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    EAst3368

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    読みたくて自分で描いたささろシリーズ

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    ささろ2418パラレル/怪我の描写あり・中途半端で終わるので注意!/半年くらい放置していたので、もう続き書かないだろうな…という供養

    埋葬虫 「迎えに、来て」
     そう言った電話口の声がかぼそく震えていることに気が付いて、こちらも思わず息をひそめた。普段の、十代らしい若く生意気な口調からはほど遠く、幼い子どもが懇願するような、否、疲れ果てた罪人がとうとう告解室で口を割ったような弱々しい声色だった。
    「盧笙」
     つとめて優しく名前を呼ぶ。簓自身も冷静さを失いつつあった。悪い予感がする。大粒の雨が、アパートの窓を強かに殴りつけた。彼と初めて出会ったのも、こんな嵐の夜だった。
    「俺っ……」
     盧笙の呼吸が激しくなる。泣いているのかもしれないと勘付いて、心臓が早鐘を打ち出す。簓は無言で先を促した。
    「俺、……——した」
     告白の後に続いたのは、息を浅く吸う苦しそうな泣き声だった。
    「すぐ行くから、そこに居って。盧笙」
     簓は祈るようにもう一度名前を呼ぶと、電話を切った。


    §


     盧笙は母親に三つの嘘をついていた。
     一つ目、塾講師のアルバイトをしていると言ってあるが、本当は深夜の薬局で働いている。最低賃金すれすれアウトのバイト代を、賞味期限切れで廃棄になった菓子パンをタダで与えることで取り繕おうとする、今にも潰れそうなぼろぼろの薬局。二つ目、第一志望だった大阪大学には残念ながら力及ばず落ちた、と伝えているが、実は二次試験は会場にすら行っていない。滑り止めで受けた横浜の大学に行きたいがために、わざと落ちたのだ。実家を出る理由が欲しくてやったことだった。最後に三つ目、その横浜の大学にも、入学してからのここ二ヶ月まともに通っていない。受講登録のあと、初回講義には出たが、二週目以降は一度も出席していなかった。盧笙は授業が嫌いだった。大学へ行かない代わりに深夜までバイト先で働き、太陽が昇りきるまで眠り、図書館で本を読んで時間を潰し、次のシフトの時間になればまたバイト先へ向かうという生活を、振り子のように繰り返していた。
     今夜も例のごとく、盧笙は店の奥のレジカウンターから、十坪ほどの小さな店内を眺めている。四方の壁のうち左右の二面は埃を被った薬棚で埋まっていて、ただでさえ薄暗い店内へ一層陰気な影を落としていた。真ん中に鎮座する金属製のラックには、割高な価格が付けられた酒や菓子が雑多に積まれている。薬局と名打ってはいるものの、実態は医大崩れの店主が個人経営しているコンビニエンスストアで、長所といえば朝七時開店、深夜三時閉店と謳う営業時間くらいしかない。
     還暦の店主に代わって、夜間はアルバイト二人で店番をするはずだが、たいてい盧笙は独りぼっちだった。よく組まされる先輩が遅刻魔で、彼から毎回始業の二分前に掛かってくる電話の「ちょうど当たったとこだから遅れる」という言葉を受けて(彼はパチンコを打っている)、彼のタイムカードを代わりに切ってやるのが習慣だからだ。今日こそは一矢報いてやろうと「毎回三十分も一時間も遅刻されると困ります」と口ごたえしてみたものの、相手から返ってきたのは怒号だった。
    「うるせぇな、こんなクソみたいな天気で客なんか来る訳ないだろ」
     あながち間違いではない。外はバケツをひっくり返したような大雨で、盧笙が店に立ってから二時間が経過しても、常連の泥酔した老人がひとりビールを買いに来ただけで、閑古鳥が鳴いていた。先輩も現れる気配は無く、盧笙の言葉に機嫌を損ねたのか今晩はすっぽかす気らしい。
