もしかしたら、それはいつかの まるで、淑やかに鈴を転がしたような、そんな可愛らしい歌声だった。
軽やかに、柔らかに。秋の揺蕩うような光の中、それは甘く優しく響いていく——。
「桜井じゃん。こんなとこで何してんの?」
そう声を掛けてきたのは、高校に上がって初めてクラスが同じになった人間だった。話をするのが初めてな訳じゃない。けれど、静寂を基本とする場所で憚りなく呼ばれたことにそういうつもりでなくても眉間が寄った。
「……本を、読んでる」
だから簡潔にそれだけ答えた。鞄の中には携帯型のゲーム機も忍ばせてある。だけど、さすがにまずいだろうとここで遊ぶのはやめた。代わりに本棚から気が向きそうな本を取り出してきて適当に目を滑らせていた。
「図書館だからなぁ。って、いやいや、そうじゃなくてさ」
そいつが軽く苦笑いする。借りるつもりらしい本をとんとんと肩に当てながらこちらの顔を覗き込んできた。
「なんでここにいんのって話。学校から見たらお前んちって逆方向じゃん。なんでわざわざ遠いとこに来てんの?」
こちらの家がどこにあるのかを知っているらしい。人の口に戸は立てられないということか、はたまたクラスメイトということで記憶されていただけか。……まぁとにかく。
「……今日は、普段とは違う道から帰りたいんだ。だけど、ただ遠回りするだけだとあからさま過ぎるから」
述べた答えにそいつが一瞬きょとんとし、そして訝るように首を傾げる。次いでくるりと踵を返した。
カウンターで貸出作業をしているらしい姿にふぅと大きく息をつく。話は終わったのだろうと思っていたけれど、だがそいつは本を鞄にしまいながら大急ぎで戻ってきた。
「お前、学校でも自分のことあんまり話さないからな。何かあるんなら教えろよ」
椅子でも引っ張ってきそうな勢いに、思わずぽかんとしてからいやいやと片手を振る。けれど諦めてもらえる様子もなく、仕方がないというように肩を竦めた。——だが。
(……ここ、じゃ、まずいな)
話が続きそうな雰囲気を察したからか、周囲からちらちらと目線が向けられていることに気が付く。静寂云々と言いながら自身がそこで話をし始めたらまさに本末転倒だ。
「……出ながら話すよ」
それだけ告げて立ち上がり、眺めていた本を棚へと戻す。出入り口へと向かいながら隣を歩き出したそいつに向けて口を開いた。
「……いつも通る道なら待ち伏せするのも容易いし、そこでプレゼントですって差し出されたら受け取るしかないだろ。それが嫌で、だからあえて違う方向から帰りたいんだ」
聞いたそいつが再びきょとんとした顔をする。へ? と零すそいつを横目に深々とため息をついた。
「……俺、今日誕生日なんだよ」
祝われることが嫌とは言わない。家に帰れば母が腕に縒りをかけて作ってくれたご馳走が待ってる。父もおめでとうと言ってくれる。それだけでいい。それだけでいいのに。
「よく知りもしない人に……話したこともない人に、いきなり「おめでとうございます」って言われても困るんだ。贈り物なんか用意されていたらさらに困る。嬉しくもなんともないのに、それでも礼は言わなくちゃならないし……厄介なことに巻き込まれたくもないから、できるだけ関わりたくないんだよ」
言い放ったそのことに、そいつがなるほどねと小さく呟く。思うところがあったのか顰めっ面をして腕を組み、うんうんと大きく頷いた。
「あの時贈ってあげたでしょって後から見返り求められたって困るよなぁ。そっちから勝手に贈っといて何言ってんだよってな。ま、俺の場合は姉貴だけどさ」
期せず聞けた姉弟喧嘩に微笑ましさが込み上げてきて思わず笑う。そいつが軽く息をつき、そしてこちらの顔を覗き込んだ。
「お前が警戒心を抱くのは……見た目から入る奴を信じないってのは、お前のこれまでの振る舞いを見てりゃわかるけどさ。それでももしかしたら、今日会った誰かがお前の琴線に引っ掛かるかもしんないじゃん。そう考えれば突撃されるのも悪くないかもって、そう思ったりすることはできるんじゃねーの?」
その言葉にふるりと首を横に振る。話をしてみないとその人の内面はわからないことは事実だけれど。
「……そうなる人とは、いずれ縁ができるもんだと思ってるよ。心を押し殺した末での出会いは、俺にとって出逢いじゃない」
聞いたそいつが「そんなもんかね」と答えてかりかりと頭を掻く。励ますようにして背中を叩かれて、返事として肩を竦めてみせ……そこでふと。
「……なんだか、人が多くないか?」
いつのまにか周りにたくさんの人がいることに気付く。ほとんどが女性、の……学生?
