卵二パック『今日、特売で、卵一人一パックの日だから、来いよ、スーパー』
三時間ぶりの連絡を受け、流川はいつものスーパーに向かうべく、家を出た。十五分足らずで到着したよく行く大きめのスーパーの前にはすでに桜木が立っている。流川がその後ろ姿に後一歩で辿り着くというところで、桜木が口を開いた。
「ちゃんと来やがったな」
むっすりとした横顔でそう言うと、先に開店したばかりのスーパーの中に入っていく。流川も後に続いた。カゴを乗せたカートを押して、桜木は卵売り場を目指して、のしのしと歩いている。
「…てめー、俺に何か言うことあんじゃねーの」
テーマソングが繰り返し流れる店内で、流川は桜木の背中に突っ込んだ。
「何かって何だよ」
「言っとくが俺は浮気なんかしてねー」
「知ってら、俺は別に、そんなふうに思ってねぇ」
「思ってねぇくせに寝起きで家出て行くんか」
「あ、あれはちょっと頭冷やしたかっただけで…!」
肩を窄めた桜木は流川の方を見ようとしないまま、足を速める。大柄で歩幅も大きい二人なので店舗の奥の方にある卵売り場まであっという間だ。桜木がカゴに卵の十個入りパックをひとつ入れるから、流川はもうひとつを手に持つ。碌に話もしようともせず、用は済んだとばかりにそそくさと卵売り場を後にする桜木に呆れて、それでも流川は、桜木について行くしかなかった。ふう、とため息をつく。
「寝言で猫の名前呼んだぐれーでやきもち焼いてんじゃねー」
「わ、悪かったな!」
売り場の角を曲がって、今度は牛乳をカゴに入れた桜木が言い返してきた。ようやく目が合う。流川は軽く顎を上げて、見下ろすようにして桜木を見やった。桜木も負けじと表情を険しくしている。だが分の悪さは分かっているようで、どこか気まずそうだった。
「俺だって、んなことでいちいちムカついたりおめーの顔見られねぇようになったりするとは思ってなかったんだよ」
次いで辿り着いたハムやソーセージの売り場の前で桜木は顔を赤くしている。今朝、流川が起きると、一緒に暮らしているマンションの部屋に、桜木は居なかった。二人揃っての休日で、何の予定もないと言っていたのに、どういうことだと首を傾げつつ携帯を確認すれば、桜木からのメールが届いている。流川が目覚める一時間前に送られていた。ちょっと出かける、心配するな、また連絡する。メールを読んだ後で流川は桜木に電話した。水戸の家に居る以外は、何があったかと聞いても要領を得ない物言いをしてくる。しつこく問い質してやっと打ち明けられた内容に、流川はどっと疲れてしまった。寝言で俺じゃねぇ奴を呼んでやがった、それも何回も、おまけにふやけた顔しやがって。ぐずぐずとなじられ、そいつは近所の知り合いが飼い始めた猫の名前であり、最近懐いてきたのが嬉しかったからそういう夢を見たんじゃないのかと、高校一年の時からつき合っていて、卒業後のなかなか会えない渡米の期間を経て、日本でプレイするにあたり住処を同じくした、長く交際している彼氏に説明してやった。こんなことで拗ねてんじゃねーと思いながら。
「くそ…っ…俺様は本当はもっと寛大で大らかで肝が据わってるはずなのに…」
桜木のぼやきに、そんな性格だったか?と流川は眉間に皺を寄せた。
「おめーのせいだ…おめーを好きになっちまったから、こんな…」
「ふーん」
「ええい、笑うなら笑いやがれ、何でぇ、もう何年もおめーとつき合ってるっつーのに、ちくしょう…」
「さすがどあほう」
「ぐぬぬ…」
「朝からてめーのせいで人を疲れさせやがって」
「あ?何のことだよ?」
「いきなりてめーが居なくなったせいに決まってんだろ、どあほう」
「む…け、けどその後は、いつもみてぇにバスケしてたんだろ、どうせ」
桜木がそう言った直後に流川の腹の虫が鳴いた。流川が寝起きの空腹をそのままにバスケをしに行くことはない。そして料理が得意な桜木ほどではなくても、流川も食事の用意はできるのだ。
「してねー」
「朝飯作んの面倒だったってか」
「バスケのためなら作る」
「そうだよな」
「てめーが居ねぇからバスケする気になれなかった、いきなり出て行ったてめーのせい」
「ルカワ…」
「もう何年、てめーとつき合ってんのか分かんねぇぐらいなのに、こうなっちまった」
「何年かそこは覚えてろよ」
「うるせー、知るか、どあほう、浮気じゃねーって分かったんだったらさっさと帰ってきやがれ」
「何つーか気まずいっつーか、分かってももやもやするっつーか、分かんだろ」
「分かんねー」
三十半ばの顔できりきりと睨み合う。まるで手にしているパックの中の卵になった気分だ。ちょっとした衝撃で、揺れて傷つく。馬鹿馬鹿しいことだと分かっていた。分かっていてもなお、気持ちをフラットに戻せない。どうしてだ。アメリカでバスケをしていた頃はこれぐらい比じゃなかっただろうに。何ヶ月も会えなかった、会わなかった。バスケにだけ打ち込んで、連絡も少なくて、でも、別れずに、今、こんなふうに二人で食べる食材の買い物をしている。あの時と比べて、弱くなった気がした。当時は強かったのに…それともあの日々を過ごしてのこの自分なのか。すぐ隣に居るのに、隣に居るから、簡単に揺れても相手に訴えられる…そんな安心感に溺れているのか…気まずいのはこっちだと流川は舌打ちしたくなった。桜木が好きだという気持ちと、そこから生じた今の状況が、流川にかっかと恥をもたらし、桜木を睨まずにはいられない。桜木も同じようだった。お互いに動揺している。商品を取るために横から伸びてきた誰かの手に我に返った。流川はいつものハムをつかんでカゴに入れ、そそくさとその場を離れる。
「ハムはまだあるぞ」
「知るかよ」
「…急に出て行ってびっくりさせて悪かった」
「飯食ったらバスケする」
「おー」
「ていうかおめーも悪いんだからな、猫構う暇があんなら俺様を構いやがれ」
「クソどあほう」
思いがけないセリフにどん、と心臓が音を立てた。うっかり卵を握り潰しそうになる。流川が罵れば、桜木は赤ら顔のまま、開き直った態度で言葉を続けた。
「何だよここまで来たらもう一緒じゃねぇか、アメリカん時みてぇに離れててなかなか会えないってんならともかく同じ部屋に居る天才より猫かよ」
「構ってんのはてめーが居ねぇ時だけ」
「あっそ…あ、おめーの赤い顔見て思い出した、トマトもねぇんだった」
「どあほうも真っ赤」
「いや、おめーには負ける」
「ふん」
「そこで勝ち誇っちまうとこがすげぇ好きなんだよなぁ」