     暇を持て余した盧笙は、商品棚の整理を始めた。使用期限順に並び替える単純作業も、薄暗い店内の中では一苦労だ。眉間に皺を寄せながら、軽い薬箱を次々手前に送っていく。期限が近いものを最前列に置いているはずなのに、客がぐちゃぐちゃに入れ替えるせいで新しく仕入れた物から先に売れていく。頭痛薬、19年、19年、22年。年数が不自然に飛んだ。この店は万引きも多い。まったくうんざりする。盧笙はため息をつくと再びカウンター内の定位置に戻った。
     店内BGMの有線ラジオから、雑音混じりの洋楽が流れてくる。キミ無しで生きられないと運命が激しく血を流すどうたらこうたら。“運命が血を流す”?奇妙な歌詞に盧笙は首を傾げ、カウンターに体重を預けると自動ドア越しに闇へ沈む雑多な路地を見つめた。
     外には「pharmacy 薬局」と綴った青いネオン管が出ているが、蛍光灯のうち頭のpと末尾のacyの接触がイカれているせいで、 harm痛めつけるという薬局にあるまじき単語を皓々と掲げている。客が来ないのはこの看板のせいでもあるのかもしれない。雨が叩き付けるガラスに滲む青い光を眺めていると、客が一人、早足で入ってきた。
     また酔っ払いだ。棚の陰になって客からは見えないのを良いことに、盧笙はあからさまに顔をしかめた。客は捨て犬のようにずぶ濡れで、商品棚を支えにしながら千鳥足で店内を歩き回っている。青白い照明の下、ぽたぽたと水滴を垂らす鮮やかな緑色の髪がやけに眩しい。目の覚めるようなブルーのスーツに包まれた背を丸め、胸元には黒い布を抱えている。いかにも気分が悪そうに見えた。床に吐いてくれるなよ、と目で追っているうちに、盧笙は異変に気が付いた。男は商品を手に取るでもなく、ふらふらと盧笙の方へやってくる。まるで助けを求める子どものように。
    「だ、大丈夫ですか」
     ひっくり返った声で尋ねるのと、男が前のめりに崩れ落ちるのは同時だった。男は倒れる勢いのままレジカウンターに両腕をつき、かろうじて身体を支えた。
    「あのっ、大丈夫ですか?」
     その肩へ盧笙がおずおずと差し伸べた手を跳ね除けるがごとく、男が顔を上げた。
     月だ、と盧笙は息をのんだ。濡れた前髪の奥、落ち窪んだ目元の闇の中で、鋭く光る二つの金色。喉元にカミソリを突き付けられたように、盧笙は動きを止めた。
    「切り傷に効く薬」
    男が口を開いた。
    「切り傷に効く薬、ない?飲むんでも塗るんでも、何でもええ」
     生気のない唇から平坦な言葉が流れ出てくる。ほとんど表情を動かさずに話すので、真っ白な顔色も相まって、ギリシアの彫刻が喋り出したような不気味さがあった。
    「け、怪我してはるんですか」
    「うん。ジブン、痛いの怖い?」
     男が首を傾けたはずみに、頬から伝った雨滴がカウンター上の盧笙の拳へと落ちる。盧笙は思わず身体を震わせた。
    「こ、怖い、少し」
     少し、と付け足したのは見栄だった。男は口端を吊り上げると「ほな見せんどこ」と呟いた。そして咳払いとともに俯き、息を短く吐き出す。近くで見てみれば、男が胸元に抱えていた黒い布の正体は、丸めたコートだった。骨張った手で脇腹の辺りに押し当てている。錆びた鉄に似たにおいが鼻をつき、盧笙の鼓動は早まった。
    「それ、く、薬では治らへん」
    「病院嫌いやねん」
    「でも……」
     死んでまう、という不吉な言葉は飲み込んだ。盧笙の涙声に、男はまるで安心させるかのように笑って、カウンター脇の棚から水のボトルを無遠慮に引っ掴むと断りもなくキャップを捻った。一気に飲み干し「後で払うから」と床にボトルを投げ捨てる。白いリノリウムの床を空っぽのプラスチックがカラカラと音を立てて転がってゆく。盧笙はカウンター下の携帯電話に手を伸ばした。
    「きゅ、救急車呼ぶから」
    「なぁ、同郷のよしみで言うこと聞いてや、ツツジモリくん」
