現代陰陽師パロ⑦7.一幕
辿り着いたのは、陰陽寮の敷地の隅にある藤の木の下だった。
何かがいる。
黒い靄だ。大木の根元に、うずくまるように靄が広がっている。妖の類いにしか見えないそれを指差し、依里さんは言った。
「この式神から、あなた達と同じ気配がする」
「……し……式神……? これが……?」
男、どころか人の形にすら見えないのは、信房との繋がりが切れかかっているせいなのだろう。結界が強まっているこの敷地内で、術者からの力の供給なくして霊が形を保つのは困難なはずだ。
「……信房」
私は、そっと傍らを仰ぎ見た。信房は答えずに、じっと靄を見つめている。やがて彼は静かに歩き出し、靄の前で片膝をついた。
「……昔、鬼の襲来があったんだ」
ぽつりと、信房が言った。
「依里ちゃんはまだ小さかったかな。魑魅魍魎が都に蔓延って、多くの術者と式神が犠牲になった」
「記録で読んだ。あの『百鬼夜行』だね」
依里さんの呟きに頷き、信房は、靄へと手を伸ばす。思わず肩が跳ねたけれど、靄には何の変化もない。
「俺の式神もたくさん消えた。……式神は死なない。だけど、術者との縁が途切れたら、現世にいることはできない。戦って、さらに彼らの顕現を保ち続ける霊力が、当時の俺にはなかった」
語りかけるような声だった。信房の指先から、少しずつ、柔らかな気が渡っていく。それに呼応するように、靄の中に微かな光が見えた。靄はだんだんと濃くなって、ヒトの輪郭をなしてゆく。
「ごめんね。笹貫」
信房がそう呟いた瞬間、ぱっと視界いっぱいに光が広がった。思わず閉じた目を、そろそろと開いた先には──木に背を預けた、一人の男がいた。
緑を一筋流した黒い髪に、信房とどこか似た瞳の色。ふ、と薄く笑みが広がる。軽やかなのに、穏やかで、とても優しい顔をしていた。
「……あぁ。そうか……古備前信房……」
噛み締めるような低い声が、じんわりと空気を震わせる。
「オレの戻りたかった場所は、ここだったのか」
「笹貫……」
「……はは。思い出してみれば、随分懐かしい顔だ……」
立ち上がった二人は、互いにじっと見つめ合う。そこに言葉はなくても、それ以上に通じあう何かが、彼らの間には確かにあった。
私は、信房と笹貫から、目が離せない。
「……おやー? お邪魔虫かな、ボクたちは」
肩を竦めた後家兼光が、二人を凝視する私を笑う。
「やきもち?」
「違う」
咄嗟に這うような声が漏れた。それが聞こえたのか、信房がぱっとこちらを振り向く。つられて、笹貫と呼ばれた式神の視線も私に向かった。見定めるような目を受け止めて、いや、むしろ探るように見つめ返す。
「……ねえ依里、これって修羅場?」
「ばかごち、ちょっと黙ってて」
「……えー、っと……やえちゃん……?」
こそこそ話す声や、やや気まずげな信房の声が遠くで聞こえる。それでも黙って見つめていると、笹貫も徐々に目を眇め──そして次の瞬間、「……あれ?」と小さく呟いた。
「違う」
私と笹貫が言ったのは、ほぼ同時だった。
「この匂いじゃない」と笹貫は言い、「信房じゃない」と私は言った。
不思議な沈黙がその場に満ちる。
「……んん?」笹貫は、やや混乱したように笑いながら、ぽりぽりと頬をかいた。
「おかしいな。オレは確かに信房の式神だったんだけど」
「そうですね。その名残はあります。でも」
「ああ。……オレが焦がれてきたのは、この匂いじゃない」
そう。笹貫の中には、確かに信房の気があった。けれど、馴染んでいるかといえば、ほんの僅かに違和感がある。それは、おそらく信房の式神である私だからこそ感じ取れる、一粒の砂のように細やかな機微だった。
式神と術者の契約は、式神の魂が術者に向いて初めて結ばれる。笹貫の心は、かつては信房のもとへあったのだろう。しかし、何故だろう、今は何かが違う。事態を見守っていた依里さんが眉を寄せる。
「……どういうこと? 笹貫さんは信房くんの式神じゃないの?」
「いや、悪い、正直オレも何が何だか」
そのときだった。
「見つけた」
鈴を転がすような声が響く。
全員が一斉に振り向いた先には、小さな影が立っていた。それは、その人は、
「……ゆいちゃん!?」
信房がひっくり返るような声を上げた。
古備前唯子──古備前家先代の、唯一の娘である。つまりは信房の妹だ。唯子様は、驚きに固まる兄の元へてくてくと歩み寄り、ぷくっと頬を膨らませた。
「ひどいわ、兄様。人のものを横取りしようとするなんて」
「よ……横取り? ゆいちゃん、何の話?」
「だから──」
小さな手が、きゅっと笹貫の袖を握る。
「彼は唯子が呼んだのです」
「……へ?」
笹貫の目が、きょとんと丸く膨らんだ。いや、笹貫だけではない。唯子様を除く全員が、一様に唖然として彼らを見つめた。
「……ね。笹貫」
唯子様は、私たちの戸惑いなどどこ吹く風で、うっとりとした瞳で笹貫を見上げている。
一方の笹貫も、呆気にとられた表情に、少しずつ赤みが差していった。
「す………すとっぷ! 一旦すとっぷ!」
