酩酊「酩酊状態ってどんな事を言うの?」
グラスの縁をたどりながら、ムルが笑った。魔法舎にあるシャイロックのバーでは、いつものように騒がしい常連客が来店中だった。酩酊、と繰り返してグラスを拭いたシャイロックに、ムルはもう一度問いかける。
「そう!シャイロックは?なったことがある?」
「あなたと話しているといつもそうなりますよ」
「じゃあ今も酩酊している?していない時のシャイロックってどんな感じ?」
「二日酔いが一晩に何遍も来ます。思考能力も衰えますね」
「俺も酩酊できる? 思考が何もできなくなるくらいの!」
「残念ですが、あいにく、酩酊状態につき思考能力が低下していますのでお答えしかねます」
会話を遮るように皿を出せば、ムルは猫のように笑う。ふふ、と彼にしては控えめな笑顔と共に、グラスの酒をそっとシャイロックへとかざしてみせた。
酩酊状態、という言葉をどこからムルが聞いてきたのかは知らないが、どうせ碌でもないーー否、常人には理解も了承もできないことを考えているのだろう。
その一端をシャイロックは知らない。分かろうと努めているけれど、稀代の天才は天体に恋して遠ざかっていく。
言葉を交わすことが嫌いなわけではない。瀟洒で小粋なやりとりは、酒場の領主としての嗜みだ。
それはムルに対しても例外ではなく、時間が過ぎれば過ぎるほど、彼の事を理解できなくなる。
今晩のこれもその類だろう。努めて冷静に、いつも通りを演じれば演じるほど、ムルは楽しそうに笑う。シャイロックはいつも変わらないね、まるでそういう演技をしているみたい。見透かした言葉に牙をむく自分を抑え込む。
「賢者様がね、今酩酊状態なんだって!」
「は?」
だが、それは、脈絡のない一言で打ち破られてしまった。ムルは指先でいくつか小さな花火を打ち出している。酩酊状態!と緊張感のない声で言われて、シャイロックは眉を顰めた。
「北の魔法使いとルチルの飲み比べに参加してたんだって!さっきミチルが真っ青な顔して廊下を走ってた!」
ムルの瞳がパッと開く。猫のようにふざけていた彼とはまた違う表情が垣間見える。偉大な知恵者の片鱗をのぞかせる視線を受けて、シャイロックはグラスから手を離す。あまりにも握りしめすぎていたせいで、ひびが入りそうだ。
「それを私に伝えてどうしようと?」
「事実を述べただけ! 何をされられると思った?」
「一大事でしょう。賢者様で何を遊んでいるんですか。賢者の魔法使いが聞いて呆れますね」
「思考能力が低下しているのに随分冷静なんだね、シャイロック」
「最低限の倫理観だけは保たれていますからね」
カウンターからでながら、シャイロックはバーの電気を落とす。急に暗くなった部屋から出ると、そのまま扉にかかったプレートをひっくり返して、ムルを追い出すと同時に鍵をかける。
「酩酊状態のシャイロックは突然お店を閉めるんだね」
「ええ、思考能力が低下しているので、小粋なお話ができませんから」
「賢者様のことだからって焦っている?」
「ムル。北の魔法使いたちが今頃外で花火を打ち上げている頃でしょう。いってきては?」
「酒に花火に北の魔法使い?めちゃくちゃで面白そう!」
嗜めるような口調で、話をすり替えた時点で、ムルの言っていることは図星ということだ。自覚があるだけ、まだましだろう、と言い訳にもならない言葉を言い聞かせる。
「魔法舎で女性が自分1人だという自覚はあるんでしょうか、賢者様は」
だからと言って特別扱いをするつもりはないが、ここの魔法使いたちは時々彼女に対して雑なことがある。何せ、着替え中にノックもしないで入ってくるようなものもいるくらいだ。
はあ、と大きく息を吐き出してシャイロックは少しだけ歩を早める。遠くからはムルの楽しげな声が聞こえていた。