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    なまこ

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    なまこ

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    本にしようか検討中の小説導入部
    カルデアのマスターとカルデアに召喚されたアショカ王によるぐだアショになる予定

    こちら本にしようか検討中の話ですが本になろうがなるまいがpixivに全文掲載予定です
    本にする場合はオンオフ問わず何某かのイベントで頒布予定
    こちらの話は全年齢部分のみですが最終的にR18を予定しております、ご注意ください

    夜籠りに詠う あの日。
     
     偽りの盈月が成ろうとした、あの夜。
     江戸の夜空を埋め尽くした荘厳なる黄金の天輪に、ただ——目を奪われた。
     
     
     人を守ることができる——。
     
     
     瞬く夜空を見上げ、目を見張るばかりだった俺に、
     あの人は迷いなくそんな言葉を口にした。
     
     全てを見透かすかのような、厳かな夜凪の瞳に射すくめられた、あの時。
     はたしてこの胸に灯ったものは、何であったのか。
     
     答えは知れず。
     けれども、覚えている。
     
     今でも、確かに。
     何一つ、取り零すことなく覚えている。
     
     あの——胸の高鳴りを。
     幾度の試練を、数多の地獄を乗り越えてもなお——燻り続ける、その熱を。
     
     ああ、そうだ。
     
     今も。
     今、この時すらも。
     
     この身は、なお——。
     
     
     あの、
     天輪の瞬く夜に、囚われ続けている。
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     ふと、夢から目醒める。
     豆電球のかすかな明かりが灯る薄闇のなか、重い目蓋を持ち上げ、目を凝らす。少しずつ焦点が合ってきた視線の先には、見慣れぬ天井があった。
     否、天井に限った話ではない。古ぼけた土壁も、年季の入った家具も、ギィギィと踏みしめるたびに軋む床も、何もかもが馴染みのないものだった。その一方で、馴染みはなくともどこか奇妙な懐かしさも覚えている。
     グラナート。
     その名前の由来こそ知らないが、昔見たアニメに出てきたような古びたアパートの二階にある一室。現在、そんなよくある四畳半一間が、この特異点にやってきた自身等にとっての新たな拠点となっている。
     数日前のこと、白紙化地球上にて突如として観測された、イタリアのフィレンツェと推定される地点に発生した特異点。
     その修正の為に実施されたレイシフトの直後、吸い込まれるように招かれた大法廷で行われた一方的な裁判により、瞬く間に追放刑が下された。唐突に幕を開けた機械仕掛けの天使たちからの逃亡劇の最中、湿原で遭遇した自らをアイリーンと名乗るサーヴァントの助力を受け、這々の体で逃げ込んだのが、このグラナートだった。
     このアパートの内部にいる限りは、天使たちに見付かることはないとアイリーンは言っていた。
     実際、ここにいる間は天使たちの追跡から逃れられているのだから、その言葉は真実なのだろう。ここに着いてからというもの、あの耳にこびりつくような厭わしい警告音はどこからも聞こえてこなかった。
     そんな数奇な経緯を辿り、レイシフト直後からの休む間もない逃亡劇に一旦の幕が下りたのは、今から数日ほど前のことだった。
     拠点となるグラナートでは二〇三号室と二〇四号室の二部屋を貸して貰っている。
     そのお陰もあり男女同室は無事免れた。先ず、その事実にホッと胸を撫で下ろしたのは言うまでもない。
     マシュは大事な後輩であり、誰より頼れるファーストサーヴァントではあるけれど。
     それ以前に、年頃の女の子なのだ。彼女は自身等と同室でも特に気にしなかったかも知れないが、こちらはそうもいかない。
     この件に関しては——今はこちらからは姿が見えなくなっているが——マシュのことをとても大事にしてくれているハベトロットや、この四畳半一間の同居人であるカドックも、おそらく同じ見解だった筈だ。
     寝返りを打つ。
     横を見ると、カドックがすうすう、と規則正しい呼吸とともに、きつく目蓋を閉じていた。
     視線を注ごうと、その目蓋が開く気配はない。ちゃんと眠れているようだった。
     けれども、安眠とはいかないらしい。
     寝言なのか。はたまた、魘されているのか。
     時折、苦しそうな呻き声がかすかに耳に届く。
     起こすべきか。一瞬迷ったが、そのままにすることにした。
     きっと、一度起こしたところで再び寝入った直後に、結局はまた同じように悪夢に魘されるのだ。
     自分たちはサーヴァントではない。今を生きる人間だ。
     だから、寝ないという選択肢はそもそも存在しないのだ。であればこそ、精神面はともかくとして消耗した体力が回復するだけ、そのまま寝続けておいたほうが幾分かはましだろう。少なくとも自身はそうだった。
     再度、寝返りを打つ。
     一度目醒めてしまうと、どうにも寝付けなかった。
     なにせ、夜のしじまに反して胸の内側がざわざわと騒めいている。
     焦燥とも違う、この胸を揺り動かすさざめきの原因。
     それが、何に起因するものなのか。
     考えるまでもない。
     思い当たる節など、一つしかなかった。
     
