書き下ろし進捗まだちあ編
ばちぃんっ!
教室内に響いたその音。割と近くで聞こえたのに遠くで聞こえたようだった。遅れてやってくるヒリヒリとした痛みに、俺は漸く、自分が叩かれたことに気付く。俺の腕を抱える敬人さんでも宗さんでもない。目の前にいる、叩いた人物に視線を向けた。肩を上下に揺らして息をし、綺麗な透き通った水色の瞳で俺を睨み上げてくる。
「ぃ、ずみ、さん……?」
「……ッとにっ。今更喰らいつきに行こうとするんじゃないよぉ、このバカ!」
ぶんっと俺を叩いた手を後方へと向けながら声を荒らげる泉さん。珍しい、とても。いや、気に入らないことがあればイライラとし、後輩いびりをしてストレス発散しているのは知っていたがここまで声を荒らげるようなタイプではない。だから、俺は思わず間抜けな声を出してしまった。
「な、なに……?」
「ああもう!バカ!ほんっとバカ!!」
がっしりと胸ぐらを掴まれて前後に揺さぶられる。両脇にいる敬人さんと宗さんが泉さんを制止しようとする声が聞こえた。
ところで、俺はどうして泉さんに叩かれたのだったか。
「ッは……っ」
「──!」
短く吐き出された息が鼓膜を震わせて思い出す。遮断されていたのではないかと思うほど今になって鼻膣を甘い匂いが通っていく。そちらに視線を向けた。
「はっ、ぅ、はぁ……っ」
「ちあ、きさん……」
赤茶色の瞳が丸く見開かれて肩で呼吸している。少しだけ、恐怖に似たものを瞳に宿して。薫さんが傍らで千秋さんの背中を摩っているのが判る。それで、俺は思った。
──ああ、やってしまった……。
俺はαだ。勿論、番はいない。そんな俺が一瞬だけ我を忘れた。理由は、千秋さんから甘い匂いがしたから。俺の認識では彼はβ性のはずなのに、何故か、千秋さんから『発情期』を迎えたΩの匂いがした。その刹那、俺の中にあるαが過敏にも反応してしまったのだ。
『すぐそこに無防備にも匂いを撒き散らしているΩがいるぞ』と、言うように。
そこからの記憶があまりない。抑え込まれている所を考えるに俺は恐らく、千秋さんに手を出そうとしたのだろう。でなければ泉さんにビンタされるはずもない。ついでに言えば「今更喰らいつきに行こうとするんじゃない」という言葉についても、そうだったのだと気付く。
(傷付けたかった訳じゃない。寧ろ大切にしたい。流星隊云々ということではなく、一個人として……なのに)
Ωの匂いでこんなにもこの子を怯えさせたのかと思うとどうしようもなく情けない。俺はこんなに耐え症がなかったのか。そんなことを考えていればガラリと扉が開く。そこには紅郎さんが居た。
「騒がしいから見に来たんだが……、そういうことか」
「き、りゅう……」
「羽風、お前そのまま守沢を保健室に連れてってやってくれ。お前一人じゃ心配だってんなら深海か仁兎でも連れてけよ」
「そう、だね。じゃあそうしようかな」
紅郎さんの言葉に薫さんは頷き千秋さんをゆっくりと立たせる。薫さんの肩に腕を回して支えられながら立つ千秋さんはそのまま教室を出て行った。何故かほっとしてしまう。Ωの匂いが僅かに残るものの先程よりは随分とマシだった。
「──で、何したんだよ」
「……記憶があまりないんだよなぁ、これが」
「ふざけてるならぶん殴るぞテメェ」
「いやいや本当だぞぉ?」
「だろうね。だって君、完全に我を忘れてたから。僕は対策済みだから平気だけど」
先程まで我関せずと傍観していた英智さんがやれやれと首を左右に振る。正直に言うとこちらが殴りたい。英智さんもαだ。彼はα用の薬を服用しているのだろう。『発情期』のΩがいても反応しないように、というものだ。英智さんの立場等を踏まえると完全ではないΩ側の対策を考えてとのことだろう。
「けど、千秋のあれにここまでとは思わなかったな。自分を律することが出来るタイプでしょう?」
「……」
「意外だよ。何が君をそうさせたのか是非知りないな」
にこりと笑う英智さんを見て寒気がする。よくもまあ言ってくれる。こちらの弱みを掴みたいと言いたそうに笑顔を貼り付けているのだから。言うはずもないだろうと笑ってみせる。
「意地でも言ってやるものか」