     微笑んだ男が掠れた声で言ったので、盧笙は目をまん丸に見開き、携帯電話を取り落とした。
    「な、何で、な、名前……」
     男が細い指で盧笙の左胸を指し示す。盧笙は咄嗟に名札を覆い隠したが、手遅れだった。その様子を見て男は声を上げて笑った——拍子に咳き込み——再びカウンター脇の水のペットボトルを手に取る。キャップを開けるカチカチという音を聞いた時、盧笙は思わず「あかん」と呟いた。男が手を止める。
    「あかん、喉乾くんは、血が出てるせいで、身体の水分が失われてるからや」
    「え?そーなん?」
     へらへらと青白い顔で笑う。こんな状態でどうしてのんきに立っていられるんや、と盧笙は顔をしかめた。その時、不意に小学生の頃の思い出が脳裏をかすめた——塾の帰り、街灯に照らされた歩道の隅に、一羽の雛鳥を見つけた時のこと。巣から落ちたのだろう、小さな羽を震わせ、アスファルトを少しずつ前に進んでいた。きっと助からない。盧笙はしばらくその小さな命から目を離せなかった。あの雛鳥を、結局俺はどうしたのか、覚えていない——手を差し伸べるべきだったのに。
     盧笙は目の前の男の顔をきっと睨み付けるとカウンターを飛び出し、商品棚からガーゼを掴み取った。何事かと立ち尽くしている男の元に駆け寄る。盧笙の剣幕に、男はぎょっとして一歩後じさったが、構わずに黒いコートを握る手を退けた。ずぶ濡れのチェック柄のシャツには、赤黒いしみが広がっている。盧笙はガーゼのパッケージを破り捨て、折り畳んだまま傷口に押し当てた。生身の人間の刺し傷を見たのなんて初めてだった。指先が触れる布地はひやりと冷たい。盧笙は震える両手に力を込める。男はされるがまま、ゆっくりと床に腰を下ろした。盧笙も男の正面に座り込む。
    「もっと強く押さえて……」
     顔を上げると、至近距離に男の顔があった。笑みを消した双眼が盧笙をじっと見据えている。男は目を離さぬまま、盧笙の手に自分の濡れた左手を重ね、傷口を押さえた。重なった肌から相手の体温を感じる。心臓が耳元にあるのではないかと疑うほどに鼓動がうるさい。目の前の、雨で濡れた唇から漏れる熱い呼気が、盧笙の頬を撫でた。背中をぞくりと駆け上る感覚に、慌てて両手を引き抜く。
    「もう自分で押さえられるやろ」
     早口で言い、いつの間にか床に落ちていたコートを拾い上げた。男が丸めて抱え込んでいたおかげで、スーツやワイシャツほど濡れてはいない。それを広げ、少しでも体温を逃さないようにと男の肩にかけてやる。そして壁際の薬棚から一箱抜いて男に向かって放り投げた。男は右手で器用に受け止める。解熱剤の箱をあらためると、人懐こい微笑みを浮かべた。
    「ありがとうツツジモリくん」
    「それでは治らんから、ほんまに病院行きや」
    「うん」
     男はカウンターに手をついて立ち上がり、犬のように髪を振って水を散らした。「お代ここに置いとくな」とスーツの内ポケットから取り出した紙幣をカウンターに置く。出口へ向かう足取りは、まだふらついていた。肩を貸すのは憚られ、ただ固唾を飲んで見守っている盧笙の前で男は立ち止まると、目を合わせてにんまりと笑った。
    「俺の命の恩人」
     月色の瞳が、暗闇に潜む猫みたいに輝く。魔法をかけられたように、盧笙の舌は凍りつき、返事をすることが出来なかった。男は喉元で低く笑うと盧笙から視線をそらし、大股で自動ドアを抜けて雨が降りしきる夜の闇へと消えていった。
     自動ドアが閉まる機械音が止んだ瞬間、盧笙は床にへたり込んだ。一思いに息を吐き出す。ずっと呼吸を忘れていたような気さえする。雨の音と有線ラジオのくぐもった音楽が耳に届いた。薬棚に手をついてゆっくりと腰を上げる。
     カウンターの上には、折曲がった一万円札が置いてあった。皺を伸ばそうと手に取ると、肖像画の部分が赤黒く塗りつぶされている。盧笙の指先にもべっとりと血が付いていた。
    「レジには入れん方がええな……」
     言い訳のように囁き、汚れていない面が外側になるように小さく折り畳んでポケットに入れた。