二人に割り入るように信房が声を張り上げる。そして、むうっと顔をしかめた唯子様の前にしゃがみ込むと、言葉に迷いながら切り出した。
「……ゆいちゃん、笹貫を呼んだって、どういうこと?」
「その通りの意味ですよ。南西に、素敵なひかりが見えました。だからこちらにおいで、と呼んだのです」
南西──螢惑星が観測された方角だ。
「……惑星が示したのは、笹貫のことだったのか……?」
「? 唯子こそ、兄様が何を仰っているのか分かりません──とにかく、私が呼んだのよ。だから、笹貫は私の式神です」
彼女は、笹貫の手をきゅっと宝物のように握っている。ぐっと声に詰まった信房が、困ったように見上げた先で、笹貫はなんというか……変な顔をしていた。顔を染め、そのくせ眉を寄せて、にやけているような、込み上げる何かに耐えているような、そんな顔。
「……笹貫?」
「あー……どう、しようね」
甘いのか不穏なのか、よく分からない空気が立ち込める。そのなかで、「わかるなぁ、彼の気持ち」なんて後家兼光が頷いた。
「ようは一目惚れでしょ。ね、笹貫」
「っ」
「あはは、信ボー、そんなに驚くこと? 式神は術者に惚れ込むものだよ。ねえ?」
同意を求められて押し黙る私を見て、信房は一気に複雑そうな顔をした。依里さんがうーん、と顎に手を添える。
「つまり笹貫は、唯子ちゃんに呼ばれてここに来たんだね。でも、信房くんとの縁も完全に切れてはいない。環境的にも存在的にも不安定な状態だったと」
「そして今、彼は術者を選んだ」
「……つまり俺、フラれたってこと?」
ひそひそと話し合う後ろでは、完全に二人の世界に入った笹貫と唯子様が、互いを静かに見つめ合っている。先ほどの信房と笹貫とはまた違う甘い気配が、彼らを包みこんでいた。
「……あ〜……オオチャン、怒るだろうなぁ〜……」
はぁ、と重い溜息をついた信房の髪を、柔らかな夕凪がくすぐる。
「……まあ、いいんじゃない。似たもの兄妹ってことで」
微かに笑いながら、空を見上げる。いつの間にか、雲が赤く染まっていた。
かくして、螢惑星を巡る奇譚は、ひとまずの幕を下ろしたのである。
◇
螢惑星の騒動から数日後。
新装された陰陽棟で、松井江が紅茶を片手にほほ笑んだ。
改修工事が終わり、本棟は人や式神の気配に溢れている。
賑わいに混じり、ダージリンの上品な香りが、松井の座るデスク周りに漂っていた。
「──古備前の娘が才能を開花させたようだ」
「ああ……彼女、前から期待の星だったもんね」
隣で、しゃく、とクッキーをかじるのは松井江の術者である。「ところで」と、娘はやや居心地悪そうにキョロキョロとあたりを見渡した。
周りの職員から離れるように置かれた二人のデスクは、さながら小さな客間のようでもある。
「私達、いつまでここにいるの? 余計な詮索から身を守るため、って数珠丸様は仰ってたけど……」
「どうだろうね。僕はそれなりに満足しているよ、貴方と一緒にいられる時間が増えたし」
「そ、それは私も嬉しいけど……でも、あまりにも待遇が良すぎて、逆に落ち着かないっていうか……」
「ふふ。貴方は頑張り屋だからね。少しくらいゆっくり過ごしてもバチは当たらないさ」
そう言って、ふと、松井は首を傾げた。
「主。僕からも聞いていいかい。螢惑星のことだけれど」
「ん?」
「星が示していたのは、笹貫と古備前の娘のことだった──というのが、陰陽寮の一旦の結論のようだが……主はどう思う?」
クッキーを運ぶ指を止め、娘はぱちりと目を瞬かせる。そして、ふわりと笑った。
「そんなわけないよ。言ったでしょう? あの星は──」
◇
月のない夜を、青い狩衣の男が歩く。
辺り一面、塗りつぶしたような暗闇だ。男の瞳に宿る三日月だけが静かに煌めいている。まるで足元のみならず、遥か遠い行く末までを照らすように。
御堂の扉を開き、男は──三日月宗近は、朗々と言った。
「やぁ。待たせたな」
そこには、四人の男が集っていた。陰陽寮の四部門を束ねる博士達が、揺れる蝋燭に顔を照らされている。
「……遅い!」
「あっはっは、すまんすまん。暗がりで迷ってしまってな」
「……手短に済ませましょう」
「そうだな。鬼丸」
「案ずるな。鬼の気配はない」
ふ、と世界から音が消えたような静寂が下りた。
「……昨日から、また陰陽寮が賑やかになったな」
やがて、三日月が愉しげに放った一言に、大包平が溜息とともに頭を抱える。「そう妬くな。あれはいい式神だぞ」「良し悪しの問題ではない」──掛け合いが続きそうな気配に、数珠丸が一度ぱん、と手を叩く。
「そろそろ、本題に入りますよ」
「も……申し訳ありません」
大包平が、すぐさま佇まいを直す。ふっと口元を綻ばせ、三日月は、小さな窓から夜空を仰いだ。重い雲が立ち込める空には、僅かな星の光もない。
「ああ……久しいな、童子切──」
優しい囁きが、闇夜にたなびき、消えていく。
人影のない陰陽部門の仮棟には、真新しい霊符が、静かに夜風に揺れていた。