「へぇ……?」
「おい英智、話が逸れていくからやめろ」
英智さんとのやり取りに終わりが見えないと判断したのか、敬人さんがそう言えば英智さんは仕方がないねと呟く。
そして室内に入って来た紅郎さんが俺の襟を掴んだ。
「旦那、こいつは俺が借りてく。斎宮ももう離していいぞ」
「く、紅郎さん?」
「……ふん、好きにするが良いさ。最も、僕も大方解っているつもりだがね」
腕から手を離してそっぽを向く宗さんと少し黙ってから「任せる」と言って離れる敬人さんを見たあとで容赦なく紅郎さんは掴んでいた俺の襟をぐいっと引っ張る。 待って宗さんどういうことだと聞く前に。
「し、締まる……っ」
「黙って連れていかれろ」
そう言って俺は紅郎さんに引き摺られながら屋上へと向かうことになったのだった。
凪茨編
Adamの二人とEveの二人が番になってから数年。俺たちは二十歳を過ぎて二十四と二十三になっていた。つまり、俺と千秋さんが入籍してから五年経過している。その間にEveの二人が二年前に入籍した。活動上、千秋さんもジュンさんも旧姓だが新しくなった苗字を口にするのが照れくさいと言った感じだったのが今ではLIVEの挨拶で旧姓を名乗り忘れる時があるくらいには慣れたようだった。千秋さんは間違えた時に奏汰さんあたりから突っ込まれて赤面していることがあるが。
などと近況……というより今の状況を説明する形となってしまったが困っていることがある。先述した通り、ジュンさんの変性をきっかけに関わりができた俺たちの中で唯一Adamの二人だけは婚姻関係を持っていない。そう、今回は前代未聞レベルと言うべきか……。なんと、Adamの二人が喧嘩をしたらしい。
「で、何が切っ掛けだったんだ?」
「まあ簡潔に言うと結婚するしないで喧嘩になったらしいですよ」
「もう、茨ってばそういう所は相変わらずなんだから! 見てよ斑くん。この凪砂くんの悲しそうな顔!」
普段あまり感情が顔に出ない凪砂さんを見てみる。なるほど、いつにも増してじめじめとしていた。
Adamもプロだから仕事は仕事として成立しているようだが星奏館を出て同棲しているのだから部屋の中では普段の二人ではないというのだ。
さて、この二人が番となるまでにあったことを思い出してみよう。茨さんはオメガで凪砂さんはアルファ、茨さんは凪砂さんにオメガであることと好意を隠していた。が、それが災いして発情期が訪れてさぁ大変。茨さんの「閣下には綺麗でいてほしい、穢れから遠ざけたい」といった気持ちから自分の歩んできた経緯を踏まえて「自分は愛される資格はない」と突っぱねていた。が、そんなものは凪砂さんに通じる訳もない。それすら全て含めて茨さんであり、愛せるのは当然であるということをぶつけてきた。色々その間に弓弦さんとのことがあったが番となったAdamの二人。
俺の予想では茨さんのことだ。婚姻関係を持つということは己がオメガであることを公にし、万能の神のごとく完成されたアイドルである『乱凪砂』の番であることを世間に知られる──。それが如何に影響を及ぼすのか解っている。だから、渋っている……のではないだろうか。
「うーん、俺は茨さんには茨さんの考えがあると思うぞぉ」
「……茨の、考え?」
「そう、茨さんはコズプロの副所長だ。つまり、そう簡単に凪砂さんと結婚しました〜なんて言えないわけだ。Eveの二人なら解ると思うがそういった後の事前処理と事後処理は誰がやるのか……」
「あ、あ〜〜……。そう、っすよねぇ」
俺の言いたいことを理解したであろうジュンさんが苦笑していた。それはジュンさんが変性して茨さんが何をしてきたかを誰よりも身をもって知っているからだろう。それを聞いた凪砂さんは少し拗ねたように唇を窄ませた。
「……私と結婚することで、不利益になるんじゃないかって懸念してるってこと?」
「言い得て妙だなあ。まあ、自分が引き金で迷惑をかけたくないんだと思うぞお?」
それは有り得るね、と頷く日和さんにジュンさんも同意する。こんな調子で話しているがここで不在の人物がいる。当の本人である茨さんを除き、俺がここにいるということは……。もうおわかりだよなあ?