     
     凪いだ夜に瞬く月のような、
     琥珀色アンバーの双眸。
     
     網膜に焼き付くほどに鮮やかな、
     孔雀青ピーコックブルーの髪。
     
     
     幾度も夢見た——その姿がここにあった。
     レイシフト初日に、さながら転がり込むように逃げ込んだグラナート。
     その翌朝のこと、階下の古びた共同キッチン、そのダイニングテーブル前。
     今朝の朝食は何かと尋ねるような、そんな気安い空気のなか、俺は、かの転輪聖王——アショカ王と、さして劇的でもない久方振りの再会を果たしたのだった。
     あの日、驚きとともにその名を口にしたこちらを見て、盈月の——と彼は言った。なるほど、この特異点に呼ばれた彼は、どうやらあの江戸での記録を引き継いでいるようだった。
     覚えていてくれたのだ。
     名状しがたい歓喜を呼び起こすその事実に、騒つく胸のうちを気取られないよう、何食わぬ顔で平静を装った。
     しかし。それはそれとして、である。
     そもそも何がどうして、グラナートの古びた共同キッチンにかの転輪聖王が現れたのか。そんな至極真っ当な疑問は、けれども間髪入れることなく解消された。
     簡単なことだった。
     彼も、このアパートの住人だったのだ。
     確かにここに着いた初日に、グラナートはサーヴァントたちの賃貸物件であるとは聞き及んでいたけれど。
     それでも、そんな事前知識があったところで、彼ほどの英霊がサーヴァントたちの共同住宅で暮らしているだなんて一体誰が予測できるだろう。
     更に驚嘆したのは——その敬称が表す通り、正真正銘の王族であるにも関わらず——当のアショカ王本人が、グラナートボロアパートでの生活に驚くほど馴染んでいることだった。
     それだけではない。初めて出逢った時分の、一人後ろから周りを俯瞰しているようなあの独特の雰囲気も、ここではすっかり見受けられなかった。アイリーンと軽口を叩き合う姿を目の当たりにし、驚き瞠目したものである。
     今の彼の有する霊基は、かつて江戸の特異点で出逢った彼の別側面にあたる。
     かつて盈月の儀で逸れのサーヴァントとして出逢った彼は、裁定者ルーラーのクラスだった。
     しかし、この特異点に呼ばれた彼はかつての自己申告の通り、槍兵ランサーのクラスに当てはめられている。だからだろうか。その身に纏う雰囲気が、かつて出逢った彼のものよりも、やわらかにみえた。
     唐突に幕を開けた、予期せぬ共同生活。
     夢にまで見るほどに焦がれていた相手に突如として湧いた、親しみやすさ。
     キャパシティを超えた目まぐるしい現状に、目眩を覚えたのは言うまでもない。 
     それでも、いくつもの驚きを凌駕するほどのさざめくような胸の騒めきが、確かにそこにはあったのだ。
     本人の申告によれば、アショカ王は裁判長——自身等に追放刑の判決を下した、ジャンヌ・ダルクと同じ顔を持つサーヴァントの側に付いているのだと言う。
     即ちそれは、カルデアの敵であるということに他ならない。再会した日の、朝食の席の終わりに告げられたその爆弾発言に、俺は咄嗟に言葉を返すことができなかった。
     しかし、敵ではあれど中立といっても差し支えのない立場を保ってくれているし、門番の仕事が終わる夕方になると彼は変わらずグラナートに帰ってくるのだ。その所為もあってか、彼と敵対しているという実感は、今のところはあまりない。