     その時ふと、一万円札の下にもう一枚紙切れがあったことに気が付いた。月白色の紙片を取り上げてみれば、名刺のようである。会社名は無く、中央にダークグレーの細い活字で、“相談役”という肩書きとともに名前だけが刻まれている。
    「白膠木、簓」
     盧笙は呟いた。名刺の裏面には電話番号と思しき十一桁の数字が印字されている。彼はこれをわざと置いていったのだろうか。どうして?盧笙はその場にしばらく立ち尽くしていた。
     悪夢のような出来事だった。得体の知れない、まるで亡霊のような男だった。床に残る水溜まりと、血のついた一万円札、そして名刺だけが、彼が実在する人間だったという証拠として残された。
     ひょっとして、俺はとんでもない男を助けてしまったのかもしれない、と床の血と雨水をモップで拭き取りながら盧笙はぼんやりと考えた。きな臭い事柄に関わってしまった後悔が頭の中を埋めつくしていたが、片隅でちりちりとくすぶる感情——高揚感と喪失感もあった。獣のような冷たい瞳、重ねられた広い手のひらの温度、それから浅く繰り返す熱い呼吸。思い返せば、なぜか目元にぶわりと熱が集まった。忘れられそうにない。盧笙は手の中のモップの柄をきつく握りしめた。

     あの初夏の夕暮れ、いつまで経っても帰宅しない幼い盧笙を心配した母親は、息子を探しに家を出た。橙色から藍色に変わる夕陽の下、通学路を早足で進み、とうとう死にかけの雛鳥の前に屈み込んでいる息子を見つけると、駆け寄ってその小さな手を強く引いた。息子は驚いたように振り返る。瞳には涙が浮かんでいた。
    「やめておきなさい、住んでいる世界が違うんだから」
     母親はたしなめた。まだ名残惜しそうに雛鳥を振り返る息子に語調を強める。
    「お別れの時に悲しむのは、あなたの方」


    §


     初夏の陽射しがアイスコーヒーのグラスのふちに反射する。盧笙は白いプラスチック製の椅子から腰を軽く浮かせて持ち上げると、熱されたウッドデッキの上をパラソルの陰へとじりじり移動した。グラスの中の氷がカランと鳴る。手元の文庫本は、もう訳者あとがきのページに差し掛かろうとしていた。顔を上げれば、陽炎の向こう、広場の真ん中にある石造の噴水の周りへ、ほとんど裸になった子どもたちが群がって行くのが見える。十五分ごとに水が高く噴き上がるのを目当てに集まっているのだ。この光景ももう見飽きた。カフェのテラス席で、盧笙は待ちぼうけを食っている。約束の相手は、白膠木簓だった。
     あの嵐の夜から一週間が経っても、簓のことが頭から離れなかった。バイト中は店先に緑の髪や青いスーツが現れやしないかと気を揉んだし、日課の読書にもろくに集中出来なくなったうえに、四六時中彼のことを考えているせいで夢にまで見る始末で——簓が雨の中をこちらに駆け寄ってきて、身をかがめて盧笙の傘の中へ入ってくる夢だ——自分自身にうんざりするほどだった。
     彼が無事生き延びたか、ということが何よりも心配だった。応急処置ともいえない状態で簓を送り出してしまった。冷たい雨の往来で、生き絶えやしなかっただろうか。病院まで辿り着けたのだろうか。今や簓に対する感情は、あの夜に感じた恐怖よりも憐憫が勝っていた。彼はいつもあんな風に酷い怪我をしているのだろうか、その時に頼れる相手は居るのか——数日間ぐるぐると考え続けた結果、盧笙はとうとう財布に手を伸ばした。大切にしまっておいた、彼の名刺を取り出すために。
     自室のベッドの上で、緊張に震える手で電話番号を押したのは昨日の夜のことだ。永遠にも思われた呼び出し音が止まると、ザーという雑音が耳に届いた。電話は繋がっているようだが、相手の声は聞こえてこない。盧笙は恐る恐る口を開いた。
    「もしもし?」
    「……誰?」
    氷のような声に、背筋が冷たくなる。
    「つっ、躑躅森。て、店員の」
