嫌いになりたい、嫌いになれないぎしり、ぎしりと床が軋む音が鼓膜を震わせる。
何の目的もないその足は幾つかある部屋の前で止まる。
その部屋の扉は少しだけ開いていた。
何と無しに、無意識に、当然のように扉を閉めようと手を伸ばす。
「ぁ…ッ、う゛」
その嗚咽を聞いた時に、私はその場から離れるべきだった。
なりふり構わずに。
音が鳴ろうがそこに居たことがばれようが。
けれど気になってしまった。
部屋の中から嗚咽が聞こえたからだけではない、それが知らない人間であれば私は扉を閉めていただろう。
「もう、ゆるして」
声の主は道化師、―――ゴーゴリだった。
吸い込まれるように扉の隙間から中の様子を伺う。
彼の狂人が、一体何をどうしたら弱音を吐くだなんてことになるのか気になってしまった。
「大丈夫ですか?」
ドストエフスキーから発せられるその声は恐ろしく無機質で、不気味だった。
部屋の中には椅子と、その椅子に座っているドストエフスキーと、彼に縋り付くように床に座って項垂れているゴーゴリだけが存在していた。
それ以外は全て真っ白で構成された部屋で、まるで精神病棟のような部屋だった。
「――それで、誰をどう殺したんですか?」
なんでもないことのように、今晩のご飯の献立を聞く様に、殺人の詳細を聞くドストエフスキーの唇は薄く笑っていた
「ころし、殺した、わたし、ぼく、私は、君から渡された書類の人間を、人を、殺した、刺した、生きたまま刺した、魚を捌く時と同じ要領で肉を切って、皮を剥いで、ずっとずっと、助けてって声が耳に残ってる。頭が可笑しくなりそうだ!」
「可笑しくなる為に殺しているのでは?」
「そう、だから、でも、だって、どれだけ殺しても、どれだけ非道いことをしても、殺した手の感触と彼らの声が離れてくれない、離してくれない。」
「可哀想に」
いつもと全く様子が違うゴーゴリと、いつも通りの様子のドストエフスキー。
二人だけの空間はとても異様な光景だった。
今見た光景が何一つ理解出来なかった。
いや、理解したくなかった。
あの道化師は理解のできない狂人などではなく同じ人間なのだと言われた気がして。
人間を人間だと認識して、殺した相手のことを考えると吐いて自分の思いを吐露して自分を見失う位には後悔するゴーゴリは、何をどう頑張って見ても人間だ。
感情も思考も持ち合わせている、ただの人間なのだと、そう突き付けられた。
ゴーゴリに感情を揺さぶられていると視線が突き刺さる。
視線を手繰って其方を見るとドストエフスキーと目が合う。
目が合うと笑みを浮かべてくる彼に背筋が凍った。
見られた。
見ているところを見られた。
見ているのを知られたのは何時からだろうか。
いや、全てを見透かしているような彼のことだ、きっと私が見ることを織り込んでいたのだろう。
だから何時もは開いていなかった扉が開いていたのだ。
いつの間にか乾ききっていた口の中からは何の音も出せない。今の自分はただ息をしている肉の詰まった人形だ。
ドストエフスキーが唇に人差し指を当てている。
ゴーゴリには黙っていろ、ということなのだろう。
私が今夜こうしてこの光景を見てしまったことも、ドストエフスキーが態と他人に見せて愉しんでいる事実も、全て黙って、寧ろ忘れろということなのだろう。
言われずとも言う気もないし記憶に留めていたくない。
扉から、その部屋から離れて歩みを進めた分だけ戻っていく。
今夜自分は何も見ていなかった。
扉が開いていた部屋などなかった。
道化師は矢っ張り道化師で、人間の思考も感情も無かった。
そう思いながらベッドに滑り込み、布団に丸まって私は眠り落ちた。
________________________________
当時の行動と思考と感情の揺れそのままの夢を見た目覚めは最悪だった。
忘れようと努力はした。
考えられないように知識を詰め込んで、自己暗示は欠かせなかった。
実際当時のことは忘れていってもうなんとも無かった。
けれどドストエフスキーに殺されたも同然のことをされて、ゴーゴリに利用されること前提だとしても命を拾われて、考えてしまった。
ドストエフスキーは知り合いだろうがなんだろうが命を捨てて、ゴーゴリはその命を拾うのだなと、思い出すきっかけを作ってしまった。
いや、思い出したからと言ってゴーゴリとの関係がこれといって変わるかと言われると変わらないのだが。
「シグマ君?」
変わらない、はずだ。
「お~い」
「うるさむぐッ」
口を開いたのを見計らったかのようにクッキーを口に突っ込んでくる。窒息したらどうするつもりなんだコイツ。
程よく甘いクッキーを味わい、飲み下す。
「美味しい?」
コイツはいつもこうだ。
利用するのならば利用すればいいのに、今はまだ時じゃないから、などと言って私のことを絆そうとしてくる。
絆せば利用しやすいと考えているのだろうか、それは間違えている考えだとは一概には言えない。言う事を聞く相手にしてしまえば利用しやすいからだ。
人の温もりにまともに触れてこなかったが故に今手料理を食べさせてもらったり挨拶を掛け合ったりする、この関係に絆されつつあるので本当に止めてほしい。
「……美味しい」
「それは良かった」
目の前の道化師はにんまり、という擬音が正しい位の笑みを浮かべて満足げだ。
嗚呼嫌だ。
これ以上私にお前を人間だと認識させないでくれ。