     ましてや、日によっては夕飯の支度までしてくれているのだ。どちらかというと、共同生活者のうちの一人——という印象の方が強かった。
     転輪聖王が手ずから皆の食事の支度をするという事実には、正直なところ、かなり驚かされたけれど。
     それはそうと、アショカ王の作った野菜炒めはそれはもう絶品だった。
     歯ごたえを残した新鮮な野菜に、ほんのりと塩気ののったやさしい味付け。あたたかな、しみじみと美味しい一品だった。
     箸の進むままに野菜炒めを頬張りながら、美味しいと率直な味の感想を伝えると、彼は静かに微笑み返してくれた。
     彼の笑顔を目にしたのは、あれが初めてだったと思う。
     あの時の衝撃といったら、なんとも言葉に言い表しがたいものがあった。
     今、あの時のことをぼんやりと思い返しただけでも、すぐさま頬が熱くなる。どうしてかは分からないが、それほどの衝撃だったのだ。
     何度目かの、寝返りを打つ。
     ごろり、ごろんとそれとなく寝やすいように体勢を変えてはみるものの、眠気は相変わらず席を外したまま帰ってくる気配がない。それどころか頭は甚く明瞭だった。彼のことを考えているうちに、すっかり目が冴えてしまったらしい。
     これは直ぐには寝付けそうにないな、と諦め、寝そべっていた上体を起こす。
     完全に目が醒めると、今度は無性に喉の渇きが気になった。粗方、寝ている間に身体の水分が奪われたのだろう。
     ——何か飲み物でも飲んでこよう。
     渇きがおさまれば、また眠くなるかもしれない。そんな希望的観測に賭けるように、枕元の懐中電灯に手を伸ばし、音もなく布団からするりと抜け出す。
     隣の布団で寝ているカドックは身動ぐ様子もない。起こしてしまわぬように、しのび足で扉へと向かった。そうして静かにドアノブに手を掛け、扉を開ける。
     人気ひとけのない深夜の廊下は薄明かり一つない。自室の扉を後ろ手に閉めつつ、手にした懐中電灯のスイッチを入れる。
     カチリ、と固い音を鳴らしながら明かりが灯る。それでも大して出力のない照明器具では、足先数センチを照らすのがやっとだった。
     薄暗い廊下を進む。
     少し傾斜のきつい階段を懐中電灯で照らしながら、手すりを頼りに足を踏み出す。ギィ、ギィと古びた木材の軋む音に耳を傾けながら、一歩、また一歩と踏み外さないよう慎重に階下へと降りてゆく。
     無事に一階に着くと、そのまま玄関の前を通り過ぎ、共同キッチンに続く廊下を進んだ。ほどなくして目的地に差し掛かったところで、ふと歩みが止まる。
     キッチンに明かりが点いていた。
     カッチリとは閉まり切らない、多少ガタつきのある扉の向こうから、うっすらと明かりがもれている。
     ——誰かいるのかな。
     こんな、朝早くに——?
     そんな素朴な疑問はあった。
     けれども、喉はやはり渇いているし、仮に誰か他の住人がいたところで特に問題もないだろう。少なくとも、ここの住人たちの中に、明確にこちらを害するような敵はいないのだから。
     多少なりとも寝ぼけていたからだろうか。そんな先輩魔術師カドックに知られでもしたら小一時間は叱られそうな楽観的な判断のもと、大して迷うこともなく手にした懐中電灯のスイッチを切ると、俺はキッチンの扉に手を掛けた。
     ガチャリ、と少し固いドアノブを回す。
     そうして——。
     なんの躊躇いもなく先客のいるであろう共同キッチンの扉を開き、
     俺は——考えなしに扉を開いた、自らの迂闊さを大いに呪う羽目となった。
     