「ああ、今日そこの公会堂で合唱コンクールの予選やってんだよ。ちょうど終わって、引け出した頃なんじゃねぇのかな」
即座に答えてくれたそいつにへぇと呟く。図書館があることは知っていたけれど、公会堂なんてものがここにあるとは知らなかった。もちろん、そこでどんな催事が行われているのかも。
「……さすが、よく知ってるな」
この辺りに住んでいるみたいだから、建物も行事もちゃんと把握しているのだろう、そんなことを思っていたらそいつが思いっきり顔を歪めた。
「姉貴が参加してるんだよ。俺の誕生日は先々月だったんだけど、祝ってやったんだから応援に来なさいよってさ。まったくもって納得できねーよ」
憮然として話す様子に今度はこちらがなるほどと返す。……自分には兄弟という存在がない。桜井の親族ともあまり関わらないから同じ年頃の子供がいるのかどうかもよく知らない。だからそこに抱く感情は想像で賄うしかないけれど、そのことを淋しいとも思わない。自分の出生に何かあるのだろうとは思うけど、知らないままでいいと思えるほどにあの人たちが自分を愛しんでくれていることがわかるから。
(……そろそろ、帰ろう。きっと待ってる……)
空を仰いで傾き始めた日差しに目を細める。さて、と小さく呟いた、その時。
(…………ん?)
軽やかで柔らかな歌声が、耳に可愛く聞こえてきた。
目に映ったのはセーラー服。緩く二つに結んだ髪と、……その口元にあるのはほくろだろうか。
「……桜井? どうした?」
声を掛けられてはっとして、歌声に聞き入ってしまっていたのだと気が付く。そうしている間にその姿はどんどん遠くなっていく。
「……いま、すれ違ったあの人……、あの制服、どこのかわかるか?」
小さくなっていく後ろ姿をぼんやり見ながら聞いてみる。問われたそいつも目を向けたが、すぐにいいやと答えてひらひらと片手を振った。
「さすがにぱっと見ただけじゃなぁ。コンクールに参加した学校だろうなとは思うけど。って、なになに気になんの? 追い掛けてストーカーしてみる?」
その言葉にまさかと答えて小さく笑う。それをやったら完璧に不審者だ。……でも。
「どこかで、また逢えたらいいな。……いつか、どこかで」
そう言ってみせると、そいつはそっかと応えて小さく笑った。帰るらしいと察したらしく、じゃあなと軽く手を振って去ってゆく。
そう、縁があったなら、きっとまた逢う。きっと、いつか——。
「……さくらいさん?」
愛しい声に名を呼ばれ、思わずはっと目を開ける。視界に飛び込んでくる彼女の姿。
「……おつかれ、ですか? いったんベッドでお休みします?」
おずおずとそう尋ねられ、大丈夫ですよと笑ってみせる。昼下がり。誕生日だからと譲らない彼女に昼食の後片付けを任せてリビングのソファに腰掛けていたら、いつのまにか眠ってしまった。
「片付け、ありがとうございます、森子さん。ネトゲ……の前に、コーヒー淹れますね」
そう言って立ち上がろうとしたところを彼女に押さえつけられる。瞬きしながら顔を上げると、彼女は柔らかくにっこり笑った。
「わたしが、淹れます。桜井さんはこのままゆっくりしててください」
言い聞かせるようなその口調に肩を竦めて小さく笑う。……はい、と聞き分けよく答えたご褒美として口付けをねだり、真っ赤になりながらも応えてくれた彼女の唇を優しく塞いだ。
「……それじゃあ、お願いします」
はいと頷いた彼女がキッチンへと戻っていく。ふと見たリビングの窓の外には晴れた秋の空が広がっていた。
(……いい、天気だな……)
注ぎ込んでくる日差しも柔らかい。小さく息をついて目を細めた、……そこで。
淑やかに転がる鈴のような声が、耳に届いた。
くるりと顔を巡らせてみる。キッチンで仕度をする彼女が、小さな声で歌っていた。
(…………?)