「ねえ、シグマ君」
「……なんだ」
そういえばと言いたげな顔を此方に向けて、私の胸に指をさす
「傷はもう大丈夫?」
大丈夫か問いかけながら縫われて既に完治した傷の上にぐり、と指を押し付けられる。
「お前、態とやっているだろう」
「ハハ、バレた?」
口角を上げて目を細めて、大袈裟といっても過言ではないくらいの満面の笑みを浮かべる彼に溜息を吐く。
「大丈夫そうだねえ。血が噴き出してきたら笑ってあげようと思ったのに」
冗談なのか本気なのかわからない妄言を吐く彼を睨みつける。
感情が普通の人間だろうがなんだろうが普段のこいつはやっぱり苦手だ。
「そんな顔しないでよ、怖いなあ」
口元に笑みを携えながらこわいこわい、などと言葉を発する彼に眉を顰める。
「思ってもないことを」
「本当に不機嫌そうだねえ?もしかしてこわ~い夢でも見た?」
怖い夢、といえば怖い夢だ。前提を覆されるほどものなのだから。
「おや、本当に怖い夢みたの?大丈夫?」
顔に出ていたのか目を瞬かせて私の俯かせた顔を覗き込んでくる。覗き込んでくるその目と目が合う。何とも言えない気持ちになって目を逸らさざるを得ない。
「大丈夫だ」
「シグマ君三歳児とはいえ身体は大人なのだからおねしょはちょっと…」
「誰が三歳児だというかおねしょなんてしてないが」
巫山戯た言葉に顔に熱が集まるのを感じながら顔を勢いよく上げて彼を見る
また目が合う。
今度は逸らすことができない私に対して目の前のゴーゴリは目を細めて揶揄うような、安心したような、面白いものをみたような、どうとでも読み取れる笑みを浮かべている。
「なんだかくら~い表情してたからクッキーあげたのにまた何か考え込むからどうしたものかと思ったけれど、そんなに言い返せるのなら要らない心配だったねえ!」
表情を明るくした彼と、彼の発した言葉に目を見張る。
心配?こいつが?私を?
「鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしてるね?誰だって目の前に私は絶望して辛いです~みたいな顔してる子がいたら声かけたりしたくなるでしょ」
「……少なくともドストエフスキーはもっと絶望に堕とそうとするだろうな」
「ドス君は特別だからねえ!」
特別視されているドストエフスキーは本当に特別なので何も言えないが、それとは別に何とも言えない気持ちになる。
「……」
「シグマ君?」
笑みを携えていたゴーゴリはいつの間にか上がっていた口角を下げてきょとん、と目を丸めて首をかしげていた。私の反応がおかしかったのだろう。自分でもわかる。
私は可笑しくなってしまったのだろうか。
いや、可笑しくなってしまったのだろう。
此奴を純粋に道化であったと思えなくなったあの時から。
「………彼奴の話はやめろ」
「…君から話出たんだよね」
珍しく動揺を隠せない彼を見ればもやもやとした気持ちは薄れてくる。
「君の考えてること今は一寸わからないな、今日はそういう日なの?」
「どういう日だ…嫌な夢を見たからお前に嫌がらせして気分を落ち着かせてるだけだ。」
取り繕った理由を言葉にしながらこれはこれで嘘ではないな、と思う。
「なにそれ!君は良いかもしれないけれど私だけがいや~な気持ちになるやつじゃない」
態とらしく頬を膨れさせる彼は、本当はそんなに怒ってないし傷ついてもないのだろう。
空気の入った頬を指で押して強制的に空気を出させると目を丸めて驚きを隠せない表情になる。
私にもそういう表情を見せるのかと思うと可笑しくて小さく笑い声を漏らしてしまう。
「ええ?誰でもびっくりするでしょ!なんでそんなに笑うのさ!」
怒ってるというよりは笑われたことに羞恥したのか少しだけ顔を赤らめて怒った表情をしている。
「ふ…いや、子供みたいな反応の仕方だと思っただけだ」
「…シグマ君、私今日気分がとってもよかったからデザートにプリンでも出してあげようかな~なぁんて思ってたけど君はそんなに食べたくないと見た」
「お前がなんでって言ったから答えただけだろ…」
「知らなーい聞こえなーい」
「子供か!」
「謝ったら出してあげなくもないけれど?」
「なんでお前上から目線なんだ………クソ、言いすぎた、」
「うん?」
「……悪かった」
「うん!いい子いい子~」
ぽんぽんと子供をあやす様に頭を撫でてくるゴーゴリ。
今回私は何も悪くないのだが…?
ゴーゴリから視線を外すと何を思ったか彼は私の頭に手を回して彼の胸に引き寄せられる。
「…」
「嫌な夢見ても私に当たるより君の好きなもの食べてもう一回寝たほうが遥かにマシなのだから、今度からちゃんと教えてね」
彼の手が頭を撫で、低いが低すぎることのない声が吐息と共に耳に入ってくる。
かっと顔に熱が集まるのを感じながら彼を突き飛ばすと彼はわあと気の抜けた声を上げてあっさりと私の頭から手を離す
「っ、おま、」
「ハハ、顔真っ赤。子供扱いした仕返し」
悪戯をしたときの子供のように舌を出してキッチンの方へと振り返り離れていく背を見送り、顔に手を当てる。
その手は冷たく感じたが脈が速くなっていくのも同時に感じ取れる。
嫌だ、嫌だ。
此奴なんかに好意を持ちたくない。
こんな、いつ終わるかわからない、でも終わりが見えているような初めての恋なんかに落ちたくない。
「シグマ君」
お前なんか、嫌いだ。