    「……眠れなかったのか?」
     
     僅かな沈黙を挟んだのち、心地の良い低音が耳をくすぐる。
     それは、こちらを気遣うような甚くやさしい声音だった。
     蛍光灯が発する薄暗い明かりの下でも、色鮮やかに発色する孔雀青と、透き通るような橙掛かった琥珀色の瞳。
     真っ直ぐに捉えた視線の先では、自身が眠れなくなった主だった原因でもある張本人——アショカ王が、ガスコンロの前でフライパンを片手に、案じるような面持ちでこちらを振り返っていた。
     そうだ。
     彼もグラナートの住人なのだ。
     早朝、と言うにはいささか早すぎる時刻ではあるが、ここの住人である以上、彼が共同キッチンにいることになんらおかしな点はない。なんとなく夜型のダンテやモリアーティあたりがいるものだと勝手に思い込んでいたものだから、心の準備がまるでできていなかった。
     つまりは、油断していたのだ。完全に己の落ち度である。
    「いえ、その……さっきまで寝てたんだけど、なんか目が覚めちゃって……」
     それで、何か飲み物でも飲もうかと——。
     尻すぼみな言葉とともに眉尻を垂らし、困ったように笑う。
     焦りを気取られないように努めて平静を装うものの、バクバクと騒々しく拍動する鼓動の音が、耳鳴りのように鼓膜を震わせていた。
    「そうか」
     アショカ王はそう短く返すと、コンロの摘みを一捻りし、それから迷いのない様子で壁に備えつけられた食器棚の引き戸を開けた。
     深い墨色の刺青らしき紋様が刻まれた灰褐色の指先が、一つ、棚にしまわれたマグカップの持ち手を掴む。
    「緑茶とコーヒーと紅茶、それからミルク。いずれがよいか?」
     ああ、白湯もあるな、と。
     こちらを振り返りながら、何食わぬ声音でアショカ王は付け加える。
     唐突なその問い掛け、その額面通りの言葉をうまく咀嚼できなかった俺は、ただ目を丸くしてその場に立ち呆けることしかできなかった。
     言っている言葉の、意味は分かる。
     けれども、この目の前の状況と、投げ掛けられた言葉。その二つをそつなく結びつけることに失敗した頭は、まるで壊れた機械のように、その場でぴたりと機能を停止させていた。
    「……どうした?」
     固まるこちらに向けられた、案ずるような訝る声に、現実へと引き戻される。
     実際、難解な問い掛けではないのだ。容易な部類ですらある。
     つまりは、何か飲み物を用意しようとしてくれているという、ただそれだけのことだった。
     先までの会話を鑑みても何も不自然なところはない。ないのだけれど。
     ——アショカ王が……?
     その行為を実行するであろう人物、ただその一点が問題だった。
     転輪聖王たるその人が、わざわざ自らの作業の手を止め、こちらのために飲み物を淹れようとしてくれている。
     いずれ早々遭遇することもないであろう奇特な状況である。うまく呑み込めないのも仕方のないことだろう。
     けれども、目の前の王からすると置物のように固まってしまったこちらこそが分からないようで、カップを片手にその場に立ち尽くしている。
    「え、っと……じゃあ、ミルクで!」
     取り敢えず何か答えなくては、と咄嗟にリクエストを返す。
     すると、間を開けることなく「承知した」と短い返事が耳に届いた。
     アショカ王は手にしたマグカップをダイニングテーブルにことり、と置くと、無造作に冷蔵庫を開け、扉に備えられたボトルポケットに収められていた乳白色の液体で満ちた瓶を取り出した。
     ミルクらしき液体が、透明な瓶の中でたゆたうように波を打つ。どこか夢でも見ているような心地で、ゆらゆらと揺れる瓶の中身を俺はじっと見詰めていた。
    「温めようか」
     取り出した瓶を片手に、重ねて彼は尋ねる。
     尋ねながらも、既にもう一方の手は片手鍋へと伸びていた。
     この特異点の季節がどう定められているのかは、ここに来てまだ日が浅いこともあり詳しくは知れないが。カルデア式の魔術礼装をもってしても、僅かに肌寒さを覚える時節ではあるらしい。
     もう少しすれば朝陽が昇り、早朝になろうという夜明け前の現在は、それなりに空気が冷えていた。
    「じゃあ……お願いします」
     そこまで甘えていいものか、という葛藤がなかったわけではないけれど。
     こちらを気遣うその提案を、無下に断る気にはなれなかった。
    「では、座して待つとよい」
     そう言い残してアショカ王はコンロに向き直る。
     言われた通り、俺はダイニングテーブルに役目を終えた懐中電灯をごとり、と置くと、備えられた一脚を引き、おもむろにすとんと腰掛けた。そうしてテーブルの上で手を組み、蛍光灯の灯りにキラキラと輝く金化粧の刻まれた背を静かに見詰める。
     見ればちょうどミルクを片手鍋に注ぎ終えたところだったようで、彼は開かれた冷蔵庫の定位置に内容量の減った瓶を戻していた。
     ちらりと覗き見えた冷蔵庫の中には、いくつかラップの掛けられた皿がしまわれていた。既に何品か作り終えた後であるらしい。