いつかどこかで聞いたような、そんな気がするけれどそれがいつどこでなのか思い出せない。そうこうしているうちに彼女がマグカップを二つ持ってソファへと歩んできた。
「……? どうか、しましたか?」
ぐるぐる考えるこちらを見て、彼女が不思議そうに首を傾げる。差し出されるカップを受け取りながら彼女に向かって口を開いた。
「……いま、歌っていたのは、なんという曲ですか?」
途端に彼女がぽんと顔を赤らめる。意図して歌っていたのではなく、つい口ずさんでいたのだろう。恥ずかしそうに眉を下げる彼女を真っ向から見つめると、彼女が隣に腰掛けてから居た堪れなさそうに視線を落とした。
「……すみません、タイトルは、覚えてなくて……。高校生の時に、合唱コンクールに出たことがあって、そこでの課題曲だったんです。フレーズが耳に残ってて……ふとした時に、ついつい歌ってしまうんです」
「……有名な、曲ですか?」
静かに尋ねたそのことに、真剣な問いなのだとそう受け取ってくれたらしい。彼女が再び首を傾げつつ、それでも今度はちゃんと目を見て答えてくれた。
「……街中に流れるような、そんな曲ではなかったことは覚えています。わたし自身、課題曲として取り組み始めるまでこの曲のことは知らなくて、学校を出た後は耳にすることもありませんでした」
聞かせてくれたそのことに今度はこちらが首を傾げる。質問の意図を知りたそうに見上げてくる彼女に、にっこり笑って種明かしした。
「どこかで聞いたような気がするんです。でも、いつどこで聞いたのか、まったく思い出せなくて」
彼女がなるほどと相槌を打つ。そしてぱんと手を叩いて明るく笑った。
「もしかしたら、合唱の場にいらっしゃったことがあるのかも。コンクールは毎年行われていましたし、その曲を歌ったのがわたしがいた学校だけとも限りませんし」
言われて記憶を探ってみる。が、そういった行事に出向いた記憶がとんとなく、困ったようにうーんと唸る。そこで彼女が言葉を継いだ。
「でも、もしかしてほんとに、わたしが所属していた部のものを聞いていたのかもしれませんね。そう考えたらものすごく素敵ですし、桜井さんとはご縁があるんだなぁって思えます」
思わず彼女をまじまじと見る。はにかみながら笑う彼女に、そうですねと応えて柔らかく笑った。
「……もういちど、歌ってもらっても、いいですか?」
途端に彼女が慌てふためく。再び真っ赤になっていやいやと首を振る彼女に目を細めながら囁いた。
「……すごく、聞きたいんです。覚えてるところだけでいいので、お願いします」
なぜだかはわからないけれど、とても気持ちが揺さぶられる。手に入れたかったもの、この手に残ってはくれなかったもの、その両方を大事に抱き締めているような。
彼女がぐぐっと唇を引き結ぶ。観念したように息をつくのを見て取って、静かにそっと目を閉じた。
柔らかな旋律が、光の中へと響いていく。鼓膜を震わせる可愛い声が、優しく心を開いていく。
この世でたったひとつのその音色。何にも変えられない、愛しき人の——。