    電話を掛けたことへの後悔が押し寄せ、言葉が詰まった。あがると単語の頭でどもる自分の癖が出てしまったことに気が付いて、一気に顔が熱くなる。やや沈黙が流れた後、相手が笑ったのか空気の震えるくぐもった音がした。
    「ああ、あの時の?なーに?なんでこの番号知っとるん?」
    いくぶん和らいだ態度に安心したのと、その返答にがっかりしたのとで、肩の力が抜けた。
    「名刺、置いてってくれたから……」
    盧笙が自信なさげに答えれば、「え?そうやったっけぇ?」と間延びした声が返ってくる。なんや、意図して置いていってくれた訳やなかったんか。ここ数日間、風船のように膨らましていた期待から、間抜けな音を立てて空気が抜けてゆく。盧笙は気まずそうに唇を引き結んだ。
    「で、ツツジモリくんは、俺に何の用?」
    「えっ?」
    簓の問いに対して、盧笙は言葉に詰まった。怪我の具合はどうか、と尋ねるのが目的だったが、向こうから用件を尋ねられて出鼻を挫かれてしまった。それに簓はどうやら元気そうである。そもそも向こうに再び連絡を取る意図は無かったのに、こちらから勝手に連絡した形だ——何か正当な理由が無ければ、酷く恥ずかしいように思われた——一方的に俺が電話したかったみたいやないか——
    「ご、五百円」
    盧笙の口が意志に反して勝手に動き出した。
    「会計、五百円、足りんかった」
    もちろん真っ赤な嘘である。価格を上乗せして売っている店とはいえ、ガーゼと解熱剤に水のボトルで一万円を超える訳が無い。簓も不審に思ったのだろう、返事はなく黙っている。盧笙は目の前の枕に顔をうずめて叫びたい気分になった。
    「ふーん、ほなツツジモリくんが俺の代わりに五百円払ってくれたん?」
    簓がのんきな声色で言った。盧笙はぽかんと口を開けたが、慌てて返事をする。
    「お、おう」
    「あらぁ、借金やんなあ。返した方がええか」
    「うん」
    「利子つかんうちに返すわ!明日会える?」
    会える、と盧笙が返すと、簓はすぐに待ち合わせ場所と時間を指定してきた。盧笙はよろめきつつ立ち上がって机の上に広げたままだったノートにメモを取る。こんなにあっさりと再会の約束が取り付けられるとは思ってもみなかった。
     簓の「ほなねー」という陽気な挨拶を最後に、電話は切れた。通話終了の短い電子音を合図に、盧笙は勢いよくベッドに倒れ込む。我ながらとんだ嘘をついたものだと恐ろしくなったが、仰向けになって待ち合わせのメモ書きを眺めているうちに、明日には簓にまた会えるのだという実感が湧いてきて、盧笙の心は踊ったのだった。

     しかし、この待ちぼうけである。待ち合わせの時間をいくら過ぎても簓が現れないので、盧笙は自分が時間か店を間違ったのではないかと不安になってきた。約束の時間からもう三時間が経とうとしている。いくらなんでも遅すぎるのではないか。
     盧笙の心に新たな不安が影を落とした。手元の文庫本を静かに閉じて、足先をそわそわと動かす。
     ——もしかして、またどっかで怪我してるんちゃうやろな。
     その時、耳に飛び込んできた子どもたちの歓声に、はっと顔を上げた。噴水から白い水柱が天高く伸び上がり、霧とともに空中で太陽の光を浴びて輝くと、シャワーのように地面へと一斉に降り注いだ。水が落ちるザバンという快い音に盧笙は瞬きし、次に目を開けた瞬間——噴水の向こうに青いスーツ姿の男を捉えた。男はポケットに手を入れて、大股でこちらに向かって歩いてくる。彼が近付くにつれて盧笙の鼓動も速くなる。
    「どうもォ、借金取り立て屋さん」
    簓は盧笙の前に立つと、狐みたいな笑顔で言った。真っ青なスーツの輪郭を陽の光が滑ってゆく。最後に会った時よりいくぶん顔色が良いものの、目の下には薄く隈が見えた。盧笙は黙ったまま軽く会釈して答える。簓は六月の陽射しの下でもツーピーススーツを鎧のようにまとい、席に着く時も決してジャケットを脱ごうとはしなかった。
    「待った?」
    愛想良く尋ねられ、思わず盧笙の眉間に皺が寄る。
    「三時間くらい待った」