     いったい何時から彼は起きていたのだろう。サーヴァントだからそもそも寝ていないのかもしれないが。同じ屋根の下で生活をともにしていても、彼の生活様式は依然、謎に包まれている。
     俺がグラナートに住んでいるアショカ王について知っていることは、現時点でおおよそ三つである。
     一つ目は、敵であること。
     二つ目は、無遅刻無欠勤、無残業であること。
     そして最後の三つ目は、手製の野菜炒めがとても美味しいこと。
     その程度だった。
     ボッ、ボッ、とコンロに火がともる音がする。
     二連のコンロに並んだ片手鍋とフライパン、そのどちらにも火が当てられていた。
     均等に熱が回るよう、彼は手にした片手鍋をゆるやかに傾け、揺する。もう一方の手には菜箸を握り、フライパンの中身をサッとかき回し、焦げつかないよう素早く炒めていた。
     カチカチ、と古めかしい壁掛け時計から、時を刻む音が聞こえてくる。
     器用に同時調理を進めるアショカ王の背中を眺めるだけの、奇妙な時間がいたずらに過ぎてゆく。いささか手持ち無沙汰ではあるけれど、嫌な気は全くしなかった。
     暗色の液体入りの硝子小鉢を手に取ると、アショカ王は迷いなくフライパンの中へとその中身を回し入れる。ジュワッ、と液体の沸騰する音とともに、芳ばしい香りが部屋中に充満した。無駄のない手際で全体に調味液を絡ませ、軽く炒める。それからコンロの火を消すと、彼はフライパンの中身を大皿へと移した。
     ゆらゆらと皿から立ち上る湯気を何となく眺めていると、アショカ王は次いで片手鍋へと向き直り、再び鍋を軽く揺すった。
     換気扇がカラカラと回る。
     グラナートは至る所が昭和の日本ナイズドされている。それはキッチンの作りも例外ではない。
     だから、アショカ王の背の高さでは換気扇に頭をぶつけてしまいそうなものだが、彼は腰を屈めたり、器用に避けたりしながら問題なく調理を進めている。
     手際が良すぎる。
     それだけ、キッチンに立つ機会があったということなのだろう。転輪聖王なのに。
     ここで出逢った時も、あの江戸で出逢った時も、彼は一貫して自身のことを「大した者ではない」と語った。おそらくそれは彼の本心からの言葉なのだろう。
     つまりは、周囲の評価を彼は気にしていないのだ。あの転輪聖王が——と周囲は驚くけれど。彼の中では何もおかしなことなどないのだろう。
     王でありながら、市井の暮らしに溶け込んでみせる。
     その在り方は随分と難しそうなのに、彼は難なくその二つを両立させている。
     だからだろうか。傍にいると、高位の存在であるという威圧感よりも、安心感が勝るのだ。それは初めて出逢った時も、今も、何も変わりがなかった。
     鍋からゆるやかに昇る湯気が、換気扇の中へと吸い込まれてゆく。
     アショカ王はコンロの摘みを当初とは逆向きに一捻りし、最初に戸棚から引き出したカップを再び手に取る。次いでもう一方の手で片手鍋の持ち手を持ち、その中身を空の器へと注いだ。
     乳白色の液体が、湯気を立てながらカップの中へと空気とともに落ちてゆく。
     ふわり、とミルク特有の甘い匂いが鼻腔をくすぐった。
    「火傷せぬよう、気をつけてくれ」
    「ありがとう」
     静かに目の前に置かれた、ゆらゆらと白い湯気の立ち上る年季の入ったマグカップを受け取る。
     中は乳白色の液体で満ちていた。
     カップのハンドルに指を掛け、そっとていねいな動作で持ち上げる。膜一つない綺麗な表面に、ゆらりとさざなみが広がった。
     ふぅ、と軽く吹き冷まし、それからマグカップの縁に唇をつけ、傾ける。
     ——温かい。
     口に含んだ液体は少し熱いくらいではあるが、火傷するほどではない。口内から喉を通り、それから胃の中へと温かな液体がするすると流れ落ちてゆく。内側から温められてゆく心地の良い感覚と、やわらかなまろみのあるミルクの味わいに、呆けていた頭が少しずつ回り出す。
     何気なく視線を隣人へと向けると、湯気の立たなくなった皿にラップを掛けているところだった。
    「あの」
    「うん?」
    「それって、朝ごはんの準備ですか?」
     皿を冷蔵庫にしまおうとしているアショカ王に、何とはなしに尋ねる。整理された庫内にラップの掛かった皿を置くと、彼は冷蔵庫のドアをぱたりと閉めた。
    「然り。朝になったらレンジで温め直して食べてくれ」
    「……貴方は、一緒に食べないの?」
     折角作ったのに、ともったいなさの滲む声音で続けるこちらに、アショカ王はちらりと一瞥を寄越すも、すぐに視線を外し、空になった鍋に手を伸ばした。
    「ああ。今朝は普段より早く此処を発つ。そうでなくとも、既に貴方も存じている通り、私は食事を摂らぬゆえ」
     鍋とフライパン、菜箸を手に、アショカ王はシンクに向かう。
     会話をしながらシンク横に使い終わった調理器具を置くと、彼は古めかしい蛇口を捻り、そのまま汚れ物の後片付けを始めた。
