現代陰陽師パロ③3.きみの香り
長い回廊を抜けて辿り着いたのは、本来の陰陽棟に比べればひとまわりもふたまわりも小さな仮の棟だった。
陰陽部門は陰陽寮の中でも最も古い歴史を誇るが、その分だけ庁舎の老朽化も進み、改修はもはや常態化している。
先月からの工事は一際大掛かりで、術者や事務官たちはこの仮棟へと移されていた。
見るからに急ごしらえの仕様だ。
削り出したばかりの木材の匂いが鼻を刺し、生乾きの漆の板壁に霊符が幾重にも貼られていた。
堂々たる正門を備えた本棟の厳かさとは似ても似つかないこの粗雑さが、却って人を拒むような異質な雰囲気を醸し出している。
そんな棟の入り口で、私はしばし、言葉を失って立ちつくしていた。
「──謁見は認められないって、どうして……?」
「あーしに言われてもなぁ。今日は誰も通すなって、上からの指示だからさ」
女だてらに狩衣を着こなした少女が、がしがしと後頭部を掻く。
「陰陽博士は、こちらにいらっしゃるんですよね?」
「んー……いるにはいるけど……」
少女の目線が、ちらりと横へ向く。
それを受けて、隣に控えていた長身の男がゆるりと笑った。
「ねえ、キミたち。ここに来るまでに、後家兼光には会ったかい」
質問に質問で返したこの男の首には、倶利伽羅竜の彫り物が覗いている。長い金髪が、昼下がりの陽を含んできらりと光った。
男の名は小竜景光──彼もまた、長船派の式神のひとりだ。
使役者はこの少女なのだろう。
ふたりの間には、並び立つのが自然だと言わんばかりの空気があった。
信房が言う。
「ごっちん? 会ったよ。螢惑星のことなら、何度聞かれても同じだって」
「それじゃ話は早いね。残念ながらその通りだ。──悪いが、お引き取り願おうか」
まだ何も言っていないのに、こちらの用件などお見通しのようだ。目尻の垂れた紫の瞳は一見柔和だが、その奥には、何もかもを見透かすような鋭さがある。
……だが、ここまで来て手ぶらでは帰れない。大包平様だって、報告を待っておられるのだ。
私は恐る恐る口を開いた。
「……今は、急を要する事態だと思うのですが……」
「フフ、悪いねぇ。通してやりたいのは山々だが、俺たちも門番を任されちゃってるからさ」
悪いとは全く思っていなさそうな声音だ。その隣で、少女がくわぁ、と猫のような欠伸を一つ零した。
「言いつけ破るとおっそろしいもんなー、博士って」
「へえ。キミも一応、上司を怖いと思うんだな」
「あ? 今のどういう意味?」
繰り広げられる軽快な応酬を前に、吐き出しそうになる溜息をなんとか飲み下す。
陰陽寮の連携の悪さは、内閣府外局の中でも随一だ。
いかんせん個性が強すぎる。有事の際にも、こうして各々がばらばらに動くので、同じ庁内でも動向が把握できない。結束なんて夢のまた夢だ。
「に、日時を改めればよろしいですか?」
思い切って踏み込んでみたところで、
「どうかな。うちの博士もなかなか忙しいからねぇ」
あっさりと、煙に巻かれてしまう。やはり長船の式神は苦手だ。ほとんど無意識に眉が寄る。
胸の奥で、焦げ付くような苛立ちが募る。
「……忙しいのは、大包平様も信房様も、同じです」
──しまった、と思った。
自分でも驚くほど、低い声が出てしまった。
口に手をやってもすでに時遅しだ。空気が一転してぴんと張りつめ、重い沈黙が肌にのしかかる。
湿り気を帯びた風が足元から這い上がり、袖をふわりと大きく揺らした。
「へえ」
ふ、と小竜景光の笑みが深まった。そして、口の中で飴玉を転がすように言った。
「……信房様。信房様、ねぇ」
紫水晶に似た瞳が、硬直する私を、逃げ場を奪うようにじっと見つめる。
「さっきから思っていたんだが──」
