのだ
覚悟には覚悟で返さなくてはきっと釣り合わない
心には心を
紙きれを鳥の雛を包むようにそっと握り込むとゆらりと淡く青い炎が立ち昇った
書かれた文字がそこにある必要が無くなったのだろう
「・・・じゃあさ、これで俺はいつでもアンタを連れてどこへでも行っちまえる訳だぜ?」
ちょっと泣きそうな顔をして、またそんな茶化す事を言う
「・・・いいよ?とりあえずよろす街に行って適当に遊ぼうか?買い物をして、食事でもして、それから?」
その問いに彼は遠くを見るまなざしをした
探そうとして、探しきれない事を諦めた顔で寂しそうに
笹船に乗ってあてどなく流れていく様に、どこかへ行きたい?
きっと二人して結局ここに帰ってくるでしょうね
「・・・あんたが決めていいよ」
「ずるくない?」
気安いやり取りに二人して同情するように笑いあった
二人乗りバイクの後ろで感じる彼の背の体温はきっと私と同じなんだろうとふと思った