     そのやけに手際のいい後ろ姿を眺めながら、数日前に交わしたアイリーンとの会話と、普段のグラナートでの食事風景を頭に浮かべる。
    『コイツは食事しないから無視でオッケーね』
     敵だらけの特異点のなか、安全地帯まで案内してくれたアイリーンへの礼として、滞在二日目の朝にマシュとカドックと自身の三人で朝食を準備しようとした際、彼女はアショカ王を指してそんなことを言っていた。
     また、普段の食事の際にも同席こそしているが、アショカ王が何かを食べているところを見たことはなかった。
     やはり、本当に食事をとっていなかったらしい。
    「アショカ王はさ、なんで食事をとらないの?」
     魔力が資本であるサーヴァントにとって、食事そのものがそこまで重要なものではないことは理解しているけれど。
     それでも、一度気になり出すと尋ねずにはいられなかった。特に、彼は自ら料理をするものだから、余計に。
     投げ掛けられた素朴な疑問。
     そんな背後からの問い掛けに、彼は振り返ることもなければ、使い終えたフライパンを洗うその手が止まることもなかった。
     ザアザア、ザアザア、と水の流れる音がする。
    「サーヴァントとは人理の影法師。既に終わった命に過ぎぬ。そのような身で他の生命を摂することに、私はいささか抵抗がある。命を摂らずとも在れるのならば、私はそれを望もう」
     淡々とした声音で返された、その答え。なるほどそれは、後世に転輪聖王と名を馳せる実に彼らしい回答だった。
     そう。だからこそ。
     もう一点、疑問が残る。
    「でも、みんなの分は作るんだ?」
    「然り。これはあくまでも私個人の考えであり、他者に強要するものではない。サーヴァントの身であろうと、食事を嗜好する者があってもよい。私はそれを否定はしない。それに——」
     水を止め、綺麗になったフライパンを空布巾で軽く拭いながら、そこでようやくアショカ王は背後へと振り向いた。
     宝玉のような、琥珀色の二つの双眸。
     こちらを見据える切れ長の眼に、自然と背筋がしゃんと伸びる。
    「サーヴァントではない貴方たちには必須のものだ。ならば、栄養のあるものを作らなくては」
     ほんの僅かに目元をゆるめ、彼は目蓋を下ろして微笑んだ。
     ——ああ、そうか。
     そう、ひとり納得する。
     アショカ王は敵だ。
     彼自身がそう宣言したし、実際あの門の先——裁判長の待ち構える大法廷に向かうためには、彼と戦わなくてはならないのだろう。互いの立場上、善悪の区別はなくとも、いずれ戦闘は避けられない。
     それでも、今は同じ屋根の下で暮らし、門番としての役割がない時分はこちらの身を案じてくれている。
     時には的確なアドバイスを送り、時には公平性が崩れない程度に手を貸し、静かに見守ってくれている。
     この短期間の付き合いでも分かる。
     どれほど立場が違おうとも。
     例えそれが、敵であろうとも。
     隣人として迷えるものの傍に立ち、寄り添う。
     彼は、きっと、そういう人なのだ。
     裁定者でなくとも公正公平に、中立的立場を貫き通す。
     そのどこまでも難い在り方と、人としての眩さに、盈月の時分に覚えた、ある種の敬慕が蘇る。
     人を守ろうとする、その姿。それを可能とするだけの力と、そして何より、それを遵守する——彼の抱える信条の強さ。
     クラスが変わり、サーヴァントとしての側面は異なるものとなろうとも、やはり今の彼もそれを持ち得ているのだ。
     その事実が、ただただ、
     どうしようもなく嬉しかった。
    「——ありがとう、アショカ王」
     覚えた嬉しさのままに礼を伝える。
     すると、アショカ王はもう一度、やわらかな微笑みを返してくれた。
     しかし。それも、一瞬のうちだった。
     笑みはたちまちのうちに消え去り、彼は一度考え込むように視線を床に落とすと、改めて真剣な面持ちでこちらに向き直った。
    「……先にも言ったが、この特異点は長丁場となるであろう。何を為すにも身体が資本だ。睡眠も食事も、どうか疎かにせぬように。焦る気持ちは分かるが、今はまだ、時ではないのだ。今の貴方たちが急いたところで、成せることは何もない」
     突如として先までの空気から一転し、突き刺すような視線とともに述べられた気遣いの滲む宣告は、それでも、甚く鋭利なものだった。
     急いている。それは確かにそうだった。
     この特異点に来てからというもの、常に何かに追い立てられているかのような、厭な焦燥感がある。夜中に唐突に目覚め、眠れなくなってしまった現状も、少なからずその影響を受けているのだろう。
     返す言葉もなく見詰め返すだけで精一杯の俺に、彼は僅かに視線の険を緩めると、なおも言葉を重ねてみせた。
    「だが、そう恐れずともよい。今の貴方たちの行動の如何に問わず、事態は直ぐには動かぬ。なればこそ、一歩ずつ、確実にその歩みを進めるがよいだろう。その先に見えるものにこそ、貴方たちが導き出すべき答えがあるのだから」