吐息混じりの声が、神経をざらりと不穏に撫でた。
そして、
「キミと彼は、同じ匂いがするね」
どっ、と心臓が強く跳ねた。
一気に口の中が乾いて、うまく舌が動かせない。
「そ……それは……」
まごついた次の瞬間、少女の素早い手刀が小竜の腹部を狙った。
すんでのところで小竜がそれを掴み取る。
チッと舌打ちした少女と、余裕の笑みを崩さない小竜が、互いに手に力を込めながらギリギリと睨み合っている。
「いきなり何するんだい」
「こっちの台詞じゃ。なに今の発言、セクハラじゃろ」
「せっ……ち、違う!」
「え? 違うの、おねーさん」
「い、いや、ちが、違わない、かもしれないけど……っ」
先ほどまでの緊張が、一瞬にして羞恥と動揺に塗り替えられる。
心臓の音ばかりが耳の奥で大きく響き、声が言葉にならず喉でつかえた。
ぽかんと目を丸くした少女は、「結局どっちなんだ」とでも言いたげにこちらを見ている。
けれど頭の中が真っ白で、何一つ逃げ道が思い浮かばない。
その時、不意に信房の腕が私の肩に回った。
「いや〜、ごめんね。ちょっと熱くなっちゃったみたいで」
「いえ。こちらこそ、うちの馬鹿がすみません。……小竜!」
「はいはい、悪かったよ」
固まった私を置いて進んでいくやり取りに、どんどん肩身が狭くなっていく。
「……信房様……」
そろそろと視線を持ち上げる。
他部門に喧嘩を売るようなことをしてしまったのだ。叱られることを、覚悟していた。
けれど見上げた先で、信房は、思っていたよりずっと優しい目をしていた。
その口元が穏やかに綻ぶ。
「分かってるよ。俺のこと、大好きなんだもんね」
爆ぜるような衝撃が脳内に走った。
遠くの方で、ひゅう、と軽い音がする。
それが小竜景光の吹いた口笛だと気づいたのは、たっぷり数拍遅れてからのことだった。
「……、は?」
「まあまあ、そういうわけだから。俺達はこれでお暇するよ〜」
「…………、はっ?」
「お幸せにー」
「そっちもね〜」
「だってさ」
「うるさい!」
もう、信房や彼女らが何を言っても、まるで耳に届かなかった。
抵抗する力も抜け落ち、ただ呆然と、肩を抱かれたままその場を後にする。
ようやく、はっと我に返ったのは、陰陽の仮棟を遠く離れ、中庭の影に立ってからだった。
「……あっ」
肩に置かれた手を慌てて払いのけ、一歩後ずさって距離を取る。
幸い周囲に人影はない。
けれど、先ほどの会話を思い出すだけで、鼓動が痛いほど荒ぶっていく。
「──なに、なんなの、今のっ」
声を上擦らせて抗議する私に、信房は肩を竦めた。
「大丈夫だよ。彼らは口外しない」
「そんなこと分からないでしょ……!」
「分かるよ。俺って、結構すごい術者だからさ〜」
それこそ、分かっている。
けろりと涼しい顔をした信房に何も言い返せなくて、私は唇を噛み、黙り込むしかなかった。
晩夏の日差しを避け、柔らかな木陰を進む。
半歩後ろの距離を、今度こそきちんと守りながら。
「……結局、何も情報が得られませんでしたね」
呟きが、木立に吸い込まれていく。
「いいや。収穫はあったよ」
「え?」
肩越しに振り返った信房は、柔らかく口角を吊り上げていた。
先ほどまでの優しさとは違う光が、瞳の奥に宿っている。
「やはり、陰陽部門は何かを隠している」
◇
こぽり。
海の底から浮上するように、男はゆっくりと目を開けた。
あぁ、と喉の奥から低い呟きが漏れる。
どこかから、焦がれるような匂いがするのだ。
けれど、その方角がわからない。
「……これじゃ、光って待つほうが目立つかもな」
そう独りごちながら、男は、緩やかに辺りを見渡す。
そして、
「拾いに来てくれるなら」
静かに笑った。