    「俺なら帰るけどな、そんだけ待たされたら」
    簓は細い脚を組んでへらへらと笑う。パラソルの影に入ると、彼の少しやつれた白い頬は一層青ざめて見える。常に貼り付けている笑顔もどこか悲しそうに感じられて、盧笙の中にあった遅刻への苛立ちはたちどころに消えてしまった。
    「いや……事故とかに遭ってなくて、良かったわ」
    盧笙が頬を緩ませて口にしたのは本心だった。簓は一瞬だけ目を見張ったが、すぐに片眉を吊り上げて乾いた笑いを漏らすと、テーブルに左肘をついて手のひらで顔半分を隠すようにして俯いた。
     昼下がりの暖かなそよ風が広場の木々を揺らし、新緑の葉と同じ色をした簓の前髪もわずかにゆらぐ。簓は細い指の隙間から盧笙を見上げると首を傾げた。
    「何食うたん?」
    テーブルの上の皿には、パンくずが乗っている。
    「サンドイッチ」
    「それは?」
    「アイスコーヒー」
    「美味い?」
    「……うん」
    返答にはやや間を置いた。背伸びして飲み慣れないブラックコーヒーを頼んだことを見透かされたような気がしたからだ。簓は氷が溶けて薄茶色になっているグラスから視線を外すと、背もたれに背中を預けた。
    「俺も何か食べようかな。朝メシに」
    「もう昼やで。さてはお前さっき起きたんか?」
    「バレた?」
    簓は歯を見せていたずらっぽく笑う。夜と昼とでは、彼の印象はだいぶ違って見える。
    「デザートいる?遅刻のお詫び」
    「……プリン」
    盧笙がぼそりと答えると、簓は「りょーかい」と歌うように言ってカフェの店内へと入っていった。盧笙の目は、テラスのガラス窓越しにその背中を自然と追ってしまう。混み合った店内でもその痩身は際立って見える——俺の目にそう映るだけだろうか?店員に気安い様子で注文している後ろ姿を眺めながら、盧笙は薄まったコーヒーを啜った。
     戻ってきた簓がテーブルの中央に置いたトレーには、プリンとクリームソーダのグラスが乗っていた。丸いアイスクリームが浮かぶグラスを簓が何の躊躇いもなく手にしたのを、盧笙は少し意外な気持ちで見つめる。てっきりホットコーヒーを飲むものだと思い込んでいた。
    「好きなん?」
    それ、と盧笙は指をさして尋ねる。
    「うん、好きやで」
    赤と白のかわいらしいストローから口を離して、簓は頷いた。盧笙はぱちぱちと瞬きし、簓の笑顔と、鮮やかな緑の泡がきらめくグラスを見比べる。
    「自分と似てるから好きなん?」
    「へ?」
    「みどり」
    指摘された簓は不思議そうに指先で自分の前髪を軽く引っ張って、笑みをこぼした。
    「じゃあプリンも自分と似とるから好きなん?」
    「どこがやねん」
    「甘くて柔らかいところ」
    簓はグラスを置くと、頬杖をついて盧笙を見つめる。薄い瞼の間から覗く瞳は、夜と違って昼間はレモネードのように淡い。簓の目を見ていると、腹のあたりを誰かにくすぐられているみたいで落ち着かなくなる。自分の頬がみるみる紅潮していくのが分かった。簓は喉元で息をすばやく転がして笑った。
    「ツツジモリくん、かわええな」
    揶揄われていると気が付いたが、気の利いた返しも反論も思い付かず、赤面を誤魔化すために思い切り顔をしかめる。胸が波立っているのは悔しさだけが理由ではない。くすぐったさに手の甲で鼻先をこすって、盧笙はうなるように言った。
    「盧笙」
    「ん?」
    「下の名前!躑躅森くん、なんて慣れてへんから違和感しかないわ」
    簓はまばたきすると、満足げな笑顔を浮かべた。
    「そうかそうか!ほなロショーって呼ぶな」
    簓は白く整った前歯でストローの先を噛み潰した。行儀が悪い仕草でも、彼がするとちっとも嫌な感じがしないのが不思議だった。
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