     その言葉の結びは、幾分やさしい声音だった。
     急転はもちろん、好転もなければ悪化もない。故に、地道に進めていくより他に道はない。彼はそう伝えたいのだろう。
     頭を過ぎるのは、空に浮かんだストーム・ボーダーだ。
     大切な仲間たちが乗った、カルデアの拠点たる大型船艦。それが壊される未来が、この空に浮かんでいる。
     既に確定した未来を覆すには、この特異点の解消が不可欠となる。
     唐突に始まった理不尽な裁判に、顔見知りと同じ顔の、けれども別人とおぼしき裁判長。反論の余地もなく下された一方的な追放刑に、どこまでも追いかけてくる機械仕掛けの天使たち。
     現状、分かる範囲でも問題は山積みだった。
     焦ったところでどうしようもないのは分かっている。頭では理解しているのだ。それでも、理解できたとしても納得ができない。
     それはそうだろう。
     親しい人たちの命が、今まさに人質に取られているようなものなのだから。
     早くなんとかしなければ。一刻も早くこの特異点を解消して、この喉元に差し迫るような、容赦なくのし掛かる重圧から解放されたい、と。
     そう願うことは、何もおかしなことではない。なにせ、人は継続的なストレスに晒され続け、常と変わらぬ平静さを保ち続けられるほど強くはできていないのだ。
     経験則から現状、自分たちだけではどうにもできないと理解しながらも、それでもなお、焦る気持ちを拭えなかった。幾度修羅場を潜り抜けようとも、大事な仲間たちの危機——こればかりは容易に飲み下せるものではない。
     故にこそ、その焦燥を彼に気取られてしまったのだろう。
     焦らなくてもいいのだと、その口調こそ堅くとも、アショカ王はおだやかな声音で諭してくれた。
     損得なくこちらを気遣うその真摯なやさしさに、当初から張り詰めていた気持ちがほんの少し、軽くなる。
    「……分かりました」
     そう頷き返すと、彼はどこか安堵したようにその目元を綻ばせた。
     そうしてアショカ王は使い終えた空布巾を固く絞ると、布巾掛けに引っ掛け戻し、水滴のとれた調理器具を各々の所定位置へと片付け始めた。
     ぬるくなったミルクをちびちびと呷りながら、その様子を眺める。
     どこに何があって、どこに何をしまえばいいのか。テキパキと手際よく片付けを進める彼は、どうやらそのすべてを把握しているようだった。
     あっという間に片付いてゆくキッチンを視界の隅に収めながら、俺は何となく手元のマグカップへと視線を落とす。僅かでも余裕が生まれると、どうでもいいことが気になり出すのが人の性なのかもしれない。
     手中のカップを軽く揺すると、乳白色の水面にゆらりと波紋が広がった。
    「ところでアショカ王」
    「うむ」
    「普通に飲んでたんだけど、これ……なんのミルク?」
     煉獄——というより、この特異点にはそもそも牛はいないのではないか。そんな疑問が唐突に芽生えた。
     数日前、生姜焼きを作る際にも魔獣の肉を代用したのだ。食肉用の牛がいないのに、そんな都合よく乳牛がいるものだろうか。
     仮に、乳牛が存在しないものとして。
     では、このミルクは一体なんのミルクなのか。
     大して大事でもないけれど、妙に気になる疑問でもある。
     若干の躊躇いを含んだ小声の問い掛けに、アショカ王は何か考え込むように斜め上の虚空へと視線の先を移す。それから数秒の間を開け、無言でこちらに向き直ると、彼は何を言うでもなく無言で微笑んでみせた。
     なるほど、これは知らないままのほうがいいのかもしれない。
    「すみません。今の、やっぱりなしで」
    「なに、腹を下すようなものではないさ」
     目を瞑り、軽い声音で彼は言った。
     こちらがカップの中身を飲み切らぬうちに、王自らによるキッチンの後片付けは、つつがなく終わりを迎えたらしい。
     綺麗になったキッチンを見回したのち、アショカ王はおもむろにシンクの蛇口を捻り手をすすぐと、シンク横に掛けられたタオルで濡れた手のひらを拭った。
     それからダイニングテーブルに着くこちらを一瞥し、彼は「それでは、私はお暇しよう」と一言、別れの言葉を告げた。
    「もう行くんですか?」
     つい引き留めるような台詞が、無意識に口を突いて出る。
    「然り。先にも言ったが、今朝は少しばかり用事がある」
     用事とはなんだろう。
     アショカ王は大法廷の門番だ。だから、おそらくはこれからあの大法廷に向かうのだろう。となると、あの裁判長に関することだろうか。
     彼女はこの特異点の支配者だ。
     カルデアと裁判長は敵対しているが、アショカ王と彼女は敵対していない。
     用事の内容にもよるだろうが、裁判長からみてアショカ王は味方のような立場にある相手なのだ。余程のことでもない限り、彼に危険が及ぶことはないとは思うが。
     そこまで考え、ふと、厭な疑問が頭を過ぎる。
     
