こへ鉢の日今日はわたしとおまえの日だ!
夏が突然目の前に現れたようだった。
それが、泥だらけの右手を差し出した七松小平太とのはじめての邂逅だった。
「そういえば、今日は三郎の日だな!」
「…は?」
教室で突然、八左ヱ門がそんなことを宣った。
「そしたら、八日は八左ヱ門の日だね」
「おう!」
にこにことしながら二人で話す姿を眺めていると、廊下からすごい轟音が近付いてくる。
「さて、と。私はそろそろ行くとするかな」
「行くってどこに――」
「鉢屋はいるかー!?」
「七松小平太先輩!?」
窓枠に近寄った三郎を見ていると、教室の戸がガラッと力強く開けられ、一瞬そちらに目を逸らした隙に三郎は消えていた。
三郎が消えた窓を眺めていると、影が差した。振り返ると七松先輩がこちらを見下ろしていた。
「お前は、雷蔵だな」
「は、はい。七松先輩、よく見分けがつきますね」
同学年でもいまだに間違える人がいるのに、学年が違う先輩は会う機会が少ない分もっと見分けがつかないはずなのに。
三郎が出て行ったであろう窓枠に足を掛けた七松先輩はこちらを振り返ると、まるでそこに夏がいるような笑顔でこう言った。
「三郎は、三郎だ」
真夏が過ぎ去った教室は少しだけ肌寒く感じた。
“わたしはおまえのセンパイだからな!おまえのねがいを聞いてやるぞ!”
あの時は、たしか、逃げたんだ。
突然現れた色の違う忍者服をみて、家からの刺客かと思った。
逃げたが、すぐに腕を掴まれ、咄嗟にころさないで!と叫んだ。
「あの時の、七松先輩の顔、未だに忘れられないですよ」
「あの時は私も驚いた」
あの時と何も変わらない。逃げたがすぐに捕まり、仕方なく腕の中で大人しくする。
「彦星になった気でいたからな」
「私には悪鬼に見えましたよ」
ぎゅう、と息苦しくなるほどの力強さに、背中に回した手でぽんぽんと背中を優しく叩けば、思い出したように力が抜ける。
「あの頃はただ、先輩に願いを聞いてもらったから、今度は私が誰かの願いを叶える。それだけだったからな」
「なぜ、私だったんですか」
これはずっと疑問に思っていた。ただ、七松先輩が所属している体育委員会には五年生がいない。あの頃は勧誘されただけだと思っていた。
そっと、かさついた指が仮面の頬を撫でる。いつものがさつな動作ではなく、まるで壊れ物にでも触れるかのように。
「涙が今にも零れそうなのに、太陽に向かって顔を上げて零さないように我慢する、そんなお前の顔に一目惚れしたんだ」
「……あの……はじめて、お聞きしたんですが」
「まあ、言ってないからな」
それは、雷蔵の仮面を無理矢理剝がそうとしてきた同級生を全員殴り散らした後の話だ。
あの頃、仮面を被って素顔を隠す私は同級生にとって異色だっただろう。ひとりになったところを見たことある顔たちに囲まれて、顔に伸びてきた手を順に叩き落としていった。
誰も居なくなった静かな空間は、じわりじわりと滲み広がるように空虚感が募っていった。
鼻の奥がつんと痛み、目の前が歪んできたが、負けるものかと太陽を睨み付けるように見上げることで阻止した。
それを見られていたのかと思うと、過去のことであっても恥ずかしさで死にたくなる。
「はは、仮面で隠せないところが真っ赤ではないか」
「見られていたとは、思わなかったので…」
ふい、と七松先輩の視線から逃げるように逞しい胸に顔を押し付ける。白粉が付こうが知ったこっちゃない。
「だからあの日、無理矢理にでも話しかけたくて。たまたま、長次から七夕の本を借りていたこともあって、私が彦星になって願いを叶えてやろうと思った。だから私とお前の日だと、そう言った」
逃げられたけどな、と太い眉を八の字に歪めて笑っている。
あの日から毎年この日になると、交互に願いを叶えることになった。願い事はすぐに叶えられるような些細なもの。これから塹壕を一緒に掘ってくれだの、鍛錬に付き合ってくれだの。普段と変わらないような願い事がほとんどであった。
そして、今年は願いを叶えてもらう年。だが、来年は、叶えてあげられないかもしれない。そう思って逃げていたのだ。
「今年は私が願いを叶えてやるぞ。ほら、三郎」