こたえはまだ知らない あ、と思った時には遅かった。
唇に触れるやわらかな熱。鼻先をふわりとくすぐる石鹸の香り。澄んだ薄花色の瞳がぱちりと瞬きをするのにハッとして、慌てて距離をとった。
「す、すみません!」
「いや、僕も……すまなかった」
タイミングが悪かったな、と苦笑している上司は大して気にしたふうもない。途端にひとり慌てている自分が幼稚に思えて、驚いた拍子に握り込んでしまった書類の皺を伸ばすふりをして俯いた。
*
今日は、降谷が久々に登庁する日だった。ひと通りの少ない小会議室を借りての打ち合わせ。前回から結構間が空いてしまったためそれなりの量になってしまった書類に目を通してもらっている間、自分は隣でチェック済みの書類を整理していた。
「……風見。ここなんだが──」
書類も残すところ後僅かになった頃、名前を呼ばれた。ここ、と示された箇所を読むために、身を寄せる。
「ああ。そこは、」
答えようとして、降谷に顔を向けた時だった。ふに、と柔らかい感触が唇に触れる。間の悪いことに、降谷が此方を向いたのと同じタイミングで、自分も顔を向けてしまったらしい。意図せず、降谷とキスしてしまったのだ。
どうにか目立たない程度に皺を伸ばした書類を渡しながら、改めて質問を受けた箇所を説明する。ちらりと横目で見た降谷は、平生となんの変わりもないように見えた。
……それもそうか。たかがキスだ。風見だって別に、これが初めてというわけでもない。悲しいかな、ここ数年はすっかり色っぽい話から遠ざかってはいるが、学生時代には人並みに彼女がいたこともある。降谷にとってもきっとこの程度、なんということもないのだろう。元々人目を惹く、うつくしいひとだ。キスなんて、数えきれないほどしてきたに違いない。なんなら唇と唇が軽く触れた程度、キスのうちにも入らないのかもしれない。
たかがキス。ただの事故。憧れのひととはいえ、降谷は同性の上司だ。相手が気にしていない以上、嫌ではなかったのだし、騒ぎ立てるほどのことでもない。
理屈では確かにそう思うのに、なぜだろう。さっきから脳裏に、間近に迫った降谷の顔と、唇に触れた乾いた熱が繰り返し浮かんで落ち着かない。わけもなくワーッと叫んで、ゴロンゴロンと床を転げ回りたい気分だ。
意味もなく書類の端を揃えながら、はやく時間が過ぎてはくれないかと心底願う。降谷といてこんなに落ち着かない気持ちになるのは、初めてのことだった。