     こうしてカルデアこちらと関わっていることが、裁判長あちらに知られてしまったのなら——。
     彼もまた、罰を受けることになるのだろうか。

    「……どうか気をつけて」
     気にはなる。
     けれど、尋ねることはできなかった。
     それを尋ねたところで、今の俺にできることは何もない。
     グラナートから出ていくことも、この特異点を今すぐ解消することも、できるわけがなかった。ただ、その身を案じる言葉を掛けることしかできないのだ。
     そんな自分の無力さに、ダイニングテーブルの下、固めた拳を人知れず握り締める。拭いきれない後ろめたさに彼と目を合わせることもできず、徒にテーブルの木目へと視線の先を落とす。
     すると、ややあって「カルデアのマスター」とこちらに向けて呼び掛ける、やわらかな声が耳に届いた。柔和な響きを含んだ、甚く聞き心地の良いその呼び声に、おずおずと顔を上げる。
     躊躇いがちに視線を向けると、こちらを見遣るアショカ王と目が合った。
    「そのような顔をするものではない。なに、ただ話をしに行くだけのこと。彼女は私に何もすまい」
    「それは——」
     見透かされている。
     言葉に出していないのに胸のうちをさとられた驚きと、それでも案じずにはいられない自らの弱さに、言葉が詰まって二の句が告げられなかった。
     言いよどむこちらに、彼はめるように目を細める。
     ここではない何処か先を見据えるような、鋭い眼差しがそこにはあった。
     そうして。
     その両手が、かつての特異点で出逢った時のように、胸の前で合わせられる。
     所謂それは合掌と呼ばれる、彼の信仰する一つの祈りの形だった。
    「貴方の気遣いは有り難く受け取ろう。しかし、案ずるべくは他者に非ず。汝、自らの前途に向け尽力すべし」
     そう、ぴしゃりと言い切る。
     真正面からこちらを見据える、琥珀色の双眸。
     その眼差し、その言葉の力強さ。
     それは、かつて出逢い、そして何より焦がれた別側面の彼のそれによく似ていて。
     だからだろうか。
     逸る鼓動が、どきりと跳ねた。
    「——……はい」
     自らの動揺に気付かぬ振りをして、確かに頷く。
     実際、彼の言う通りだった。
     今はやるべきことをやるしかない。
     どれほど絶望的な状況であったとしても、この特異点を解消できるのは、きっと、俺たちだけなのだから。
     弱気になっている場合ではないだろう。
     握り締めた拳を解き、そうしてもう一度、握り固める。
     ——気を、引き締めないと。
     この進退窮まる状況に、募る焦りとともに、精神的にも参っている部分があったのだろう。彼の言葉を受け、行き詰まっていた頭がようやく常の冷静さを取り戻す。
     その教導により、こちらが定まったことに彼も気付いたのだろう。
     アショカ王はその眼差しの鋭さを、そっと緩める。
     それから、その両手を合わせたまま、
     彼は静かに目蓋を閉じ、
     
     
    「星見の旅路を往くものよ。——その導きに、光あれ」
     
     
     そう、一言。
     囁くように、祈りを捧げた。
     
     その瞬間。
     その姿に、ストン——と。
     何かが、音もなく腑に落ちた。
     唐突な納得、もしくは理解。前触れなく訪れたそれに呆気に取られ、俺はただ、その様子を呆然と眺めるばかりだった。
     閉ざされていた目蓋が上がる。当然のように琥珀色の双眸がそこにはあり、それらはなんの迷いもなくこちらを見遣る。
     視線が交わると、彼はたおやかにその目元を緩めてみせた。
    「では、また夜に」
     一時の祈りを終え、アショカ王は踵を返すと、キッチンのドアへと向かう。
     彼が横を過ぎった瞬間、霊子の輝きがきらりと舞う。瞬きを追うように視線を床に向けると、彼の足元に、獅子のような生き物がするりと寄り添っているのが見えた。
     尋ねる間もなく——実際、尋ねられるほどの余裕もなかったが——彼は足早にキッチンを後にした。
     パタン、と扉の閉じる音が、静まり返った室内に響く。
     静寂に包まれたキッチンに一人取り残され、湯気の立たなくなったミルクカップを手に、俺はまるで石にでもなったかのように固まっていた。
     気付いてしまった。
     否、ようやく気付けたのだ。
     初めての、彼との一対一での対話だった。
     その言葉、その仕草、この短い時間のうちに交わしたそのやり取りの全てが、それが何であるのかを声高に伝えてくる。
     もう、目を逸らすことはできなかった。
     ——ああ、そうか。
     憧れなのだと、思っていた。
     あの日、天輪の瞬く夜に目にした彼の持つ強さ、その信条の揺るぎなさに対する、ある種の子供染みた憧憬のようなものなのだと。
     嗚呼、けれど。どうしたことか。
     いざ、その蓋を開けてみれば、中身はまるで別物だった。
     見当違いも甚だしい。もっと、単純だったのだ。
     今となっては遥か遠き過去になってしまった、
     かつて自身が過ごした、揺りかごにも似た日常の中にも確かにあったもの。
     誰であれ望み願い、手を伸ばし、秘めやかにその胸に抱くことを許されたもの。
     叶ったり、叶わなかったり、その成否の如何に問わず人生を彩り、その力をもってして人を前に進ませるもの。
     それに、一度でも気付いてしまったのなら、もう後戻りはできない。
     けれども、厭な気持ちは微塵もなく——。
     ああ、やっぱり、という納得と、
     理解を得た充足が、ただこの胸を満たしている。
     今日、名もなき祈りに名が付いた。
     まだ朝陽が目覚めない一人きりの静寂のなか、
     マグカップのうちに揺蕩う乳白色の水面を見詰め、ひとり、目を細める。
     
     
     
     
     
     あの日、
     空を見上げたあの日。
     
     確かに、
     この胸を焦がしたものがあった。
     
     そうだ。
     
     俺は、その名前を、
     ずっと前から知っていた。
     
     そう、これは。
     
     
     恋、と。
     
     
     そんな、
     甘やかな響きで、音にするべきものだった。
     
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