壁「じゃあな、桜木、流川」
「キャプテン、桜木先輩、お先です!」
「気をつけて帰れよ」
後輩や同級生たちが居なくなると、さっきまで騒がしかった部室がしんと静まり返る。去年の今頃、キャプテンだった宮城から職務を引き継いだ流川は、挨拶に頷き返すために上げていた顔を、部誌へと戻した。部室の奥の机に座って部誌を埋めていた流川にところに、お喋りに夢中になって着替えの手が止まっていた桜木が、ようやく練習着から制服姿になって、近づいてくる。
「よお、さっきの、聞いてたかよ」
机の端に腰かけた桜木の尻から、下敷きになった部誌を引き抜いた。
「知らねー」
「桜木センパイ、高校からバスケ始めたのにすごいですね、だってよ、今年の一年坊主はよく分かってやがるぜ」
着替えの最中に一年生から告げられた言葉をにやにやと繰り返す桜木に流川はため息をつく。もう聞き飽きていた。広島での山王戦に感銘を受けて湘北に入ってきたと言う部員は何人もいるが、その中の一人が、特に桜木を慕っている。去年の四月に入部してからずっと、短期間で山王戦であんなふうに活躍できるぐらい上達するなんて、とあの夏の試合に感銘を受けたことを繰り返し桜木に伝え、その度に、桜木はだらしなく顔や態度を緩ませていた。流川はちらっと桜木を見上げる。
「お?何だよ」
「俺もそー思う」
「はっ?」
「最近はまあまあ」
いつもなら練習が足りないだの下手くそがいい気になってんじゃねーだのと言ってやる流川が同意したからか、桜木はぽかんと口を開けた。マヌケ面。そんなことを思いながら顔を見ていれば、驚きから我に返った様子でがばっと立ち上がった。
「マジで言ってんのか」
「嘘吐いてどーする」
「ふ…ふふ、ふははは、そうか、とうとうキツネも、俺様のバスケの凄さがようやく理解できるように…」
「今まで払ってきた税金戻ってきた、これぐらい」
そう言って流川は、顔の前で人さし指と親指で丸を作ってやる。桜木がまじまじと丸を覗き込んできた。それからぐっと眉をしかめる。
「…お前、それ、ゼロってことだよな」
「よく見やがれ」
「ほとんどゼロじゃねーか!」
丸を作っている二本の指の僅かな隙間がよく見えるようにと桜木の顔に突きつけてやった。一年の頃、海南戦の後で負けたのは俺のせいだと落ち込む桜木に、どれほど周囲が期待していたと思うかと示してやった時より少ない。桜木がかぷるぷるとからだを震わせた。
「ゼロではねー」
「…ったく、相変わらず性格悪ぃキツネだぜ」
さっきまでは後輩に誉められて嬉しそうだったくせに、今は拗ねている。ぷい、と反らされた横顔に、本当に認められたいのは誰かの名前が書いてある気がして、流川は笑った。俺じゃねー奴の言ったことに、へらへらしてんじゃねー。
「これでも誉めてやってる」
「へーそうかよ全然分かんなかったぜ、いっつも嫌味ばっかなのに、今日はどうした、明日、槍でも降らす気かよ」
流川からすればまだまだど素人だ。時々目を瞠るプレイをすることもある。負けん気と恵まれたスタミナや身体能力を使って必死に食らいついてくる姿は、多くの熱を孕んでいて、流川をいい気分にさせた。簡単に認めてやるつもりはない。それは流川なりの期待だった。
「この前、誕生日だった」
「それがどうしたら」
「年上だから、たまには誉めてやる」
「そこは彼氏だから、じゃないんかよ」
「年上を敬え」
「年下を労りやがれ」
十八歳と十七歳が睨み合う。ライバルで、恋人だ。くだらない喧嘩でも、コートの上でも、これからも対峙していく。